まだ湧いていない場所
四か所を回るのに、六日かかった。
中野の小学校、江戸川の小学校、府中の小学校、葛飾の保育園。
どこにも、まだ何も出ていない。
何も出ていない建物に「防除に入らせてください」と言うのが、どれだけ難しいかを、私は六日かけて思い出した。
最初は区役所に行った。
中野区の環境衛生課で、私はノートの写しを見せた。
「加納さん、これは何の資料ですか」
「亡くなった方の手帳です」
「亡くなった……ええと、警察の?」
「警察は動いていません」
「では、うちも動けません」
担当者は本当に申し訳なさそうだった。悪い人ではない。
「仮にですよ。仮に、これから魔物が出るかもしれない、という話だとして。うちには『出る前』の予算科目がないんです」
「出たあとの科目はありますね」
「あります」
「出るまで待てということですか」
「……そう言われると困るんですが、制度としては、そうです」
次に、学校に直接行った。
中野の小学校の校長は、六十前後の男だった。話を三分聞いて、こう言った。
「業者さんが、飛び込みで営業に来られたということですか」
「営業ではないです」
「ですが、費用は」
「うちが持ちます」
校長の顔が、そこで曇った。
人は、ただより高いものはないという言葉を、体で覚えている。
「加納さん。うちは公立です。無償で業者さんを入れると、あとで議会に説明できません」
「そうですか」
「それに、まだ何も出ていないんですよね」
「出ていません」
「……申し訳ないですが」
江戸川も断られた。
府中は、校長が不在で会えなかった。
葛飾の保育園は、園長が話だけは全部聞いてくれた。
聞いてくれたうえで、こう言った。
「加納さん。うち、保護者に何て説明すればいいですか」
「説明しなくていいです。休みの日にやるので」
「隠れてやるほうが、まずいんです」
それは、そのとおりだった。
私は園庭を見た。
砂場と、遊具と、大きな木が一本ある。木の根元に、落ち葉が積んであった。
落ち葉の山は、餌と水と隠れ場所の三つを、一度に満たす。
「園長先生」
「はい」
「あの落ち葉、袋に入れて、明日出してください」
「落ち葉ですか」
「ただの落ち葉です。それだけで、だいぶ違います」
園長は園庭を見て、それから私を見た。
「……お金、かからないんですね」
「かからないです」
「加納さん。それ、今度から毎月やります」
それが、六日間で一番の成果だった。
軽バンの中で、すずが助手席の背を蹴った。
「おかしいです」
「おかしいですね」
「四人死んでからじゃないと動かないってことですよね。制度って」
「四人も死にません。子供は小さいので、一人目で大騒ぎになります」
「余計ひどいです、それ」
三隅が後ろから言った。
「加納さん。俺、ギルドにいたときは、これ、当たり前だと思ってました」
「何がです」
「出てから行くの。出てないところに行ったことなんて、一回もないです」
私はエンジンをかけた。
「出てないところに行くのが、うちの商売です」
すずが窓の外を見たまま言った。
「加納さん。私、前の職場で、予防研究は評価されないって言われてました」
「はい」
「起きなかったことは、論文にならないんです。何も起きなかったっていう結果は、誰も読まない」
「うちも同じです」
「同じなんですね」
「起きなかった現場の請求書は、一番安いです」
「でも、誰も入れてくれないですよ」
「一件だけ、入れてくれました」
中野の小学校の教頭が、翌日に電話をくれた。
校長ではない。教頭だった。
「加納さん。うちの学校、給食室の排水が去年から匂うんです」
「はい」
「それ、点検ということならお願いできますか。点検なら、予算があります」
私は少し笑った。電話なので、たぶん伝わっていない。
「できます」
排水の点検は、三万円でやった。
そして、点検のついでに、七箇所を塞いだ。
給食室の貫通部が三、配膳室が二、体育館の渡り廊下の下が二。
どこにも、何もいなかった。糞もない。脱皮殻もない。まったくの空振りだった。
教頭が、作業の終わりに聞いた。
「加納さん。何か、出ましたか」
「何も出てません」
「そうですか。じゃあ、うちは大丈夫なんですね」
「今は大丈夫です」
「今は」
「はい」
私はコーキングガンを片付けた。
「何も出てませんが、出る形にはなってました。塞いだので、しばらくは形がなくなります」
「……あの、正直に言うと」
教頭は少し言いにくそうにした。
「何も出ていないのに三万円って、私、稟議で説明しにくいんです」
「そうでしょうね」
「もし出ていたら、いくらでした」
「この規模だと、百二十万円からです」
教頭が黙った。
「出てないうちが、一番安いんです」
彼はその日のうちに、稟議を通したらしい。
塞いだ七箇所のうち、五箇所目のとき、教頭が横に立って見ていた。
「加納さん、これ、何を入れてるんですか」
「金網です。その上からウレタンで固めます」
「ウレタンだけじゃ駄目なんですか」
「齧られます。ウレタンは柔らかいので」
「齧るんですか」
「齧ります。柔らかいものは、全部齧ります」
教頭は自分の靴を見た。
「……うちの体育館、マットが去年からよく破れるんですが」
私は手を止めた。
「それ、あとで見せてください」
府中で湧いたのは、その二日後だった。
朝の九時に、久住から電話が来た。
「加納さん。府中の小学校です」
私は靴を履いていた。
「怪我人は」
「用務員が一人。腕です。命に別状はない」
「体長は」
「四十センチ台が三体、討伐済み。ギルドが入ってます」
私は電話を耳に当てたまま、動けなかった。
「加納さん」
「はい」
「うち、動けないと言いましたよね」
「言いました」
「動きます」
彼の声が、初めて仕事の声になった。
「先週、あなたが持ってきた四か所のうち、三か所は何も起きていない。一か所だけ起きた。その一か所は、あなたが行こうとして断られた場所です」
現場に着いたのは、昼前だった。
規制線の内側に、ギルドの車が三台。班が出ている。
私は入れなかった。指定業者の身分証を見せても、担当が違うと言われた。
柵の外から、校舎を見た。
給食室の位置は、図面で覚えている。北の端だ。
そして、いま職員が出入りしているのは、南の校舎だった。
「加納さん」
すずが私の腕を掴んだ。
「南です。南校舎です」
「見えてます」
「私たちが塞ごうとしたのは、給食室ですよね。餌があるから」
「そうです」
「なんで南なんですか」
私は柵を握った。
南校舎の一階は、図書室と、理科室と、印刷室だ。
餌がない。水もない。
置くなら、あそこは選ばない。
——あそこを選ぶのは、防除屋が塞ぎに来ない場所を知っている人間だけだ。
「戸田さん」
「はい」
「うちが四か所のうち、中野を先に選んだのは、いつ決めましたか」
彼女の顔から、色が引いた。
「……先週の、火曜の夜です」
「どこでです」
「事務所です」
「誰がいました」
すずが答えるより先に、三隅が言った。
「俺と、戸田さんと、加納さんです」
私は柵から手を離した。
「あと一人います」
その日の夕方、私はギルドに出した書類の控えを開いた。
府中の小学校の名前が、四番目に書いてある。
受理印が押してあった。
押したのは、沢渡だった。




