事故ではない
所轄の警察署で、私は二時間待たされた。
出てきた刑事は、錦糸町のときと同じ人だった。四十代半ばで、髪が硬い。名前は久住といった。
「加納さん。うちは、これを事件として扱えません」
「そうですか」
「秩父の迷宮内での死亡です。現場は山梨県境に近い。管轄が入り組んでるうえに、迷宮内の事案はギルドが一次処理をします。うちに回ってくるのは、ギルドが回した分だけです」
「回ってきましたか」
「来てません」
久住はお茶を出さなかった。出す気がないのではなく、忘れているようだった。
「単独入坑は規定違反です。違反者が死んだ場合、ギルドは事故として処理します。三十年、そうしてきました」
「年に何件ありますか」
「単独入坑の死亡ですか。……去年で十一件です」
「十一件、全部事故ですか」
「全部事故です」
久住は指で机を一度叩いた。
「ご不満はわかります。ただ、うちが動くには、少なくとも遺体が管内で見つかる必要がある」
「わかりました」
私は立ち上がりかけて、座り直した。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「検死の写真は、誰が見られますか」
「遺族です」
「遺族がいない場合は」
「……ギルドの担当部署と、うちの照会があれば」
久住が初めてこちらをまっすぐ見た。
「加納さん。ご専門は」
「ゴキブリです」
彼は三秒ほど黙った。
「……はい?」
「害虫防除業です。二十年やってます」
「ゴキブリの人が、なんで死亡事案を」
「死んだ人が、うちの現場に卵を置いてたからです」
久住は、ボールペンをゆっくり置いた。
それから、メモ帳を開いた。
「もう一度、最初から言ってください」
「どこからです」
「その、卵からです」
私は三十分かけて説明した。
久住はほとんど口を挟まなかった。挟んだのは二回だけだ。
一回目は「卵鞘というのは、一つで何匹ですか」。
二回目は「その理屈は、ゴキブリでも同じですか」。
「同じです」
「……私、家でゴキブリを見たら、スリッパで叩いてました」
「叩いても、卵は残ります」
久住はメモ帳を閉じた。
「加納さん。今の話、うちでは動けません。それは変わりません」
「わかってます」
「ただ、私個人は、聞きました」
彼は名刺を出した。
「何か出たら、ここに直接ください。動けないなりに、置き場所は作ります」
写真は、三日後に郁が持ってきた。
謹慎中の身で、どうやって取ったのかは聞かなかった。
事務所の机に、A4の複写が十二枚並んだ。
三隅が一枚見て、席を立った。戻ってこなかった。
三隅は十五分後に戻ってきた。缶コーヒーを四本持っていた。
一本ずつ配って、自分の分を開けずに机に置いた。
「すみません」
「いいです」
「俺、遺体の写真、初めてじゃないんです。冒険者のときに二回見てます」
「そうですか」
「二回とも、仲間でした」
彼は椅子に座った。
「それでも、慣れないです」
「慣れる必要はないです」
すずは動かなかった。白衣を着ていないのに、手つきだけが研究者のものになっていた。
「創は、左肩から胸です」
「一撃ですか」
「一撃です。甲殻種の前肢だと思います」
彼女は写真を拡大鏡で追った。
「創縁が、きれいすぎます」
「きれい」
「抵抗がないです。防御創がありません」
郁が腕を組んだ。
「B級が、正面から一撃を受けて、防御もしないってこと?」
「寝てたか」
私は言った。
「動けなかったかです」
私は十二枚目で止まった。
全身の写真だった。
深沢和樹は、作業ズボンと、迷宮用のジャケットを着ていた。
足元が写っている。
「班長」
「なに」
「これ、何ですか」
私は靴を指した。
白い、合成皮革の運動靴だった。底が平らで、溝が浅い。
郁が写真を引き寄せて、二秒で顔色を変えた。
「……嘘でしょう」
「B級が履く靴ですか」
「履かない。絶対に履かない」
彼女は自分のブーツを指した。
「迷宮の下りは、濡れた岩の斜面よ。その靴で四十メートル降りたら、二十メートルで滑って死ぬ」
「二十メートルで済みますか」
「済まない」
私は所沢のアパートのことを思い出していた。
玄関の前に、泥の付いた登山靴が一足、置いてあった。
波型の深いソール。爪先の外側だけが減っていた。
あれが、この人の靴だ。
「靴は、家にありました」
部屋が静かになった。
「加納さん」
すずの声が震えていた。
「この人、迷宮に入ってないです」
「入ってないです」
「じゃあ、どこで」
「わかりません」
私は写真を集めた。
「ただ、死んでから運ばれてます。四十二メートルまで」
もう一つ、すずが見つけた。
ジャケットの襟の内側に、黒い粉が付着していた。写真では豆粒ほどの大きさだ。
「これ、川崎の箱の底にあったのと同じだと思います」
「卵鞘の殻ですか」
「たぶん。本物が見たいです」
「証拠品です。触れません」
「わかってます」
彼女は写真を睨んだ。
「でも、粉が襟にあるってことは、荷台に寝かされてます。顔を上に向けて」
郁が壁を見ていた。
「……車が、アパートにあったのよね」
「ありました」
「なら、別の車で運ばれてる」
「運んだ人がいます」
私は椅子に座り直した。
「その人は、四十二メートルまで降りられます。遺体を担いで」
「A級ね」
郁が言った。
「B級じゃ無理。私でも、担いだら一時間かかる」
彼女は自分の手を見ていた。
「国内に四十人いない」
深沢和樹の部屋に入ったのは、その翌日だった。
管理会社の立ち入りに、私が同行を申し出た。害虫の可能性があるので、と言った。嘘ではない。
六畳と、四畳半。荷物は少ない。
冷蔵庫の中は空だった。流しに、カップ麺の容器が三つ。
押し入れの下段に、発泡スチロールの箱が二つあった。中身は空だ。
机の上に、ノートが一冊置いてあった。
私はそれを開いた。
罫線のノートに、鉛筆で表が書いてある。
日付、地名、建物の種類、そして数字。
私は自分の手帳と並べた。
神田。板橋。川崎。錦糸町。練馬。
全部あった。
数字は、卵鞘の個数だった。
「加納さん」
三隅が後ろから覗き込んだ。
「これ、下に、まだ続きがあります」
私はページをめくった。
最後のページに、五行だけ、日付のない行があった。
地名と、建物の種類だけが書いてある。
一行目、中野。小学校。
二行目、江戸川。小学校。
三行目、府中。小学校。
四行目、葛飾。保育園。
五行目だけ、建物の種類が空欄だった。
地名は、こう書いてあった。
——志渡
三隅がノートを覗き込んだ。
「しど? どこですか、それ」
「千葉です」
答えたのは、郁だった。
「二番目の迷宮が出た町。三十年前に放棄されてる。今は誰も住んでない」
「誰も住んでないなら、なんで書いてあるんですか」
誰も答えなかった。
私はノートを閉じた。
閉じてから、表紙の隅に、鉛筆で小さく書かれた数字に気づいた。
日付だった。
九月十四日。
深沢和樹が死んだとされている日の、二日後だ。
死んだあとに、ページが増えている。
「班長」
「なに」
「このノート、書いた人は、もう一人います」




