運び屋
すずの分析は、三日かかった。
大学の機材はもう使えない。彼女は予備実験の名目で、矢代教授の残っていた研究費を最後まで使い切った。
「加納さん。出ました」
事務所の机に、紙を三枚並べる。
「消化管の中身、四件ぶん比べました。神田、川崎、練馬、それと錦糸町」
「はい」
「四件とも、初期の個体からだけ、同じ菌が出てます」
「初期の個体」
「一番古い卵鞘から孵ったやつです。二世代目からは出ません。現地の餌に切り替わるので」
彼女はペンで、紙の一行を囲った。
「この菌、三か所の迷宮にしかありません。しかも、深度四十メートル以深です」
「三か所」
「新宿、千葉、秩父」
私は東京の地図を出した。
すずが赤い点を四つ打った。神田、川崎、練馬、錦糸町。
それから、三つの迷宮に印を付けた。
「加納さん。四件とも、秩父由来です」
「距離は」
「秩父から神田まで、車で二時間弱です」
私は地図を見ていた。
二時間。
卵鞘を採って、車で運んで、桝に置いて、錠をかける。一日の作業だ。
「戸田さん。秩父の迷宮、誰が管理してます」
「ギルドの秩父出張所です。三年前に、支部から出張所に格下げになってます」
「なんで格下げに」
「産出量が落ちたからです」
彼女は別の紙を出した。
折れ線グラフだった。右下がりだ。御茶ノ水のロビーで見たものと、同じ形をしている。
「秩父、五年で六割減ってます」
私は地図の三か所を、順番に見た。
新宿、千葉、秩父。
三十年前、最初に出た三つの迷宮だ。
そのうち千葉は、五年で閉鎖されている。町ごと放棄された。
残った二つのうち、秩父が先に枯れた。
枯れるという言い方が正しいのかは、誰も知らない。中がどうなっているかを、誰も見ていないからだ。
見ているのは、搬出量の数字だけだ。
秩父出張所は、小さかった。
プレハブの二階建てで、駐車場に車が三台。うち二台は、ナンバーが外れている。
受付に若い職員が一人いた。訪問理由を言うと、困った顔をした。
「加納さん……ああ、指定業者の。すみません、所長が今、席を外してまして」
「深度四十以深の採集記録を見たいんですが」
「採集、ですか」
「はい」
「うち、素材の搬出は全部本部管理でして。記録は御茶ノ水にあります」
「では、入坑記録を」
彼は少し迷ってから、端末を叩いた。
「入坑は、うちで管理してます。……どのくらい前まで」
「一年ぶんです」
プリンタが動き始めた。
十分かかった。三隅が横で、印刷が出てくるたびに揃えていた。
待っているあいだ、私は壁の掲示を見ていた。
安全講習の日程と、装備品の割引案内と、その隣に、退職者の送別の貼り紙があった。
三人の名前が書いてある。日付は先月だ。
受付の職員が、印刷を揃えながら言った。
「うち、来年で出張所も閉じるらしいです」
「そうですか」
「新宿に統合されます。私も、たぶん異動です」
彼はまだ二十代半ばに見えた。
「資格は」
「C級です。四年やって、C級です」
「そうですか」
「……上がらないんですよ。数が減ってるんで。討伐しないと上がらないので」
彼はプリンタから紙を抜いて、きれいに揃えて渡してくれた。
軽バンの中で、三人で読んだ。
読むといっても、軽バンの荷台には脱皮殻の箱が三つ積んである。座る場所がない。
すずが当たり前のように箱をどけて、当たり前のように中身を確認し始めた。
「加納さん、これ、神田の六段階目ですよね」
「今、名簿を読んでください」
「読みます。読みますけど、これ、ラベルが剥がれてます」
「あとで貼ってください」
「今貼ります」
「名簿を読んでください」
「貼りながら読めます」
三隅が後部座席から、静かに名簿を取り上げた。
「……俺が読みます」
入坑者は、年間で延べ千四百人いた。
そのうち、深度四十以深に入った者は、六十二人。
そのうち、単独で入坑した者は、四人。
「単独って、できるんですか」
三隅が聞いた。
「規定上はB級以上なら可能です。実際にはやりません。何かあったら死にます」
すずが名簿を指でなぞる。
「四人のうち、三人は調査班の職員ですね。所属が書いてあります」
「残り一人は」
「……所属欄が空白です」
名前があった。
深沢和樹。四十一歳。資格はB級。
入坑日は、去年の十月から今年の七月まで、十一回。
私は自分の手帳を開いた。
十一回の日付を、こちらの施工記録と並べた。
神田の卵鞘が置かれたのは、すずの推定で三十日以上前。川崎は十日前。練馬は十日前。錦糸町は一週間前。
深沢の入坑日は、その全部の、二日から四日前にあった。
「合ってますね」
「合ってます」
すずが名簿を握った。
「この人です」
住所は、所沢だった。
アパートの二階。表札はない。ポストに、郵便物が溜まっていた。
三隅がドアをノックした。返事はない。
「加納さん。靴、あります」
彼がドアの脇を指した。
玄関の前に、泥の付いた登山靴が一足、置いてある。
波型の深いソール。爪先の外側だけが極端に減っていた。
川崎の桝の脇にあった足跡と、同じだった。
「本人ですね」
「本人です」
私は管理会社の名前を、ポストのシールで確認した。
電話をかけようとして、やめた。
階段を降りて、アパートの裏に回った。
一階の駐輪場の奥に、軽トラックが停めてある。荷台にブルーシートが掛かっていた。
シートをめくった。
発泡スチロールの箱が、四つ積んであった。
蓋を開けた。
保冷剤が入っている。それと、乾いた新聞紙。
箱の底に、黒い粉が残っていた。
私は指でつまんで、匂いを嗅いだ。
「卵鞘の殻ですね」
すずが屈み込んだ。
「割れたやつの破片です。運ぶときに、何個か割れてます」
「保冷剤は」
「孵化を遅らせるためです。十度以下だと、発生が止まります」
彼女が顔を上げた。
「加納さん。この人、ちゃんと勉強してます」
「そうですね」
「怖いです」
すずは箱の縁を掴んだまま、動かなかった。
「加納さん。この人、私の論文、読んでると思います」
「わからないです」
「読んでます。保冷剤の温度帯、私が書いた数字と同じです」
声が上ずった。
「十年、誰も読まなかったのに。……読んでたの、この人だけですか」
「戸田さん」
「読んでほしかったです。でも、これは、こんなのは」
彼女はそこで言葉を切った。
言い直そうとして、できなかったのだと思う。
「戻ってください。ここ、暗いので」
「……はい」
彼女は箱に触れないまま、駐輪場を出た。
私はシートを戻した。
管理会社に電話をしたのは、その夜だった。
深沢和樹は、先月から家賃を滞納していた。
連絡が取れないので、来週、立ち入りをする予定だという。
私は自分の名前と用件を伝えて、電話を切った。
翌朝、郁から電話が来た。
謹慎中の彼女が電話をしてくるのは、初めてだった。
「加納さん。名前、言って」
「深沢和樹です」
「……やっぱり」
声が硬い。
「今朝、本部に事故報告が回った。秩父の迷宮、深度四十二メートル」
私は手を止めた。
「単独入坑中の事故。発見は昨日の夕方。死亡確認済み」
「いつの事故ですか」
「報告では、三日前」
私は軽バンのハンドルを握ったまま、動かなかった。
三日前。
私たちが練馬の廊下を歩いていた日だ。
「加納さん。聞いてる」
「聞いてます」
「単独入坑は規定違反だから、事故処理で終わる。遺族もいない。……たぶん、これで終わりになる」
私はフロントガラスの向こうを見ていた。
駐輪場の奥に、軽トラックがまだ停まっている。
「班長」
「なに」
「その人、三日前にどうやって秩父まで行ったんですか」
「……え」
「車、ここにあります」




