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13/32

個人で行く

 契約の見直しから二週間で、ギルドからの依頼は三件になった。

 前の月は十一件だった。

 区の要請があったものだけ、という条件は、実際にはこういう意味だ。区役所には「迷宮外の魔物」を担当する課がない。環境衛生課は害虫を扱うが、魔物は扱わない。防災課は魔物を扱うが、害虫は扱わない。

 どちらの課も、間違えると怒られる。だから、どちらも動かない。

 三十年かけて、間の穴が完璧に空いていた。


 その穴から落ちてきたのが、練馬の特別養護老人ホームだった。


「うち、区には二回相談しました」

 施設長は五十代の女性で、事務室の椅子に座ったまま、両手を膝に置いていた。

「防災課は、被害額が基準に届かないと。環境衛生課は、魔物は管轄外だと」

「よくある話です」

「よくあるんですか」

「最近は、ほとんどそれです」

 私は図面を広げた。

 鉄筋三階建て。入居者は六十二名。うち、自力で歩けるのは十一名。

「見たのは、どこですか」

「一階の、東の廊下です。夜勤の職員が」

「時刻は」

「三時半です」

「大きさは」

「三十センチくらいだと」

 私は図面の東側をなぞった。一階の東端に、汚物処理室がある。その隣が洗濯室。どちらも水を使う部屋だ。

「厨房は、どこですか」

「一階の西です」

「餌が西で、水が東ですか」

 私は顔を上げた。

「じゃあ、廊下を毎晩往復してますね」


 すずが図面の上に身を乗り出した。

「加納さん、これ、入居者さんはどうするんですか」

「動かしません」

「動かさない?」

「六十二人のうち五十一人が寝たきりです。移すには介護タクシーと受け入れ先が要ります。それができるなら、施設長はとっくにやってます」

 施設長が下を向いた。

「……できません。どこも空いてないので」

「わかってます」

 私は図面に線を引いた。

「動かさずにやります。そのぶん、日数がかかります。四日ください」

「四日」

「一晩に、一区画です。その区画だけ、入居者さんを隣の区画に寄せてもらいます。移動は五メートルで済みます」

「薬は」

「区画ごとに閉めて、朝までに換気します。使うのは、保育園で使うのと同じ薬です」

 施設長が顔を上げた。

「保育園」

「はい。効きは弱いですが、安全です。弱いぶん、塞ぐほうで取り返します」


 四日間の段取りを、紙に書いて渡した。

 一日目、東の区画。二日目、中央。三日目、西の厨房側。四日目、二階と三階の立ち上がり。

 区画ごとに入居者を隣へ寄せる時間は、一時間半。職員の負担が一番少ない、午後の入浴後に設定した。

「加納さん。うち、お支払いが」

「四日で、十二万円です」

「十二万」

「機材は減りませんし、薬も保育園用なので安いです。人件費だけです」

 施設長は請求書の下書きを見て、少し黙った。

「……あの、失礼ですが、これ、儲かってますか」

「儲かってないです」

「では」

「儲かってない現場を持っておくと、儲かる現場のときに手が鈍りません」

 これは父が言っていたことだ。

 私は長いこと意味がわからなかった。最近、少しわかってきた。


 初日の夜、すずが失敗した。

 東の廊下の貫通部に、発泡ウレタンを吹きすぎたのだ。膨らんだウレタンが天井の点検口の縁まで盛り上がって、蓋が閉まらなくなった。

「すみません」

「削れば済みます」

「すみません」

「二回言わなくていいです」

 彼女はカッターでウレタンを削りながら、手が震えていた。

「加納さん」

「はい」

「私、研究室では、ピペットの一マイクロリットルを外したことないんです」

「そうでしょうね」

「なのに、なんでこんな、缶のスプレーが」

「量が違うからです」

 私は隣の貫通部にウレタンを吹いた。九十秒待つ。

「一マイクロは、目盛りで決まります。これは、九十秒後にどこまで膨らむかを予想して決めます。予想は、失敗した回数で上手くなります」

「何回失敗しましたか」

「たぶん、二百回は」

 すずが手を止めた。

「……二百」

「最初の年は、毎日やってました」

 彼女はもう一度カッターを動かした。

 今度は、震えていなかった。


 二日目の夜、中央の区画をやっているとき、廊下で車椅子に会った。

 九十を越えているという男の人だった。眠れないので、夜勤の職員が押して歩いていた。

 私が壁にウレタンを吹いているのを、その人はずっと見ていた。

「兄さん。それ、シロアリかい」

「いえ、別のです」

「うちも昔、床下にやられてね」

「そうですか」

「業者さんが来て、一日で直してくれた。あれは、昭和の終わりだな」

 職員が申し訳なさそうに笑った。

「すみません、同じ話を何度も」

「いえ」

 私は手を止めなかった。

「その業者さん、いい仕事してますよ。四十年もってるので」


 三日目の夜に、出た。

 汚物処理室の床、排水口の蓋の下。

 二十六センチの個体が一体。それと、幼体が七。

 私は噴霧器で追い出し、通路に敷いた鉄板の上へ流した。三隅が長柄の網で押さえ、私が処理した。

 剣はない。うちに冒険者はいない。だから、二十六センチのうちに終わらせる。

 六十センチになってからでは、こうはいかない。


 七匹目が、網の下を抜けた。

 三隅の網は、長さが一メートル八十ある。押さえる面が広いぶん、端が浮く。浮いた端の下を、幼体が通った。

 通った先が、廊下だった。

 廊下の突き当たりは、居室だ。扉が開いている。夜勤の職員が、換気で開けていた。

 私は噴霧器を捨てて、走った。

 追いつけないのはわかっていた。四十センチのものは、人より速い。

 だから、追わずに、扉の前に入った。

 入って、扉を閉めるより、体を入れるほうが早いと判断した。

 それも、正しくはなかった。

 右の前腕に当たった。

 防護服は、薬が染みない服だ。刺されない服ではない。

 袖が裂けて、下の皮膚も裂けた。

 私は左手でそれの頭を床に押さえつけて、腹で体重をかけた。

 押さえたまま、三隅が来るのを待った。

 十秒か、十五秒だったと思う。

 三隅が網ごと上から押さえて、処理した。


 廊下に座り込んでから、私は自分の腕を見た。

 長さは十センチほど。深さは、縫うほどではない。

「加納さん!」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないです、血が」

「腱までは行ってないです。指、動くので」

 私は右手を握って、開いた。動いた。

 佐倉くんのことを、そのとき考えた。

 あの子の腕は、これの三倍深かった。


 それから、自分がなぜ腕を出したのかを考えた。

 三センチのものが足元に来たら、手で払えば済む。

 二十年、私はそうしてきた。手で払って、踏んで、拾って、袋に入れる。

 体が、それを覚えている。

 覚えているものは、考える前に出る。

 四十センチのものに手を出すと、出した手が裂ける。

 わかっている。頭ではわかっている。

 それでも、出た。

 冒険者は、こういうときに手を出さない訓練を、四年かけて受ける。

 私は受けていない。

 二十年ぶんの癖が、三か月の知識に勝った。

 それが、今夜の答えだった。

 私は消毒をして、包帯を巻いて、片付けにかかった。

 そこで、すずが動かなかった。

 彼女は汚物処理室の床にしゃがんだまま、ピンセットで何かを拾っていた。

「戸田さん。上がってください」

「加納さん」

「はい」

「数、合ってません」

「八匹出ました。一体と幼体七です」

「幼体、七じゃないです」

 彼女は小瓶を持ち上げた。中に、黒い粒が入っている。

「排水口の周りの糞、粒の大きさが二種類あります。大きいほうが成体、小さいほうが幼体です」

「はい」

「小さいほうの量が、七匹ぶんじゃないです」

 彼女は電卓を出した。手が汚れていて、キーが滑っていた。

「一匹が一日に出す量は、体重の十二パーセントです。ここの糞の総量と、乾き具合から出した日数で割ると」

 彼女は打ち直した。三回打ち直した。

「……九匹です。最低で、九」

 私は包帯を巻いた腕を下ろした。

「あと一匹、いますね」

「います」

「どこです」

 すずは立ち上がって、廊下を見た。

「餌が西で、水が東だって、加納さんが言いました」

「言いました」

「往復するなら、途中に休む場所が要ります。四十センチのものが、百メートルを毎晩往復はしません」

 彼女は廊下の中ほどを指した。

「中間です。この廊下の、真ん中」

 図面を広げた。

 廊下の中ほど、南側に、リネン室がある。

 タオルとシーツが積んである部屋だ。暖かい。乾いている。人が夜は入らない。

 その隣が、居室だった。

 私はライトを持って、リネン室に入った。

 棚の一番下、畳んだタオルの奥。

 いた。

 五十一センチ。成体だ。今夜出た八匹の、どれよりも大きい。

 それが動く前に、三隅が網をかぶせた。


 処理が終わって、廊下に出たとき、夜勤の職員が走ってきた。

「すみません、何かありましたか」

「リネン室、しばらく使わないでください。明日、塞ぎます」

「はい。……あの、隣、三〇八号室なんですけど」

「はい」

「今日、入居者さんが発熱してて、扉を開けたままにしてました」

 私は何も言わなかった。

 すずが、壁に手をついた。

「加納さん」

「はい」

「私、帰ろうとしてました。さっき」

「帰ってないです」

「帰ろうとしてたんです」

 彼女は自分の手を見ていた。

「糞の量、数えるの、めんどくさいなって思ったんです。一回」

「思っても、数えましたね」

「数えました」

「それだけです」

 私は包帯の端を直した。

「うちの商売は、めんどくさいと思ってから、やるかどうかで決まります」


 私はその夜の作業を、最後までやった。

「加納さん」

 三隅が袋の口を縛りながら言った。

「これ、班長がいたら一秒で終わってましたね」

「終わってました」

「いないと、こんな準備が要るんですね」

「要ります」

 私は床の水を拭いた。

「だから、いるうちに一緒にやっておくんです」


 三隅が言ったのは、翌朝だった。

「加納さん。班長に言わないんですか」

「謹慎中です」

「でも」

「言っても来られません。来たら、処分が重くなります」

 私は報告書に判を押した。

 押しながら、正直なことを一つ考えていた。

 昨日の廊下に緋山郁がいたら、あれは一秒で終わっていた。

 私が腕を裂かれる必要は、どこにもなかった。

 そう考えるのは、あまり気分のいいことではなかった。


 四日目の朝、施工報告書を書いていると、施設長が事務室に来た。

「加納さん。ちょっと、よろしいですか」

「はい」

「先週、別の業者さんが来られましたよね」

 私は手を止めた。

「来てないです」

「来られましたよ。ギルドの方だと」

 施設長は名刺を出した。

 冒険者ギルド関東支部 施設調査課。名前は、知らない男だった。

「調査はもう済んでいるので、業者を入れる必要はないと言われて。それで一度、断ろうかとも思ったんですが」

「いつです」

「十日前です」

 私は名刺を持ったまま、廊下に出た。

 東の廊下を、端から端まで歩いた。

 調査をしたなら、痕跡が残る。点検口の蓋には指の跡が付く。桝の蓋には、こじった傷が残る。粘着トラップを置けば、糊の跡が床に残る。

 どこにもなかった。

 汚物処理室の排水口の蓋を、もう一度持ち上げた。

 蓋の裏に、埃が均一に積もっていた。

 十日前に誰かが開けたなら、こうはならない。

「三隅さん」

「はい」

「この施設、十日前に誰も入ってません」

 すずが廊下の反対側から走ってきた。

 手に、汚物処理室で採った検体の袋を持っている。

「加納さん。これ、見てください」

「なんです」

「幼体の消化管の中身です。ここの厨房の残飯じゃありません」

 彼女は袋を光にかざした。

「迷宮の、深いところにしかない菌類が入ってます」

 廊下の蛍光灯が、一度だけ点滅した。

「……生まれたのは、ここじゃないです」

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