個人で行く
契約の見直しから二週間で、ギルドからの依頼は三件になった。
前の月は十一件だった。
区の要請があったものだけ、という条件は、実際にはこういう意味だ。区役所には「迷宮外の魔物」を担当する課がない。環境衛生課は害虫を扱うが、魔物は扱わない。防災課は魔物を扱うが、害虫は扱わない。
どちらの課も、間違えると怒られる。だから、どちらも動かない。
三十年かけて、間の穴が完璧に空いていた。
その穴から落ちてきたのが、練馬の特別養護老人ホームだった。
「うち、区には二回相談しました」
施設長は五十代の女性で、事務室の椅子に座ったまま、両手を膝に置いていた。
「防災課は、被害額が基準に届かないと。環境衛生課は、魔物は管轄外だと」
「よくある話です」
「よくあるんですか」
「最近は、ほとんどそれです」
私は図面を広げた。
鉄筋三階建て。入居者は六十二名。うち、自力で歩けるのは十一名。
「見たのは、どこですか」
「一階の、東の廊下です。夜勤の職員が」
「時刻は」
「三時半です」
「大きさは」
「三十センチくらいだと」
私は図面の東側をなぞった。一階の東端に、汚物処理室がある。その隣が洗濯室。どちらも水を使う部屋だ。
「厨房は、どこですか」
「一階の西です」
「餌が西で、水が東ですか」
私は顔を上げた。
「じゃあ、廊下を毎晩往復してますね」
すずが図面の上に身を乗り出した。
「加納さん、これ、入居者さんはどうするんですか」
「動かしません」
「動かさない?」
「六十二人のうち五十一人が寝たきりです。移すには介護タクシーと受け入れ先が要ります。それができるなら、施設長はとっくにやってます」
施設長が下を向いた。
「……できません。どこも空いてないので」
「わかってます」
私は図面に線を引いた。
「動かさずにやります。そのぶん、日数がかかります。四日ください」
「四日」
「一晩に、一区画です。その区画だけ、入居者さんを隣の区画に寄せてもらいます。移動は五メートルで済みます」
「薬は」
「区画ごとに閉めて、朝までに換気します。使うのは、保育園で使うのと同じ薬です」
施設長が顔を上げた。
「保育園」
「はい。効きは弱いですが、安全です。弱いぶん、塞ぐほうで取り返します」
四日間の段取りを、紙に書いて渡した。
一日目、東の区画。二日目、中央。三日目、西の厨房側。四日目、二階と三階の立ち上がり。
区画ごとに入居者を隣へ寄せる時間は、一時間半。職員の負担が一番少ない、午後の入浴後に設定した。
「加納さん。うち、お支払いが」
「四日で、十二万円です」
「十二万」
「機材は減りませんし、薬も保育園用なので安いです。人件費だけです」
施設長は請求書の下書きを見て、少し黙った。
「……あの、失礼ですが、これ、儲かってますか」
「儲かってないです」
「では」
「儲かってない現場を持っておくと、儲かる現場のときに手が鈍りません」
これは父が言っていたことだ。
私は長いこと意味がわからなかった。最近、少しわかってきた。
初日の夜、すずが失敗した。
東の廊下の貫通部に、発泡ウレタンを吹きすぎたのだ。膨らんだウレタンが天井の点検口の縁まで盛り上がって、蓋が閉まらなくなった。
「すみません」
「削れば済みます」
「すみません」
「二回言わなくていいです」
彼女はカッターでウレタンを削りながら、手が震えていた。
「加納さん」
「はい」
「私、研究室では、ピペットの一マイクロリットルを外したことないんです」
「そうでしょうね」
「なのに、なんでこんな、缶のスプレーが」
「量が違うからです」
私は隣の貫通部にウレタンを吹いた。九十秒待つ。
「一マイクロは、目盛りで決まります。これは、九十秒後にどこまで膨らむかを予想して決めます。予想は、失敗した回数で上手くなります」
「何回失敗しましたか」
「たぶん、二百回は」
すずが手を止めた。
「……二百」
「最初の年は、毎日やってました」
彼女はもう一度カッターを動かした。
今度は、震えていなかった。
二日目の夜、中央の区画をやっているとき、廊下で車椅子に会った。
九十を越えているという男の人だった。眠れないので、夜勤の職員が押して歩いていた。
私が壁にウレタンを吹いているのを、その人はずっと見ていた。
「兄さん。それ、シロアリかい」
「いえ、別のです」
「うちも昔、床下にやられてね」
「そうですか」
「業者さんが来て、一日で直してくれた。あれは、昭和の終わりだな」
職員が申し訳なさそうに笑った。
「すみません、同じ話を何度も」
「いえ」
私は手を止めなかった。
「その業者さん、いい仕事してますよ。四十年もってるので」
三日目の夜に、出た。
汚物処理室の床、排水口の蓋の下。
二十六センチの個体が一体。それと、幼体が七。
私は噴霧器で追い出し、通路に敷いた鉄板の上へ流した。三隅が長柄の網で押さえ、私が処理した。
剣はない。うちに冒険者はいない。だから、二十六センチのうちに終わらせる。
六十センチになってからでは、こうはいかない。
七匹目が、網の下を抜けた。
三隅の網は、長さが一メートル八十ある。押さえる面が広いぶん、端が浮く。浮いた端の下を、幼体が通った。
通った先が、廊下だった。
廊下の突き当たりは、居室だ。扉が開いている。夜勤の職員が、換気で開けていた。
私は噴霧器を捨てて、走った。
追いつけないのはわかっていた。四十センチのものは、人より速い。
だから、追わずに、扉の前に入った。
入って、扉を閉めるより、体を入れるほうが早いと判断した。
それも、正しくはなかった。
右の前腕に当たった。
防護服は、薬が染みない服だ。刺されない服ではない。
袖が裂けて、下の皮膚も裂けた。
私は左手でそれの頭を床に押さえつけて、腹で体重をかけた。
押さえたまま、三隅が来るのを待った。
十秒か、十五秒だったと思う。
三隅が網ごと上から押さえて、処理した。
廊下に座り込んでから、私は自分の腕を見た。
長さは十センチほど。深さは、縫うほどではない。
「加納さん!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです、血が」
「腱までは行ってないです。指、動くので」
私は右手を握って、開いた。動いた。
佐倉くんのことを、そのとき考えた。
あの子の腕は、これの三倍深かった。
それから、自分がなぜ腕を出したのかを考えた。
三センチのものが足元に来たら、手で払えば済む。
二十年、私はそうしてきた。手で払って、踏んで、拾って、袋に入れる。
体が、それを覚えている。
覚えているものは、考える前に出る。
四十センチのものに手を出すと、出した手が裂ける。
わかっている。頭ではわかっている。
それでも、出た。
冒険者は、こういうときに手を出さない訓練を、四年かけて受ける。
私は受けていない。
二十年ぶんの癖が、三か月の知識に勝った。
それが、今夜の答えだった。
私は消毒をして、包帯を巻いて、片付けにかかった。
そこで、すずが動かなかった。
彼女は汚物処理室の床にしゃがんだまま、ピンセットで何かを拾っていた。
「戸田さん。上がってください」
「加納さん」
「はい」
「数、合ってません」
「八匹出ました。一体と幼体七です」
「幼体、七じゃないです」
彼女は小瓶を持ち上げた。中に、黒い粒が入っている。
「排水口の周りの糞、粒の大きさが二種類あります。大きいほうが成体、小さいほうが幼体です」
「はい」
「小さいほうの量が、七匹ぶんじゃないです」
彼女は電卓を出した。手が汚れていて、キーが滑っていた。
「一匹が一日に出す量は、体重の十二パーセントです。ここの糞の総量と、乾き具合から出した日数で割ると」
彼女は打ち直した。三回打ち直した。
「……九匹です。最低で、九」
私は包帯を巻いた腕を下ろした。
「あと一匹、いますね」
「います」
「どこです」
すずは立ち上がって、廊下を見た。
「餌が西で、水が東だって、加納さんが言いました」
「言いました」
「往復するなら、途中に休む場所が要ります。四十センチのものが、百メートルを毎晩往復はしません」
彼女は廊下の中ほどを指した。
「中間です。この廊下の、真ん中」
図面を広げた。
廊下の中ほど、南側に、リネン室がある。
タオルとシーツが積んである部屋だ。暖かい。乾いている。人が夜は入らない。
その隣が、居室だった。
私はライトを持って、リネン室に入った。
棚の一番下、畳んだタオルの奥。
いた。
五十一センチ。成体だ。今夜出た八匹の、どれよりも大きい。
それが動く前に、三隅が網をかぶせた。
処理が終わって、廊下に出たとき、夜勤の職員が走ってきた。
「すみません、何かありましたか」
「リネン室、しばらく使わないでください。明日、塞ぎます」
「はい。……あの、隣、三〇八号室なんですけど」
「はい」
「今日、入居者さんが発熱してて、扉を開けたままにしてました」
私は何も言わなかった。
すずが、壁に手をついた。
「加納さん」
「はい」
「私、帰ろうとしてました。さっき」
「帰ってないです」
「帰ろうとしてたんです」
彼女は自分の手を見ていた。
「糞の量、数えるの、めんどくさいなって思ったんです。一回」
「思っても、数えましたね」
「数えました」
「それだけです」
私は包帯の端を直した。
「うちの商売は、めんどくさいと思ってから、やるかどうかで決まります」
私はその夜の作業を、最後までやった。
「加納さん」
三隅が袋の口を縛りながら言った。
「これ、班長がいたら一秒で終わってましたね」
「終わってました」
「いないと、こんな準備が要るんですね」
「要ります」
私は床の水を拭いた。
「だから、いるうちに一緒にやっておくんです」
三隅が言ったのは、翌朝だった。
「加納さん。班長に言わないんですか」
「謹慎中です」
「でも」
「言っても来られません。来たら、処分が重くなります」
私は報告書に判を押した。
押しながら、正直なことを一つ考えていた。
昨日の廊下に緋山郁がいたら、あれは一秒で終わっていた。
私が腕を裂かれる必要は、どこにもなかった。
そう考えるのは、あまり気分のいいことではなかった。
四日目の朝、施工報告書を書いていると、施設長が事務室に来た。
「加納さん。ちょっと、よろしいですか」
「はい」
「先週、別の業者さんが来られましたよね」
私は手を止めた。
「来てないです」
「来られましたよ。ギルドの方だと」
施設長は名刺を出した。
冒険者ギルド関東支部 施設調査課。名前は、知らない男だった。
「調査はもう済んでいるので、業者を入れる必要はないと言われて。それで一度、断ろうかとも思ったんですが」
「いつです」
「十日前です」
私は名刺を持ったまま、廊下に出た。
東の廊下を、端から端まで歩いた。
調査をしたなら、痕跡が残る。点検口の蓋には指の跡が付く。桝の蓋には、こじった傷が残る。粘着トラップを置けば、糊の跡が床に残る。
どこにもなかった。
汚物処理室の排水口の蓋を、もう一度持ち上げた。
蓋の裏に、埃が均一に積もっていた。
十日前に誰かが開けたなら、こうはならない。
「三隅さん」
「はい」
「この施設、十日前に誰も入ってません」
すずが廊下の反対側から走ってきた。
手に、汚物処理室で採った検体の袋を持っている。
「加納さん。これ、見てください」
「なんです」
「幼体の消化管の中身です。ここの厨房の残飯じゃありません」
彼女は袋を光にかざした。
「迷宮の、深いところにしかない菌類が入ってます」
廊下の蛍光灯が、一度だけ点滅した。
「……生まれたのは、ここじゃないです」




