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12/32

うちの社員

 雇用契約書を作った。

 書式は、三隅のときと同じものを使った。ハローワークで貰った見本を、一字だけ直したやつだ。

 事務所の机を挟んで、戸田すずが座っている。

 白衣ではなく、私服だった。初めて見た。

「読んでください」

「読みます」

 彼女は三十秒で顔を上げた。

「給料、これ」

「安いです」

「安いですね」

「初年度はそうです。二年目から上げます。うちの売上が落ちなければ」

「落ちるんですか」

「落ちるかもしれません」

 私は正直に言った。

「ギルドとの年間契約が一千八百万です。それが全体の六割です。切られたら、あなたの給料は払えません」

 すずは契約書を持ったまま、しばらく黙っていた。

「加納さん」

「はい」

「そういうこと、普通、面接で言わないですよ」

「言わないと、あとで揉めるので」

「揉めませんよ」

「揉めます。人は、聞いてない話で揉めます」

 彼女はペンを取って、名前を書いた。

 書いてから、一度だけ鼻をすすった。

「泣かないでください」

「泣いてません」

「泣いてますね」

「鼻炎です」

「そうですか」

「そうです」

 彼女は契約書を両手で持ったまま、机に額を近づけた。

「……加納さん」

「はい」

「私、たぶん現場では使えないです」

「使えないです、最初は」

「はっきり言いますね」

「三隅さんも最初は使えなかったです。半年かかりました」

「半年」

「戸田さんは、たぶんもっとかかります」

 彼女が顔を上げた。

「なんでですか」

「頭がいい人ほど、手が遅いので」


 翌日から、彼女は現場に出た。

 最初に渡したのは、長靴と、作業着と、防護服と、手帳だった。

「これ、何を書くんですか」

「見たことです」

「何を見たかですか」

「そうです。日付と、場所と、見たこと。書いてないことは、なかったことになります」

「……論文と同じですね」

「同じです」

 彼女はサイズの合わない作業着の袖を折りながら、言った。

「あの、確認なんですけど。私、研究職ですか」

「現場です」

「現場」

「うちに研究職の枠はないです。売上がないので」

「……ですよね」

「ただ」

 私は軽バンの後ろを開けた。

 脱皮殻の入った箱が三つある。彼女が標本にした残りだ。

「現場に出ると、検体が採れます。年に二百件ぶんです」

 すずが箱を見た。

 それから、私を見た。

「二百件」

「二百件です」

「大学にいたときは、年に三件でした」

「そうですか」

「……六十六倍です」

 彼女は箱を抱えて、勝手に助手席に乗り込んだ。


 その日の現場は、船橋の蕎麦屋だった。

 チャバネゴキブリ。魔物ではない。ただのゴキブリだ。

 すずは店の入口で止まった。

「これ、普通のやつですよね」

「普通のやつです」

「私、こっちは専門じゃないです」

「うちの売上の七割は、こっちです」

 彼女は少し黙って、それから店に入った。

 三十分後、彼女は厨房の床で四つん這いになって、巾木の隙間を覗き込んでいた。

「加納さん。この糞、迷宮外個体のと形が違います」

「違います」

「なんで違うんですか」

「食べてるものが違うので」

 彼女がノートを出した。

 私は止めなかった。

 この人は、たぶんどの現場でも同じことをする。それでいい。


 蕎麦屋の店主は、七十近い男だった。

 厨房の隅で、すずがしゃがんでいるのを見て、私に聞いた。

「あの人、学者さん?」

「うちの社員です」

「へえ。学者さんみたいだ」

 すずが振り返って、何か言おうとして、やめた。

 帰りの車で、彼女は助手席の窓を見たまま言った。

「加納さん」

「はい」

「さっきの、学者さんみたいだって」

「はい」

「十年、学者でしたけどね」

「そうですね」

「……嬉しかったです。ちょっとだけ」

 私は信号で止まった。

「言えばよかったのに」

「言えないですよ、そんなの」


 鵜飼から呼び出しがあったのは、その週の金曜だった。


 支部長室は、前より少しだけ狭く感じた。

 テーブルの上に、前と同じ書類が置いてある。年間契約書だ。

「加納さん。契約の範囲を、少し見直させていただきたいと思っております」

「どこをです」

「繁殖の疑いあり、という判断の部分です」

 彼はページを開いた。

「現状、うちが疑いありと判断した案件をお回ししています。これを、原則として区の要請があったものに限りたい」

「区の要請」

「自治体からの正式な依頼があったもの、ということです」

 私は条項を読んだ。

 読んで、意味を理解するのに十秒かかった。

「これ、うちが自分で見つけた現場は、外れますね」

「外れます」

「川崎は、うちが桝を開けたから見つかりました」

「あれは、いい仕事でした」

 鵜飼は笑っていた。

「ただ、業者が自主的に調査範囲を広げると、費用の管理ができません。うちも公益法人ですので、会計検査が入ります」

 筋は通っている。

 三か月前と同じだ。通りすぎている。

「支部長」

「はい」

「南京錠の話、していいですか」

 彼の表情は変わらなかった。

 本当に、まったく変わらなかった。

「南京錠」

「神田の地下と、川崎の桝に、同じ型の錠がかかってました」

「そうですか」

「去年の十一月、こちらの備品で、南京錠が三個発注されています」

 鵜飼はコーヒーを一口飲んだ。

「加納さん。うちは年間で、備品を一万二千点ほど買います」

「そうでしょうね」

「南京錠が三個あったから何だ、という話を、私は否定も肯定もできません。覚えていないからです」

 彼はカップを置いた。

「ですが、その話を外でされると、うちは困ります」

「困りますか」

「困ります。三十年、国の予算で運営してきた組織です」

 私は書類を閉じた。

「契約は、そのままでお願いします」

「といいますと」

「見直しは受けます。区の要請があったものだけで結構です」

 鵜飼が、初めて少し眉を動かした。

「ご不満は」

「あります。ただ、うちは社員が二人います」

 私は立ち上がった。

「不満で飯は食えないので」

 部屋を出る前に、私はもう一度振り返った。

「支部長」

「はい」

「うちが自分で見つけた現場は、これから、ただでやります」

 鵜飼の手が止まった。

「……ただ、とは」

「請求しません。うちの持ち出しでやります」

「加納さん。それは」

「契約違反にはならないと思います。請求してないので」

 私はドアに手をかけた。

「三十年、どっちの課も動かなかった穴があります。そこに落ちた人は、誰も助けに来ません。うちは、そこを見に行きます」

「……なぜです」

 本気で聞いている声だった。

 この人は、たぶん本当にわからないのだ。

「見に行ける人間が、今、二人しかいないので」


 支部を出たところで、郁が走ってきた。

 制服ではなく、私服だった。書類を一枚持っている。

「加納さん」

「班長」

「これ、出した」

 上申書だった。

 件名に、こう書いてあった。

 ——備品発注記録の欠番に関する調査要請

 決裁欄は空白で、その下に「受理」の判が押してある。

「班長」

「言わないで」

「誰に出しました」

「本部よ。支部を飛ばした」

 彼女は書類を畳んで、鞄に入れた。

「ここで止めたら、私は五回目と同じ」

「同じじゃないです」

「同じよ。おかしいと思って、何もしなかったら同じ」

 彼女は少し笑った。

 その顔を、私は初めて見た気がした。

「じゃあね。しばらく現場に出られないと思う」

「え」

「たぶん、内勤になる」

 三日後、緋山郁は一か月の謹慎処分になった。

 理由は、上申書の提出手続きの不備だった。

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