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第8話 五日目の夜と、マイラの言葉

 五日目の夜、怜司は牢の壁にもたれながら、指先で地面に線を引いていた。もちろん文字ではない。彼はまだこの世界の文字を読めないし、書けない。だから、石の欠片で藁の下の土に簡単な記号を刻んでいる。第一区、第二区、第三区を表す丸。鐘ごとの落下回数を示す短い線。倒れた者の数を示す点。鞭が飛んだ回数を示す斜線。


 ルカンが横から覗き込んだ。


「それ、呪いか?」


「記録です」


「じゅうぶん呪いっぽいぞ」


「前の世界では、こういうものに毎日追われていました」


「やっぱり呪いじゃねえか」


 怜司は否定できなかった。数字は便利だが、人間を追い詰める。前世の怜司を線路へ押したものの中にも、きっと数字があった。売上、納期、残業時間、評価点。今、自分はその数字で生き残ろうとしている。毒を薬として飲んでいるようなものだ。


 トマが怜司の反対側に座り、地面の線をじっと見た。


「これ、何が分かるの?」


「どこでよく止まるか、誰が倒れやすいか、どの作業で鞭が増えるか、少しだけ分かります」


「鞭も数えてるの?」


「数えています」


 トマの顔が、少し強張った。怜司は石の欠片を置き、少年の表情を見る。恐怖と不思議さが混じっている。奴隷たちにとって鞭は天気のようなものだった。避けられない。いつ来るか分からない。来たら耐えるしかない。それを数えるという発想自体がなかったのかもしれない。


「数えると、減るの?」


 トマが小さく尋ねた。


 怜司はすぐに答えられなかった。数えれば必ず減る、などと言えば嘘になる。前世でも、残業時間を記録したからといって残業が減るわけではなかった。むしろ記録だけが増え、改善はされないことも多かった。


 だが、数えなければ、減ったかどうかも分からない。


「減らせるかもしれません」


 怜司は言った。


「少なくとも、どこで増えるかは分かります。分かれば、そこを変えられるかもしれません」


「七番は、変えるのが好きなの?」


「好きというより、変えないと死ぬので」


「そっか」


 トマは納得したような、していないような顔で頷いた。マイラが少し離れた場所から、静かに口を開く。


「数えるなら、粥の濃さも数えときな」


 怜司は思わず顔を上げた。


「粥ですか」


「最後に並ぶ連中は、いつも焦げと水だ。あれで倒れる奴もいる。朝に食えなきゃ、昼前に足が止まる」


 怜司は目を瞬かせた。


 見落としていた。


 いや、気づいてはいた。だが、優先順位を下げていた。動線、荷崩れ、水桶、粉塵、すれ違い。目につく物理的な問題ばかりを追っていた。しかし、体を動かすのは食事だ。黒麦粥が薄いことは変えられなくても、配膳の偏りは変えられるかもしれない。


 マイラは椀を膝に置いたまま、片目で怜司を見た。


「現場を変えるんだろう、七番。腹も現場のうちだよ」


 怜司は深く頭を下げたくなった。実際に下げると変に思われそうなので、心の中だけで深々と頭を下げる。年長者の知恵は侮れない。前世でも、ベテランの事務員が一番業務を分かっていた。役職ではない。現場に長くいる人間が、机の上には出ない真実を知っている。


「ありがとうございます。明日、見ます」


「見すぎて殴られないようにしな」


「努力します」


「努力じゃなくて、覚えな」


「はい」


 翌朝、怜司は配膳を観察した。


 黒麦粥の鍋は大きく、底が深い。配膳役の老人は木べらでかき混ぜているが、腕力が弱く、底の方まで十分に混ざっていない。そのため、最初の方はほぼ水に近く、最後の方は焦げた粒が多くなる。濃い方が得かと思えば、焦げが多すぎると腹を壊す者もいる。さらに、力の強い奴隷や監督奴隷に近い者が先に並び、弱い者ほど後ろへ押しやられていた。


 これを変えるのは難しい。


 食事は揉める。人間は空腹になると理屈が通じにくくなる。前世でも、休憩室に置いた共有菓子が誰に多く食べられたかで空気が悪くなったことがある。ましてここでは、粥一杯が命に関わる。


 怜司は直接「並び順を変えましょう」とは言わなかった。


 まず配膳役の老人に近づき、木べらを見た。短い。鍋の底まで届くが、混ぜるには力がいる。老人の腕では重い粥を底から返せない。怜司は作業場の修理場で、折れた道具の柄が捨てられていたのを思い出した。


 その日の昼前、怜司はバラドに提案した。


「黒麦粥の鍋を混ぜる木べらを、長くできませんか」


 バラドは心底嫌そうな顔をした。


「今度は飯か」


「倒れる者が減れば、運搬量が安定します」


「お前は何でもそこへ繋げるな」


「実際に繋がっています」


 怜司は地面に簡単な線を描きながら説明した。後ろに並ぶ者ほど昼前に足が止まりやすい。特にトマのような小柄な奴隷と、年配者に多い。粥の配分が偏っている可能性がある。鍋をしっかり混ぜれば、食事量そのものは増えなくても、偏りは減る。


 バラドは腕を組んで聞いていた。隣のグラムは露骨に苛立っている。


「粥が少ないなら、弱い奴が奪われるだけだ」


「だから量ではなく、混ぜ方です。全員が同じくらい薄く、同じくらい不味くなります」


 バラドが一瞬だけ変な顔をした。


「お前、それで説得してるつもりか」


「公平な不味さは、争いを減らします」


「嫌な言い方だな」


「事実です」


 バラドはとうとう低く笑った。グラムは笑わなかったが、バラドが笑ったことで口を挟めなくなった。結局、修理場の折れた柄を木べらに括りつけることが許可された。材料は廃材。費用はほぼない。効果がなければ戻せばいい。怜司が提案を通す時、最も重視している条件だった。


 金をかけない。

 すぐ試せる。

 失敗しても戻せる。

 管理者の手柄になる。


 悲しいほど社畜の改善提案である。


 長い木べらは、思った以上に効果があった。配膳役の老人は最初こそ扱いにくそうにしていたが、底から粥を返せるようになると、椀ごとの差が少し減った。さらに、怜司は配膳場所の足元に石で細い通路を作り、食べ終えた者が戻る道と、これから受け取る者が並ぶ道を分けた。完全には守られないが、押し合いは減る。


 この改善は、奴隷たちに分かりやすく効いた。


 トマは朝の粥を受け取った後、椀の中を見て目を丸くした。


「今日は粒がある」


「おめでとうございます」


「お祝いすることなのかな」


「この鉱山では、たぶん」


 トマは少し笑い、慎重に粥をすすった。ルカンは横で椀を覗き込み、自分の粥と比べている。


「俺の方が薄くないか」


「公平な不味さを目指したんですが」


「公平に俺だけ損してねえか」


「それは公平とは言いません」


「じゃあ不公平な不味さだ」


 くだらない会話だった。だが、奴隷牢では貴重だった。黒麦粥を巡って冗談が出るだけで、昨日までとは空気が違う。もちろん、腹が満たされたわけではない。奴隷でなくなったわけでもない。首の隷印は相変わらず熱を持ち、作業は過酷で、鞭は消えていない。


 それでも、少しだけ人間らしい間が生まれた。


 七日目には、第三区の鞭の回数が明らかに減った。


 これは怜司の記録だけではない。奴隷たち自身が気づき始めていた。以前は段差、荷崩れ、水場、選別場前の渋滞で、鐘一つの間に何度も怒号と鞭が飛んでいた。今は監督の怒鳴り声こそ残っているが、実際に鞭が皮膚を打つ音は減っている。理由は単純だった。止まる回数が減れば、監督が怒るきっかけも減る。


 鞭が減ると、奴隷たちの動きはさらに安定した。


 恐怖で急かされるより、次に何をすればいいか分かっている方が速い。これは前世の職場でもそうだった。怒鳴る上司の下では、一時的に人は動く。しかし、ミスが増え、報告が減り、問題が隠され、最後には炎上する。鉱山でも同じだった。鞭は短期的には速度を上げるが、長期的には足を止める。


 それをバラドに説明した時、彼はひどく嫌そうな顔をした。


「つまり、殴るなと言いたいのか」


「必要な時にだけ殴った方が、効果が残ります」


 怜司は自分の発言に内心で顔を覆った。


 何を言っているのか。暴力の効率的運用を提案している。人道の欠片もない。だが、この場で「暴力はよくありません」と言っても通らない。バラドが求めているのは現場が回ることだ。なら、暴力をゼロにしろではなく、無駄打ちを減らせと言うしかない。


 バラドはじっと怜司を見た後、低く言った。


「お前、本当に奴隷か?」


「昨日までは社畜でした」


「またそれか。しゃちくとは何だ」


「鎖のない奴隷のようなものです」


「なら、逃げればいいだろう」


 その言葉は、怜司の胸に思ったより深く刺さった。


 逃げればよかった。


 前世では、それができたはずだった。首に隷印はなかった。駅の改札は出入りできた。会社を辞める紙一枚の権利は、法律上はあった。だが、怜司は逃げなかった。逃げられなかった。生活、家賃、世間体、次の仕事、迷惑、引き継ぎ、責任。目に見えない鎖が、いくらでもあった。


 怜司はしばらく黙った。


 バラドは答えを急かさなかった。彼の目は、いつものように冷たかったが、少しだけ探るような色がある。怜司は笑おうとして、うまく笑えなかった。


「逃げ方を、知らなかったんだと思います」


 バラドは鼻を鳴らした。


「馬鹿だな」


「はい」


 即答すると、バラドは逆に黙った。怜司は頭を下げ、話を戻す。


「ですから、今は逃げる前に、生き残る方法を覚えます」


「逃げる気か」


 首の隷印が、じわりと熱を持った。


 怜司は息を止めた。これは危ない。逃亡の意思と判定されるかもしれない。彼は慎重に言葉を選んだ。


「今は、命令に従い、鉱山の損を減らすことを考えます」


 熱が引いた。


 怜司は背中にびっしょり汗をかいた。仕様が少し分かった。直接的な逃亡意思、またはそれに近い発言は危険。だが、現在の命令遵守と所有者利益に言い換えれば回避できる。隷印は思考そのものを完全に読んでいるわけではない。少なくとも、言語化と意思の方向に反応している。


 この情報は大きい。


 同時に、恐ろしい。


 怜司は首に触れたい衝動を抑えた。隷印はただの痛み装置ではない。人間に、自分の考えを言い換えさせる。逃げたいという感情を、命令に従うという言葉で上書きさせる。支配とは、体だけでなく言葉まで縛るものなのだと、怜司は初めて実感した。


 八日目、事故が起きた。


 第一区の粉塵対策が進み、掘り手の咳が減り始めた頃だった。灰鉱石の壁が一部崩れ、破片が運搬列へ降った。大きな崩落ではない。だが、鋭い石片が一人の奴隷の肩を裂き、別の者が驚いて転倒した。坑道の奥で悲鳴が上がり、列が一気に詰まる。監督奴隷が怒鳴る。怒鳴られた者が焦ってさらに足を滑らせる。粉塵が舞い、視界が白く濁った。


 怜司はちょうど第一区の入口付近にいた。


 心臓が跳ねた。足がすくむ。前世で聞いた電車のブレーキ音が、一瞬だけ耳の奥に蘇る。危険。痛み。死。体が動かなくなりかける。


 だが、すぐに別の声が頭の中で響いた。


 詰まっている。


 事故そのものより、詰まりが危ない。奥の者が出られない。入口側の者が状況を知らずに入ろうとしている。監督は怒鳴っているだけで、流れを止められていない。粉塵で咳が増えれば、さらに混乱する。


 怜司は息を吸い、叫んだ。


「空籠は入口で止めてください! 満杯の者を先に出す! 水桶の布を口に当てて、奥から順に!」


 自分でも驚くほど声が出た。


 グラムが怒鳴り返す。


「奴隷が勝手に命令するな!」


 首が熱を持つ。だが、焼けるほどではない。怜司はすぐに言葉を変えた。


「バラドさん! 入口を止めないと奥が詰まります!」


 バラドは一瞬で状況を見た。彼はグラムより早く動き、入口にいた奴隷の襟首を掴んで引き戻した。


「空籠は止まれ! 満杯を出せ! 奥の奴から順に出ろ! 押すな、殺すぞ!」


 殺すぞ、はどうかと思う。だが、効果はあった。バラドの命令で、入口側の流れが止まる。満杯の荷を背負った奴隷たちが咳き込みながら出てくる。怜司は破れ袋の布を水で濡らし、近くのトマへ渡した。


「口に当てて、奥の人に渡してください。走らなくていい。転ぶ方が危ないです」


 トマは青ざめながらも頷いた。小柄な彼は、荷を背負っていない分、狭い隙間を抜けやすい。怜司はそれを利用することに胸の痛みを覚えたが、今は迷っている時間がなかった。


 マイラは負傷者の肩を押さえていた。彼女は片目で傷の深さを確かめ、布を巻く。医者ではないだろうが、鉱山で長く生きる者は簡単な止血くらい覚えるらしい。ルカンは倒れた奴隷の荷を外し、二人がかりで壁際へ引きずっていた。


 混乱は、鐘半分ほどで収まった。


 死者は出なかった。肩を裂かれた奴隷は重傷だったが、すぐに運び出されたため失血は抑えられた。転倒した者も足を痛めたが、坑道内で踏まれずに済んだ。


 バラドは事故後、崩れた壁を見上げて舌打ちした。


「支柱が腐っている」


 怜司も壁際を見た。木製の支柱の根元が湿気で黒ずみ、押すとわずかに沈む。第一区は乾いていると思っていたが、壁の内側から染みる水が木を腐らせていたらしい。粉塵に目を取られて、支柱までは見ていなかった。


 見落としだ。


 怜司の胃が冷たくなる。死者が出なかったからよかった、ではない。出てもおかしくなかった。自分は改善しているつもりで、別の危険を見落としていた。


 バラドが横に立った。


「七番。今のは何だ」


「入口を止めただけです」


「違う。なぜすぐ分かった」


 怜司は崩れた壁から目を離せなかった。粉塵がまだ空気に漂い、灯苔の光の中で白く揺れている。負傷者の血の跡が地面に残っていた。


「前の世界でも、事故や問題が起きた時、まず人と物の流れを止める必要がありました。原因を調べる前に、被害が広がるのを止める。入口と出口が詰まると、状況が悪くなります」


「前の世界、か」


 バラドはそれ以上聞かなかった。信じたのか、どうでもいいのかは分からない。ただ、彼は崩れた支柱を蹴り、顔をしかめた。


「支柱の点検が要るな」


「はい。全区で、根元が腐っているものを確認した方がいいです。ただ、全部を一度に替えるのは無理です」


「木が足りん」


「危ない順に印をつけます。すぐ替えるもの、様子を見るもの、まだ使えるものに分けます」


「また記録か」


「はい」


 バラドは低く笑った。


「お前、本当に呪いみたいな奴だな」


「よく言われます」


「言われてねえだろ」


「こちらでは、そこそこ」


 事故の夜、怜司は牢の壁に背をつけ、天井の灯苔を見上げた。見落としは、必ずある。分かっていても、次の見落としは来る。ただ、見落としに気づける場所にいることだけは、続けなければならなかった。

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