第9話 グラムと、殴らなくて済む理由
事故の翌日から、怜司は支柱点検を始めた。
もちろん、専門家ではない。構造計算などできない。鉱山の支保工について、前世で学んだこともない。だから、できることは限られていた。根元が腐っていないか。叩いた音が鈍くないか。押した時に沈まないか。水が染みていないか。支柱の周りの岩に新しいひびがないか。掘り手や運搬奴隷に「最近音が変わった場所はないか」と聞く。
ご都合主義で崩落を完全に防げるわけではない。
だからこそ、怜司は慎重にした。自分が分からないことは、分からないと言う。危険度を三段階に分けるが、絶対安全とは言わない。バラドにも、ガルヴィンにも、そこは何度も伝えた。
「安全になるわけではありません。危ない場所を先に見つけるだけです」
「それで十分だ」
バラドは短く言った。
ガルヴィンは不満そうだった。支柱を替えるには木材が要る。木材は金がかかる。坑道を一時止めれば、その間の採掘量が落ちる。帳簿役にとって安全対策は、数字を減らす厄介な項目だった。
「支柱を替える間、第一区の採掘が落ちる」
ガルヴィンは木板を抱えながら言った。
怜司は、できるだけ平静に答えた。
「崩れれば、もっと落ちます」
「脅しか」
「事実です」
「奴隷のくせに」
「はい。奴隷です」
怜司が素直に認めると、ガルヴィンは言葉に詰まった。怜司は相手の罵倒に逆らわない。ただ、その罵倒と提案の妥当性は切り分ける。前世で身につけた、人格攻撃を業務に持ち込まない技術だった。もっとも、前世ではそれで心が削れた。今世では首も削れかねない。
支柱点検の結果、明らかに危険な場所が三か所見つかった。すべてを直す木材はない。そこで怜司は、廃坑の入口に放置されていた古い支柱を回収し、まだ使える部分だけを切り出す案を出した。鍛冶場の自由民職人が嫌そうに作業を引き受け、奴隷たちが運んだ。手間はかかったが、新しい木材を買うよりは安い。
このあたりから、奴隷たちの怜司を見る目が変わり始めた。
最初は、変な新入り。
次に、鞭を減らす変な奴。
そして、事故で人を死なせなかった変な奴。
変な奴であることは変わらないらしい。
だが、そこに少しずつ敬意のようなものが混じった。
ルカンはある夜、牢の中で怜司の隣に座り、ぽつりと言った。
「七番。お前が来てから、息がしやすい」
怜司は返事に困った。粉塵対策の話かと思ったが、ルカンの顔は真面目だった。彼は自分の手のひらを見下ろし、潰れた豆の跡を親指でなぞっている。
「前は、明日どこで殴られるかだけ考えてた。今も殴られるけど、少しは理由が分かる。どこで詰まるか、どこで転ぶか、誰が倒れそうか。分かると、少しだけ怖くねえ」
怜司は胸の奥が詰まった。
怖さは消えていない。消せるはずがない。けれど、分からない恐怖が、分かる危険に変わるだけで、人は少しだけ息ができる。前世の怜司も、そうだったのかもしれない。炎上案件でも、何が燃えているか分かれば動けた。何も分からず怒鳴られる時が、一番つらかった。
「僕も、同じです」
怜司は言った。
「分かれば、少しは動けます」
「じゃあ、もっと分かれ」
「言い方が雑ですね」
「俺は奴隷だからな。丁寧な言い方は知らねえ」
「僕も奴隷なんですが」
「お前は何か違う」
ルカンはそう言って、壁に頭を預けた。その横顔には疲労が濃い。それでも、最初に会った時より目の奥に力が戻っている。トマは少し離れた場所で、怜司が地面に描いた記録の真似をしていた。丸と線の意味はまだ怪しいが、彼なりに何かを数えようとしている。マイラはそれを見て、「変な癖を覚えたね」と呟いた。
十一日目、バラドは第三区の奴隷たちへ、薄い塩水を配らせた。
これも怜司の提案だった。
重労働で汗をかき、水だけを飲んでいると、足が攣る者が出る。怜司は前世の熱中症対策を思い出し、塩が必要だと考えた。ただし、塩は貴重品だった。鉱山では食料の味付けにもほとんど使われない。いきなり全員に塩を増やせと言っても通らない。
そこで、彼は足が攣って倒れる者の数を記録し、倒れた際に止まる時間を示した。さらに、料理場でこぼれた塩や、塩漬け肉を保存していた樽の底に残る濃い塩水を薄めて使えないかと提案した。まともな衛生観念からすれば問題は多い。だが、この鉱山の水桶と粥を見た後では、相対的に許容範囲だった。
「樽の底水を飲ませる気か」
ガルヴィンは顔をしかめた。
「そのままではなく、薄めます。全員ではなく、汗を多くかく運搬列と掘り手に少量です」
「腹を壊したらどうする」
「今も壊しています」
ガルヴィンは黙った。
怜司は続けた。
「量を間違えれば危険です。最初は数人で試します。駄目ならやめます」
試された薄い塩水は、不味かった。
黒麦粥とは別方向に不味い。塩気というより、樽と肉と古い木の記憶が水に溶けた味だった。怜司は一口飲んで、思わず遠い目になった。スポーツドリンクが恋しい。前世で何気なく買っていたペットボトル飲料は、もはや王侯貴族の霊薬に思えた。
だが、効果はあった。
少なくとも、足が攣って倒れる者は減った。特に暑い奥の坑道で働く者には恩恵が大きかった。味については奴隷たちから不満が出たが、ルカンが「粥よりは味がある」と言い、トマが「味がある不味さ」と評価し、マイラが「不味いなら薬だと思いな」と締めたことで、何となく受け入れられた。
十二日目には、第三区の入口に、簡単な手すりがついた。
手すりといっても、立派なものではない。古い縄を壁の鉄環に通し、滑りやすい坂の片側に張っただけだ。最初、怜司は木の棒を渡したかったが、木材は支柱に回され、余りがなかった。そこで廃棄寸前の荷縄を使った。擦り切れている部分は結び直し、弱い箇所は二重にした。
これも完璧ではない。強く体重をかければ切れる。だから、怜司は「掴まって体を預けるものではなく、姿勢を戻すためのもの」と説明した。だが、奴隷たちにその微妙な差を伝えるのは難しかった。
「つまり、掴めばいいんだな」
ルカンが言う。
「掴みすぎると切れます」
「じゃあ掴めねえじゃねえか」
「転びそうな時だけです」
「転びそうな時に、そんな細かいこと考えられるか?」
「そこが課題です」
「課題にすんな」
結局、何人かが強く引きすぎて縄が緩み、バラドに怒鳴られた。グラムはここぞとばかりに「七番のせいで余計な手間が増えた」と言った。怜司はすぐに頭を下げ、縄の位置を少し低くし、結び目を増やし、使い方を実演した。自分で坂を下りながら、転びそうな時だけ軽く掴む。非常に地味な実演だったが、トマが真似し、ルカンが大げさに転びかける演技をし、周囲が少し笑った。
その後、坂での転倒は減った。
グラムは面白くなさそうだった。
彼の敵意は、日を追うごとに濃くなっていた。怜司の改善によって鞭の回数が減ると、監督奴隷の存在感も薄くなる。これまで怒鳴り、殴り、恐れられることで立場を保っていた者にとって、「仕組みを変えれば殴らなくて済む」という事実は脅威だった。
十三日目の作業後、グラムは怜司を選別場の裏へ呼び止めた。
そこは灯苔の光が届きにくく、積まれた空籠が視界を遮る場所だった。怜司は呼ばれた瞬間に嫌な予感がしたが、無視することはできない。グラムもまた監督役であり、一定の命令権を持っている。首の隷印がそれをどう判定するか分からない以上、従うしかなかった。
グラムは棍棒を手にしていた。
「七番。お前、自分が偉くなったつもりか」
声は低く、怒りを押し殺していた。怜司は背筋を伸ばし、頭を下げる。
「いいえ。僕は奴隷です」
「なら、奴隷らしく荷を運べ。バラドに媚びて、帳簿役に気味悪がられて、俺たちの仕事に口を出すな」
「仕事を奪うつもりはありません」
「奪ってるんだよ」
棍棒の先が、怜司の胸を軽く押した。軽くとはいえ、今の体には十分痛い。背中が空籠に当たり、籠が乾いた音を立てる。
「お前が来てから、奴らが俺を見る目が変わった。殴られなくても動けると思い始めてる。ふざけるな。奴隷は殴らなきゃ動かねえ。俺はそうやって覚えた。俺もそうやって生き残った」
怜司は息を呑んだ。
グラムの目にあったのは、単なる嫉妬ではなかった。怒りの奥に、もっと古い痛みがある。彼もまた奴隷だ。首には隷印がある。棍棒を持たされているだけで、自由民ではない。殴る側に回ったから生き残れた。だから、殴らなくても回る現場を認めることは、自分が受けてきた痛みの意味を失わせることになる。
厄介だ。
そして、悲しい。
だが、悲しんでいる場合ではない。棍棒は目の前にある。
「グラムさん」
「さんをつけるな、気色悪い」
「では、グラム」
怜司はすぐに修正した。相手の要求はできる限り飲む。譲れない部分を守るために、譲れる部分は全部譲る。前世のクレーム対応で学んだ基本である。
「僕は、あなたの仕事をなくしたいわけではありません。むしろ、あなたが殴らなくても済む理由を作っています」
「どういう意味だ」
「鞭や棍棒を使えば、奴隷はあなたを恨みます。でも、仕組みが悪くて止まるなら、あなたが怒鳴らなくてもバラドさんに怒られます。今は、あなたが全部の恨みを背負わされています」
グラムの眉が動いた。
怜司は慎重に続ける。
「運搬列が止まる。上からあなたが怒られる。あなたは下を殴る。下はあなたを恨む。でも、段差が悪い、荷の詰め方が悪い、水の位置が悪いなら、本当はあなた一人のせいではありません」
「俺のせいじゃない?」
「少なくとも、全部ではありません」
グラムの棍棒が、わずかに下がった。
怜司は内心で息を吐きかけたが、油断はしなかった。ここで説教臭くなると逆効果だ。相手を悪者にしない。相手も構造の被害者だと示す。ただし、完全に許すわけではない。難しい。非常に難しい。前世の管理職研修でやってほしかった内容である。受けたことはないが。
「あなたが見るべきものを変えれば、殴る回数を減らしても、奴隷は動きます。むしろ、あなたが『止まる場所』を先に見つければ、バラドさんからの評価は上がるはずです」
「俺に、お前みたいなことをしろってのか」
「全部ではありません。まず、止まった場所を覚えるだけでいいです。誰が怠けたかではなく、どこで止まったかです」
グラムは黙った。
彼の顔には、納得と反発がせめぎ合っていた。受け入れれば、自分の今までを否定することになる。だが、受け入れなければ、バラドの目は怜司へ向き続ける。グラムにとっても、生き残るための選択だった。
長い沈黙の後、グラムは棍棒を下ろした。
「気に入らねえ」
「はい」
「お前は本当に気に入らねえ」
「よく言われます」
「だから、そういうところだ」
グラムは吐き捨てるように言い、怜司の横を通り過ぎた。殴られなかった。膝の力が抜けそうになるのを、怜司は必死にこらえた。交渉成功。いや、成功と呼ぶにはまだ早い。敵意が消えたわけではない。ただ、棍棒が振られなかっただけだ。
それでも十分だった。
十四日目。
グレンツ鉱山の第三区は、怜司が目覚めた日とは別の場所のようになっていた。
もちろん、美しい場所になったわけではない。地下は相変わらず湿っている。黒鉄石は重い。粥は不味い。隷印は首にあり、バラドは鞭を持ち、ガルヴィンは嫌味で、グラムは怖い。奴隷たちは自由ではないし、明日も労働は続く。
だが、変わった。
段差には踏み台が固定され、坂には古い縄が張られ、空籠は壁際に並ぶようになった。水桶は折り返し地点にも置かれ、泥が入りにくいよう石が敷かれている。荷の詰め方は多くの者が覚え、トマのような小柄な者は補助役と軽量運搬を組み合わせるようになった。粉塵の多い第一区では濡れ布が使われ、第二区ではすれ違いの待機場所が作られた。支柱には危険度を示す石の印が置かれ、バラドは危ない場所から順に補修を命じている。
そして何より、奴隷たちが周囲を見るようになった。
以前は、自分の足元と監督の棍棒だけを見ていた者たちが、今は荷の偏り、前の列の詰まり、水桶の位置、支柱の色を気にする。トマは落下物が増えた場所を怜司に教え、ルカンは新人に石の詰め方を乱暴に説明し、マイラは食事列の偏りに目を光らせる。グラムでさえ、怒鳴る前に一瞬だけ「どこで止まったか」を見るようになった。
それは小さな変化だった。
だが、鉱山全体にとっては劇的だった。
ガルヴィンがまとめた数字によれば、第三区の運搬量は以前より三割以上増え、落下による損失は半分近くに減り、作業中に倒れる者も目に見えて減った。第一区と第二区でも、完全ではないが改善傾向が出ている。鉱山主へ報告される数字は良くなり、商会は機嫌を良くし、バラドの現場評価も上がった。
その結果、奴隷たちにも小さな恩恵が落ちた。
夕食の黒麦粥が、ほんの少しだけ濃くなったのだ。
本当に、ほんの少しだった。椀の底が見えにくくなった程度である。だが、奴隷たちにとっては事件だった。トマは椀を見て固まり、ルカンは疑わしそうに匂いを嗅ぎ、マイラは一口すすってから「今日は水じゃないね」と評した。
怜司は椀を両手で抱えながら、静かに感動していた。
黒麦粥に感動する人生。
かなり下方修正された幸福だったが、幸福であることに違いはなかった。前世の自分が見たら泣くだろう。いや、前世の自分もコンビニの割引弁当に感動していたので、そこまで変わらないかもしれない。
ルカンが横で粥をすすりながら、静かに椀の底を見ていた。何も言わない。だが、その顔には、怜司がこの鉱山で初めて見る類の表情があった。驚きでも安堵でもなく、何か遠くのものを確かめるような目だった。怜司はその横顔を見て、言葉をかけるのをやめた。粥が少し濃くなっただけのことが、ここでは事件なのだ。それくらいの静けさは、あっていい。
トマは椀を胸に抱え、粒を一粒ずつ確かめるように食べていた。マイラは食べ終えてから、珍しく何も言わずに目を閉じた。
そこへ、バラドが食事場の端から声をかけた。
「七番」
怜司は椀を置き、立ち上がった。周囲の奴隷たちが自然と彼を見る。その視線に、怜司はまだ慣れない。以前は誰も彼を見なかった。見ても、すぐ潰れる新入りとしてだった。今は違う。期待、警戒、好奇心、感謝。重い。非常に重い。前世で「佐久間くんに任せれば何とかなる」と言われた時の嫌な記憶が蘇り、怜司は背筋に汗をかいた。
任せないでほしい。
だが、逃げられない。
バラドは作業場の隅で腕を組んでいた。隣にはガルヴィンもいる。帳簿役の顔は相変わらず不機嫌だが、以前ほど露骨な侮蔑はない。代わりに、もっと厄介な計算の色があった。
「鉱山主がお前に興味を持った」
バラドは短く言った。
怜司の胃が、すとんと落ちた。
来た。
成果が上に見つかった。
前世なら、ここから新しい仕事が増える。しかも評価は上司のものになり、実務は自分に来る。異世界でも、おそらく同じだ。いや、こちらではもっと悪い。奴隷としての価値が上がるということは、より高く売られるか、より厳重に管理されるか、より危険な仕事を任されるかのどれかだ。
怜司は喉の渇きを覚えた。
「それは、良いことでしょうか」
バラドは答えなかった。
ガルヴィンが代わりに口を開く。
「数字を出す奴隷は価値がある。価値があるものは、より有効に使われる」
嫌な言い方だった。
だが、真実でもあった。
怜司は自分の首にある隷印を意識した。熱はない。痛みもない。ただ、そこにある。自分が所有物であることを、黙って主張している。どれほど環境を改善しても、どれほど鞭を減らしても、どれほど粥が濃くなっても、この印がある限り、自分は自由ではない。
それでも、昨日よりはましになった。
トマの椀には粒がある。ルカンは少し笑う。マイラは食事列を見て文句を言える。グラムは殴る前に止まった場所を見る。バラドは支柱を替える。鉱山は、ほんの少しだけ壊れにくくなった。
なら、次だ。
一度死んだ身だ。どうせなら、前世でできなかったことをやる。自分のために働く。生きるために数字を出す。ただし、その数字が誰かをさらに苦しめるなら、そこにも手を突っ込む。
怜司は静かに息を吸った。
「分かりました」
「何が分かった」
バラドが問う。
「価値があるなら、交渉材料になります」
ガルヴィンの眉が跳ねた。バラドの目が細くなる。周囲の空気が一瞬で張り詰めた。奴隷が交渉などという言葉を使うこと自体、危険だった。隷印が熱を持つ。怜司はすぐに言葉を補った。
「鉱山の利益を増やすための条件を、確認したいという意味です」
熱が、ぎりぎりで止まった。
バラドはしばらく怜司を見ていた。やがて、呆れたように笑った。
「お前は本当に、長生きしない奴隷だ」
「前の世界では、実際に長生きできませんでした」
「笑えねえ冗談だな」
「本人もそう思います」
バラドは鼻を鳴らした。ガルヴィンは不快そうに木板を抱え直したが、何も言わなかった。
怜司は食事場へ戻った。奴隷たちの視線が集まる。ルカンが椀を片手に、低く尋ねた。
「今度は何をする気だ」
「できれば、寝床を乾かしたいです」
怜司が真顔で言うと、ルカンは一瞬黙り、それから肩を震わせた。
「鉱山主が興味持ったって話の後に、それかよ」
「重要です。睡眠環境は翌日の労働効率に直結します」
「お前、本当にぶれねえな」
「ぶれるほど余裕がありません」
トマが小さく笑い、マイラも口元だけを緩めた。怜司は椀を持ち上げ、少し濃くなった黒麦粥をすすった。
味は、やはり不味かった。
だが、初日に飲んだ水のような粥とは違う。これは、二週間分の痛みと汗と、石三つから始まった改善と、奴隷たちが少しずつ取り戻した息の味だった。
怜司は心の中で、前世の自分へ告げた。
佐久間怜司。
君は仕事に殺された。
けれど、どういうわけか、死んだ後も働いている。
ただし今度は、誰かに押し付けられた仕事ではない。
自分が生きるための仕事だ。
そして、できれば隣の誰かも明日まで生かすための仕事だ。
それが立派なことなのか、ただの社畜根性の再利用なのか、怜司にはまだ分からない。
だが、少なくとも今の彼は、駅のホームで倒れた時のように、誰かの資料の引き継ぎを心配してはいなかった。
彼が今考えているのは、湿った寝床をどう乾かすかである。
異世界に転生して、奴隷になり、鉱山主に目をつけられた男の次なる目標としては、あまりにも地味だった。
けれど、怜司にとっては切実だった。
なにしろ、明日も出勤しなければならないのだから。




