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第7話 三日間で、鉱山が少し変わった

 三日が過ぎた。


 グレンツ鉱山の時間は、太陽ではなく鐘で刻まれる。地下にいると朝も昼も夜も分からない。地上の鐘楼から響く低い鐘の音だけが、奴隷たちに食事と労働と睡眠の区切りを知らせる。怜司はその鐘の間隔を体で覚え始めていた。最初の鐘は体が痛む合図、二つ目の鐘は肩が死ぬ合図、三つ目の鐘は空腹が人格を持つ合図、最後の鐘は藁に倒れ込む許可証である。


 改善は、少しずつ広がった。


 まず、荷の詰め方が定着した。大きい石を下へ、小さい石を隙間へ、背中側に平たい石。誰かが口に出して教えたわけではない。だが、楽に歩ける者が増えれば、周囲は自然と真似をした。怜司はそれを見て、前世でマニュアルを作るより、隣の席の人間に実演させる方が早かったことを思い出した。人間は文書より、目の前の成功例に弱い。


 次に、空籠の置き場が変わった。


 これまでは、戻ってきた奴隷が坑道入口に適当に空籠を投げていたため、満杯の荷を背負った者とぶつかり、そこで渋滞が起きていた。怜司は壁際に黒鉄石で低い線を作り、空籠だけをそこへ並べるようにした。最初は誰も守らなかった。グラムがわざと蹴散らしたこともある。だが、バラドが一度だけ「そこに置け」と怒鳴ると、空気が変わった。


 命令になると、鉱山では速い。


 そのことに怜司は複雑な気持ちになった。自発的な改善より、鞭を持つ者の一声の方が通る。現場文化としては最悪だが、利用しない手はない。彼は以後、自分で直接広めようとせず、バラドに短く利点を説明し、バラドの命令として落とす方法を覚えた。


 根回しである。


 異世界に来て、怜司は根回しをしていた。


 自分の人生の変わらなさに、少しだけ泣きたくなった。


 三つ目は、水桶だった。


 第三区では、水桶が坑道入口に一つしかなく、運搬の途中で喉が渇いた者は入口まで戻るか、我慢するしかなかった。結果として、戻りの列と水を飲む者がぶつかり、作業が止まる。さらに、喉の渇きで足元が乱れ、転倒が増える。怜司はバラドに、桶を二つに分け、一つを折り返し地点の近くへ置くことを提案した。


 最初、バラドは渋った。


「奥に置けば、奴らは水を飲むふりをして休む」


「入口で詰まるよりはましです。水を飲む位置を決めれば、監督もしやすくなります」


「桶を誰が運ぶ」


「足の遅い者に。運搬列に入れるより、桶の補充役にした方が役に立ちます」


「またそれか」


 バラドはうんざりした顔をしたが、結局試すことを許した。桶を一つ増やすのではなく、既存の桶を分けるだけなら費用は少ない。問題は水が薄汚いことだったが、それはすぐには解決しない。怜司はせめて桶の周囲に石を敷き、泥が混じりにくくした。


 その作業中、トマが小声で言った。


「七番、何でも石で直すね」


「この職場、石だけはたくさんありますから」


「職場?」


「働く場所です」


「鉱山でいいじゃん」


「確かに」


 怜司は石を並べながら、妙に納得した。どうも自分は、この地獄を会社の延長線で理解しようとしている。それが滑稽でもあり、危うくもある。ここは会社ではない。上司に怒られても命までは取られない社会ではない。失敗は痛みになり、時に死になる。


 けれど、会社として捉えなければ、怜司は恐怖で動けなくなる気もしていた。


 社畜としての認識の枠組みは、彼にとって呪いであり、同時に松葉杖だった。


 三日目の終わり、ガルヴィンは木板に刻んだ数字を見て、しばらく黙っていた。第三区の運搬量は、初日以前の平均より三割近く増えていた。もちろん、奴隷たちが突然強くなったわけではない。むしろ一回ごとの荷を減らされた者もいる。増えたのは、止まらない時間だった。落下が減り、背負い直しが減り、水のための渋滞が減り、段差での罵声が減った。


 劇的、と言うには地味な改善の積み重ねだった。


 だが、結果は劇的だった。


「……三割」


 ガルヴィンが低く呟いた。


 その声には、驚きと不快感が同じ量だけ含まれていた。奴隷の提案で数字が改善したことが、彼の自尊心を傷つけているのだろう。怜司はその表情を見て、前世の会議室で自分の資料を上司が自分の手柄のように説明していた場面を思い出した。あの時も、怜司は隅で黙っていた。


 今回は、黙っていても首が繋がるなら、それでいい。


 バラドは腕を組み、黒鉄石の山を見ていた。彼の顔には、かすかな満足がある。現場が回ることは、彼の評価に直結する。つまり、怜司の改善はバラドの利益にもなる。これは重要だった。


「ガルヴィン。続けるぞ」


「勝手に決めるな。増えたなら、採掘長はもっと掘らせると言う。鉱山主も増産を求める。そうなれば、第三区だけでは済まん」


「それで困るのか」


「困る。数字が変われば帳簿を直す必要がある」


 そこか。


 怜司は心の中で突っ込んだ。人が楽になるかどうかではなく、帳簿修正が面倒なのか。いや、分かる。前世でも業務フローが変わると管理表を直さなければならず、そこに無駄な抵抗が生まれた。人間は、どの世界でも帳票の変更を嫌う生き物らしい。


 バラドが怜司を見た。


「七番。他の区でもできるか」


 怜司の背中に、嫌な汗が流れた。


 来た。


 改善の横展開。


 前世で最も恐ろしい言葉の一つだった。一部署でうまくいった小さな工夫が、上層部の耳に入り、「全社展開しましょう」と言われる。現場ごとの違いも、人員差も、道具の不足も無視される。そして最初に提案した人間が、なぜか全責任を持たされる。


 異世界でも、それが来た。


 怜司はすぐに頷かなかった。ここで「できます」と言えば、終わる。自分の体力も、立場も、情報も足りない。第三区で通った方法が、他の坑道でそのまま使える保証はない。地面の傾斜も、鉱石の種類も、人員も、監督の性格も違うはずだ。


「確認しなければ分かりません」


 怜司は正直に言った。


 ガルヴィンの眉が吊り上がる。


「できると言えないのか」


「見ていない場所は、分かりません。第三区で有効だったのは、段差と動線と荷崩れが原因だったからです。他の区では別の原因かもしれません。原因が違えば、同じことをしても効果は出ません」


 言いながら、怜司は自分の首の熱を意識した。だが、隷印は焼けない。命令への拒否ではなく、不確実性の説明。言い方さえ間違えなければ、まだ通る。


 バラドは少しだけ口角を上げた。


「見れば分かるのか」


「分かることもあります。分からないこともあります」


「はっきりしねえな」


「根拠なく言い切ると、あとで大変なことになります」


「そいつは分かる」


 バラドはガルヴィンをちらりと見た。ガルヴィンの顔がさらに不愉快そうになった。どうやら過去に、根拠なく言い切った誰かのせいで揉めたことがあるらしい。怜司はその空気を読み、深く踏み込まないことにした。職場の過去トラブルには不用意に触れない。これも生存技術である。


 結局、怜司は翌日から第一区と第二区を短時間だけ見て回ることになった。


 もちろん、自由に歩けるわけではない。バラドが同行し、グラムが後ろにつく。怜司は手足に枷をつけたまま、坑道を移動した。奴隷が他区へ移動することは珍しいらしく、あちこちから視線が刺さる。好奇心、警戒、敵意、疲労。どれも濁っていて、澄んだものはほとんどない。


 第一区は乾いていた。


 第三区のような湿気は少ないが、代わりに粉塵が酷い。壁から削られた灰色の粉が空気中に漂い、奴隷たちは頻繁に咳き込んでいる。黒鉄石よりも脆い灰鉱石が多く、砕けやすい分、籠の隙間から粉や小片が落ちる。地面には細かい破片が積もり、滑るというより、足裏が取られるようだった。


 第二区は逆に狭かった。


 坑道そのものが細く、行きと帰りのすれ違いが難しい。荷を背負った者同士が肩をぶつけ、そこで怒鳴り合いになる。監督奴隷が棍棒で急かすため、焦った奴隷が壁に籠をぶつけ、鉱石を落とす。こちらは踏み台でも詰め方でもなく、通行の順番そのものが問題だった。


 同じ鉱山でも、問題は違う。


 それを見た怜司は、むしろ少し安心した。すべてが同じでないなら、考える余地がある。逆に言えば、一つの万能策で解決するような都合のいい現場ではない。


 第一区では、濡らした布を口元に巻くことを提案した。


 だが、布が足りなかった。


 奴隷たちの服はもともとボロ布同然で、切り取れば肌が露出し、擦り傷が増える。バラドは即座に却下しかけた。怜司はそこで、破れた穀物袋を使えないかと提案した。食料倉庫にある黒麦袋は、破れたものが捨てられている。それを細く裂き、水で湿らせ、粉塵の多い区の掘り手に優先して配る。


「袋は商会の物だ」


 ガルヴィンは嫌そうに言った。


「破れて廃棄するものだけで構いません。咳で掘り手が止まる回数が減れば、採掘量が安定します」


「洗う手間は」


「洗いません。汚れたら水桶で濡らし直します。使えなくなれば捨てます」


「不潔だな」


 お前が言うのか、と怜司は思ったが、口には出さなかった。奴隷牢の衛生状態を見た後では、湿った穀物袋の布など高級マスクに見える。いや、見えない。さすがにそれは前世の文明に対する冒涜だ。


 結局、第一区では破れ袋の布が試された。効果は完全ではない。咳は減ったが、息苦しいと嫌がる者もいた。湿らせすぎると呼吸しづらく、乾くと粉を通す。それでも、何もないよりはましだった。特に年配の掘り手は、作業後の咳込みが少し減った。


 第二区では、すれ違いの規則を作った。


 細い坑道では、満杯の荷を背負った者を優先し、空籠で戻る者は壁際のくぼみで待つ。くぼみの場所には白っぽい石で印を置く。最初、奴隷たちは混乱した。待てと言われると怠けと見なされるのではないかと恐れたのだ。怜司はバラドに頼み、最初の鐘だけ監督に「待て」と命令させた。


 また命令だ。


 怜司は胸の中で苦く笑った。自由な改善などない。鉱山で何かを変えるには、支配の声を借りなければならない。だが、その命令によって、肩をぶつけて転ぶ奴隷が減った。


 良いことなのか、悪いことなのか。


 答えは出なかった。


 その夜、牢に戻った怜司は、藁の上に静かに横になった。体は限界だった。それでも、頭の中では鐘ごとの数字が動き続けている。止まった場所、倒れた者、鞭の回数。翌日も、また鐘が鳴る。その前に、もう少しだけ考えておかなければならないことがあった。

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