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第6話 二日目の朝と、最初の条件交渉

 翌朝、怜司は自分の体がまだ生きていることに、まず驚いた。


 目を開けるより先に、全身の痛みが彼へ挨拶してきた。肩は焼いた鉄板を押し当てられたように熱く、腰は古い蝶番のように軋み、太ももは自分の意思とは無関係に細かく震えている。手のひらには潰れた豆が張りつき、鉄枷の擦れた手首には乾いた血がこびりついていた。眠った、というより、気絶していただけなのだろう。汚れた藁の臭いも、石壁から滲む湿気も、隣で誰かが咳き込む音も、昨日と同じようにそこにあった。


 つまり、夢ではなかった。


 佐久間怜司(さくまれいじ)は駅のホームから落ちて死に、ヴェルガ王国西部、ザルムント伯領のグレンツ鉱山で、銀貨三枚の奴隷として目を覚ました。首には隷印、手足には鉄枷、食事は黒麦粥、職場は地下鉱山、直属の上司は鞭を持っている。


 転職先としては、かなり労働環境が悪い。


 怜司は藁の上で仰向けになったまま、薄暗い天井に生えた灯苔を眺めた。青白い光は淡く、どこか水底のように揺れている。前世のアパートの天井には、蛍光灯の紐が垂れていた。あれを引くと、寝る前の世界は消えた。今は紐もない。消えるのは自分の意識だけで、世界の方は律儀に続いている。


 不思議なほど、涙は出なかった。


 昨日は恐怖と混乱で、何もかもが現実味を持たなかった。だが、一晩、いや一晩と呼べるかも分からない短い気絶を挟んだことで、怜司の中に奇妙な空白ができていた。前世で死んだ。その事実が、恐ろしいほど簡単に腹の底へ落ちている。


 一度死んでいる。


 なら、二度目は何をそんなに怖がる必要があるのか。


 そう思った瞬間、首筋の隷印がじんわりと熱を持った気がして、怜司はすぐに考えを訂正した。怖いものは怖い。痛いものは痛い。死んだ経験があっても、鞭で叩かれれば普通に泣く。そこを勘違いしてはいけない。精神論で肉体の痛みは消えない。前世で散々学んだことである。


 ただ、死ぬほど嫌なことを毎日我慢して、結局本当に死んだ男として、一つだけ開き直れることがあった。


 どうせ、このままなら長くはもたない。


 昨日の作業だけで、怜司の体は限界だった。あと何日も同じように荷を背負えば、肩か腰か膝のどこかが先に壊れる。倒れれば休憩、起きなければ廃棄。バラドが言った言葉は冗談ではない。鉱山における人間は、黒鉄石を運ぶための消耗品だった。


 なら、消耗の速度を下げるしかない。


 前世の怜司は、ブラック企業を変えることができなかった。上司に逆らえず、理不尽を飲み込み、終電を逃し、休日出勤し、最後にはホームから落ちた。改善提案など何度も出した。だが、上から返ってくるのは「現場でうまくやって」「予算がない」「今回は見送り」「でも成果は出して」ばかりだった。


 ここも同じだ。


 いや、同じではない。こちらには労基署がない。就業規則もない。退職代行もない。だが、その代わり、前世よりもずっと単純なものがある。


 数字だ。


 鉱山は鉱石を求めている。商会は利益を求めている。帳簿役は量を見ている。バラドは現場が止まることを嫌っている。奴隷たちは鞭と飢えを避けたい。全員の目的は一致していないが、少なくとも一つだけ重なる場所がある。


 壊れずに、より多く運ぶこと。


 その一点だけなら、交渉の余地がある。


 怜司はゆっくりと体を起こそうとした。背中の筋肉が抗議し、思わず変な声が出る。


「……ぬおっ」


 隣で丸まっていたルカンが、片目を開けた。寝起きの顔は昨日よりもさらに不機嫌で、髪には藁が絡んでいる。奴隷の朝に爽やかさは存在しないらしい。


「何だ、その声」


「体が出社拒否を」


「しゅっしゃ?」


「働きに行くことです」


「なら拒否したら首が焼けるな」


「そうでした」


 怜司は真顔で頷いた。なんという分かりやすい労務管理だろう。前世の会社も首に隷印を刻まなかっただけで、精神的には似たようなものだった気もするが、その比較はさすがに会社に失礼かもしれない。いや、どちらに失礼なのかは分からない。


 牢の奥でマイラが小さく咳をした。片目の女は壁にもたれたまま、起きているのか眠っているのか分からない顔で怜司を見ていた。


「新入り。昨日みたいに余計なことを言うなら、言う相手は選びな。あんたは運がよかっただけだよ」


 低く乾いた声だった。叱っているというより、既に何人も同じように死んでいくのを見てきた者の忠告だった。怜司は藁を払う手を止め、少しだけ頭を下げた。


「分かっています。今日は、昨日より慎重にします」


「慎重な奴は、そもそも初日に踏み台を作れなんて言わない」


「それは確かに」


 怜司が素直に認めると、マイラは呆れたように鼻を鳴らした。トマはまだ眠っているのか、膝を抱えたまま小さく丸まっていた。彼の細い肩が上下するたび、薄い布が擦れて音を立てる。昨日、段差で荷を落とした少年。棍棒を振り上げられた時の青ざめた顔が、怜司の脳裏に残っていた。


 自分のためだ。


 怜司はそう思った。


 トマを庇ったのは、自分が鞭を避けたかったからだ。環境を改善するのも、自分が生き残るためだ。奴隷解放だの、人権だの、そんな大きな言葉を掲げる余裕はない。今の怜司にあるのは、痛いのが嫌だ、飢えるのが嫌だ、死ぬのが嫌だ、という極めて個人的で情けない動機だけだった。


 だが、前世で学んだことが一つある。


 人間は、情けない動機でも動ける。


 むしろ、大層な理念より、今日の昼飯と明日の睡眠時間の方が、現場ではよほど強い。


 鉄扉の向こうで鍵束が鳴り、バラドの怒鳴り声が通路に響いた。奴隷たちは一斉に身を起こす。動きが遅れた者には、見張りの棍棒が床を叩く音が飛ぶ。怜司も慌てて立ち上がったが、足が震えて膝から崩れかけた。ルカンが何も言わず、彼の肘を掴む。乱暴だが、支えてくれているのは分かった。


「二日目で潰れるなよ、七番。前の七番より短いと、縁起が悪いどころじゃねえ」


「前任者超えを目標にします」


「目標が低い」


「現実的と言ってください」


 ルカンは笑いかけたが、すぐに表情を消した。牢の扉が開き、バラドが姿を見せる。革鎧には昨日と同じ鉱石粉がつき、額の傷痕が灯苔の光に鈍く浮かんでいた。彼の背後には監督奴隷が二人いる。そのうち一人は、昨日トマを殴ろうとした男だった。太い首、落ちくぼんだ目、棍棒を握る手の節が白い。


 怜司を見る目が、明らかに冷たい。


 ああ、面倒なタイプの敵を作った。


 怜司は瞬時に理解した。前世で言うなら、ちょっとした改善で自分の仕事の粗さを可視化された先輩社員だ。こういう相手は理屈では動かない。自尊心が傷ついたと思えば、こちらの成果そのものを潰しにくる。しかも今回は、相手が棍棒を持っている。人事部に相談できないのが非常につらい。


「七番」


 バラドが呼んだ。


「はい」


「今日は第三区の運搬列を見る。お前は半分の荷でいいが、昨日言ったことを試す。荷を増やせとは言わん。止まる時間を減らせ」


 怜司は少しだけ目を伏せた。バラドは分かっている。新入りの痩せた少年に満杯の荷を背負わせても、すぐ潰れるだけだと。欲しいのは腕力ではなく、現場の詰まりを見つける目。つまり、怜司の価値を正しく利用し始めている。


 それはありがたくもあり、恐ろしくもあった。


「承知しました。ただ、一つ確認してもよろしいでしょうか」


 怜司がそう言うと、バラドの眉がわずかに寄った。だが、昨日のように即座に怒鳴りはしない。


「言え」


「改善によって運搬量が増えた場合、その増加分をすべて作業量の追加に回されると、奴隷の体がもちません。結果として数日後に倒れる者が増え、運搬量が落ちます」


 通路の空気が固まった。


 ルカンが横で息を呑む。トマは目を丸くし、マイラは片目を細めた。監督奴隷の一人が明らかに苛立った顔をする。奴隷が、作業量について条件をつけたように聞こえたからだ。


 怜司自身、首の隷印が焼けるのではないかと身構えた。


 しかし、痛みは来なかった。


 命令拒否ではない。商会の損を避けるための確認。どうやら、隷印はそこまで融通の利かない馬鹿ではないらしい。いや、融通が利く支配術というのも、それはそれで嫌だった。仕様が賢い分、抜け道が狭い。


 バラドは怜司をじっと見た。彼の目は怒っているというより、値踏みしているようだった。


「なら、どうする」


「増えた分の一部を、壊れやすい者の負担減に回します。具体的には、小柄な者や足の悪い者を同じ運搬列に入れ続けるのではなく、落下物回収、水桶の移動、空籠整理、選別場前の掃き出しに回します。運ぶ量そのものは減っても、列の詰まりが減れば全体量は落ちません」


「働けない奴に楽をさせろと言っているのか」


「いいえ。壊れやすい道具を、壊れにくい使い方に変えるという話です」


 自分で言っていて、怜司は胸の奥が少し痛んだ。


 人間を道具と呼んだ。そう言わなければ通じないからだ。バラドは奴隷を人間として扱わない。帳簿役も商会もそうだろう。なら、交渉の言葉は彼らの価値観に合わせるしかない。トマを守るために、トマを壊れやすい道具と言う。マイラを救うために、足の悪い者を効率の問題として扱う。


 嫌な作業だった。


 だが、前世でも同じことはあった。人員不足を「人が足りません」と訴えても通らない。「このままだと納期遅延で違約金が発生します」と言えば、上司はようやく耳を貸した。人間の苦痛は数字に変換しなければ、管理者の机の上には届かない。


 異世界でも、そこは変わらないらしい。


 バラドは少し黙った後、通路の壁に唾を吐いた。


「鐘二つ分だけだ。運搬が落ちたら戻す。あと、勝手に奴隷を動かすな。俺か監督に言え」


「分かりました」


「それと、帳簿役に先に言うな」


「はい。報告経路は守ります」


「その言い方をやめろ」


「はい」


 バラドは額を揉むような顔をした。怜司としては普通に返事をしているだけなのだが、この世界ではどうも言葉の角度が合わないらしい。異文化コミュニケーションは難しい。相手が鞭を持っている場合は、さらに難易度が上がる。


 朝食の黒麦粥は、昨日と同じように薄かった。


 ただ、怜司は今日は椀を抱えながら、粥の列を観察していた。配膳の老人は一人。椀は数が足りず、食べ終えた者から洗わずに次へ渡している。鍋の位置が通路の出入口に近いため、食べ終えた者とこれから作業場へ向かう者がぶつかる。粥の濃さは鍋の上と底で違い、最後の方に並ぶ者ほど焦げと沈んだ粒が多い。これは不満の種になる。いや、粥の濃さで争う人生は嫌だが、この環境では十分に争う理由になる。


 改善点が多い。


 多すぎる。


 怜司は椀の中を見下ろしながら、深いため息をついた。会社員時代、荒れた共有フォルダを見た時と同じ気分だった。誰も命名規則を守らず、「最新版」「最新版2」「本当の最新版」「最終」「最終_修正」「最終_これを使う」が並ぶ地獄。どこから手をつければいいか分からないが、放置すれば必ず事故る。


 鉱山全体が、その共有フォルダだった。


「また変な顔してるぞ」


 ルカンが隣で粥をすすりながら言った。


「仕事が山積みの時の顔です」


「奴隷に仕事が山積みじゃない時なんてあるのか」


「核心を突かないでください」


 怜司は粥を飲み込んだ。味は相変わらず薄い。だが、昨日よりも少しだけ冷静に食べられる。空腹が満たされるというより、体が作業開始の許可を得たような感覚だった。前世でいえば、朝の缶コーヒーに近い。あれも栄養というより、儀式だった。


 作業場へ出ると、第三区の坑道は既に湿った熱を帯びていた。地下なのに暑い。人の体温、岩盤からの生ぬるい湿気、灯苔の青白い光、鉱石粉を含んだ空気。肺に入るたび、喉の奥がざらつく。掘り手たちが壁を叩く音は、昨日よりもやけに大きく聞こえた。二日目だから耳が慣れたのではない。疲労で神経が剥き出しになっているのだ。


 怜司はまず、昨日置いた踏み台を確認した。黒鉄石二つを噛ませただけの簡易なものだが、夜の間に誰かが蹴ったのか、少し位置がずれている。これでは足を取られる。怜司はしゃがみ込み、石の向きを直した。腰に痛みが走り、思わず顔が歪む。


「七番。何をしている」


 背後から監督奴隷の声がした。昨日トマを殴ろうとした男だ。怜司は立ち上がり、頭を下げた。


「踏み台の位置を直しています。ずれていると、昨日より危険です」


「お前が置かせた石だろうが。危なくなったらお前のせいだな」


 男の口元に、嫌な笑みが浮かんだ。名を知らないままでは扱いづらい。怜司は近くの奴隷が彼を「グラム」と呼んでいたのを思い出した。監督奴隷グラム。覚えておく。敵意のある人物名は、前世でも顧客リスト並みに重要だった。


「そうですね。ですから、ずれないように小さい石を噛ませます」


「勝手にするな」


「では、バラドさんに確認します」


「いちいちバラドを出すな!」


 グラムの声が荒くなった。だが、怜司は反射的に一歩下がりながら、彼の手元を見ていた。棍棒は腰にある。まだ抜いていない。怒鳴って主導権を取りたい段階で、実際に殴るところまでは踏み切っていない。バラドが怜司を使おうとしているため、勝手に傷をつけるのを躊躇っているのだろう。


 なら、ここは引くべきだ。


「すみません。確認します」


 怜司がすぐに頭を下げると、グラムは拍子抜けしたように目を細めた。反論されると思っていたのだろう。謝罪は弱さに見えるが、相手の怒りの行き場を削る効果もある。前世で何度も使った生存技術だった。誇れるものではないが、使えるものは使う。


 怜司はバラドを探し、踏み台の固定について確認を取った。バラドは面倒くさそうにしながらも、実際に足で踏んでぐらつきを確かめると、小石を噛ませることを許した。


「ただし、坑道を塞ぐな。崩れたらお前を下敷きにする」


「責任の所在が明確ですね」


「何だそれは」


「いえ、分かりやすいという意味です」


 バラドは首を捻ったが、深追いはしなかった。


 最初の改善は、踏み台の固定だった。


 小さなことだが、効果はすぐに出た。トマや足の悪い老人が段差を越える時、荷が揺れにくくなった。落下物が減ると、列が止まる時間が減る。列が止まらなければ、後ろで怒号が飛ぶ回数も減る。怒号が減れば、焦って転ぶ者も減る。


 たった石三つ。


 それで、鞭が一度減った。


 怜司はそれを見て、胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。前世で出した改善提案は、承認印が押されるまで何週間もかかった。押された頃には担当者が変わり、予算が消え、結局「来期検討」になった。それに比べれば、ここでは石を置くだけで結果が出る。


 ただし、失敗すれば殴られる。


 承認フローの代わりに暴力がある職場。分かりやすいが、まったく羨ましくはない。


 次に怜司が手をつけたのは、荷の詰め方だった。


 運搬奴隷たちは、掘り手が砕いた黒鉄石を背負い籠に詰める時、とにかく目についたものから放り込んでいた。大きい石が上に来ることもあれば、小さい石だけが片側に偏ることもある。結果として歩くたびに荷が揺れ、肩紐が食い込み、足元が乱れる。満杯まで詰めた者ほど、途中で一度立ち止まり、背負い直す必要があった。


 怜司は自分の籠で試した。大きな石を下へ、平たい石を背中側へ、小石を隙間へ入れる。重心を背中に近づけ、左右の偏りを減らす。現代の物流倉庫で働いた経験はないが、引っ越しの段ボール詰めや、営業資料の梱包で似たようなことはしていた。重いものを下に、隙間を埋める、動かないようにする。基本は同じだ。


 ただし、ここには段ボールも緩衝材もない。


 あるのは石と籠と、痛む肩だけである。


「ルカンさん、少し試してもらえますか」


 怜司が声をかけると、ルカンは怪訝そうに振り返った。


「さん?」


「敬称です」


「気持ち悪いからやめろ。で、何だ」


「その籠、右に偏っています。大きい石を下に入れ直すと、少し歩きやすくなると思います」


「入れ直す時間が無駄だろ」


「途中で背負い直す回数が減れば、元は取れます」


「もとはとれる?」


「損はしません」


「最初からそう言え」


 ルカンは面倒くさそうにしながらも、怜司の指示通りに石を入れ直した。最初は半信半疑だったが、背負った瞬間、少しだけ目を見開く。


「……軽くなった、わけじゃねえな」


「重さは同じです。揺れが減っただけです」


「それでこんなに違うのか」


「肩への嫌がらせが少し減ります」


「石に嫌がらせされてたのか、俺たちは」


「かなり悪質です」


 ルカンが短く笑った。その笑いはすぐに咳へ変わったが、周囲の奴隷たちは二人のやり取りを見ていた。特にトマは、自分の籠を不安そうに見下ろしている。怜司が小さく手招きすると、少年はびくびくしながら近づいた。


「トマの籠は、満杯にしない方がいいです」


「でも、少ないと怒られる」


「少ないまま何度も運ぶ方がいい。大きい石を二つ減らして、その代わり小石を隙間に詰めてください。見た目の量はあまり変えずに、重さを少し落とします」


 トマは目を丸くした。


「そんなことしていいの?」


「よくはないです」


 怜司は正直に言った。


「ただ、倒れるよりはいいです。見つかった時は、僕が詰め方の調整だと言います」


「また七番が変なこと言ってるって、怒られるよ」


「慣れてきました」


「慣れちゃ駄目だと思う」


 トマの指摘は正しかった。奴隷の少年に常識を諭される元社会人。怜司は少し遠い目になった。


 詰め方の改善は、すぐに全員へ広がったわけではない。むしろ最初は反発の方が多かった。入れ直す時間が無駄だと言う者、今までのやり方を変えたくない者、監督奴隷に目をつけられるのを恐れる者。奴隷たちにとって、新しい方法は希望ではなく危険だった。変わったことをすれば殴られる。失敗すれば痛い。なら、どれほど苦しくても昨日と同じことをする方が安全だ。


 怜司はそれを責められなかった。


 前世でも同じだった。非効率な作業を変えようとしても、「前からこうだから」「今さら変えると混乱する」「責任は誰が取るの」と言われた。変化は正しさだけでは進まない。人間は、慣れた地獄にしがみつくことがある。なぜなら、未知の改善より、既知の苦痛の方がまだ予測できるからだ。


 だから怜司は、全員に一気にやらせることを諦めた。


 まずはルカン、トマ、自分。次にマイラの近くで作業する老人。さらに、実際に肩の痛みが少し減ったと分かった者だけが真似をする。指示ではなく、真似。これがよかった。奴隷たちは命令されることに慣れているが、命令には痛みが付随する。誰かが勝手にやっていて、少し楽そうだから真似る。そういう広がり方の方が、警戒されにくかった。


 鐘が一つ鳴る頃には、第三区の運搬列の半分ほどが、石の詰め方を変えていた。


 鐘が二つ鳴る頃、バラドが選別場前に積まれた黒鉄石の山を見て、目を細めた。


「また増えているな」


 帳簿役ガルヴィンが木板を抱え、渋い顔で数字を確認していた。昨日名を知った痩せた男は、今日も指先をインクで汚し、奴隷たちを汚物を見るような目で眺めている。だが、黒鉄石の山を前にした時だけは、その目が数字を追う商人のものに変わった。


「一割どころではない。第三区だけで、昨日の同じ鐘より二割近く多い。だが、採掘量自体はそこまで増えていない。つまり、運搬の詰まりが減ったということか」


 ガルヴィンは嫌そうに言った。数字が増えたのに嫌そうなのは、それを奴隷の提案によって認めなければならないからだろう。怜司は少し離れた場所で空籠を整理しながら、その声を聞いていた。自分から近づくつもりはない。管理部門に不用意に関わるとろくなことにならない。前世からの知恵である。


 だが、ガルヴィンの方から来た。


「七番」


 呼ばれた瞬間、怜司の胃が縮んだ。上司に呼ばれる時の感覚は、世界を越えても変わらない。しかも今回は、上司ではなく所有者側の人間だ。怜司は空籠を置き、手首の枷を鳴らしながら頭を下げた。


「はい」


「何をした」


「踏み台の固定と、荷の詰め方の変更です。大きい石を下に、小さい石を隙間に入れ、左右の偏りを減らしました」


「それだけか」


「はい。あとは小柄な者の荷を少し調整し、落下物回収と空籠整理に回しました」


 ガルヴィンの眉が動いた。


「荷を減らしたのか」


 空気が鋭くなった。怜司は背中に冷たい汗を感じた。ここを間違えると、トマたちに鞭が飛ぶ。いや、自分にも飛ぶ。怜司は言葉を選んだ。正直に、だが相手の利益へ向けて。


「一部の者は、一回あたりの重さを減らしました。その代わり、列の停止時間が減り、往復回数が安定しています。倒れる者が出ると、その場で列が止まり、他の者の荷も遅れます。軽くしたのではなく、止まらない量へ調整しました」


 ガルヴィンは木板を指で叩いた。こつ、こつ、と乾いた音がする。


「奴隷が楽を覚える」


「楽をすると運搬量が落ちます。今は上がっています」


「今日だけかもしれん」


「はい。ですから、三日見てください。三日続けば、偶然ではありません」


 怜司がそう言うと、ガルヴィンは初めてまともに彼の顔を見た。奴隷を見る目ではなく、計算違いを起こした帳簿の行を見るような目だった。嫌な関心である。


「三日、だと。なぜ三日だ」


「一日では偶然があります。二日では慣れによる変動があります。三日あれば、少なくとも傾向は見えます」


 本当は統計的に十分とは言えない。標本数が少なすぎる。前世の会議でそんな資料を出せば、誰かが「母数は?」と突っ込んでくるだろう。だが、この場で必要なのは厳密な統計ではなく、判断を先送りしつつ試行を続ける理由だ。三日という短さは、ガルヴィンにもバラドにも受け入れやすい。


 前世で培った、承認を取るための方便だった。


 ガルヴィンは不愉快そうに鼻を鳴らした。


「三日だ。三日後に落ちれば、余計な真似をした者を全員元に戻す」


「承知しました」


「それと、記録は私が取る。奴隷が数字を口にするな」


「はい」


 怜司は頭を下げた。数字を口にするなと言われても、頭の中で数える分には隷印は反応しなかった。少なくとも今のところは。そこに小さな抜け道がある。記録はガルヴィンが取る。しかし、実際の現場感覚は怜司も持つ。数字を独占されないためには、自分の中にも別の帳簿を作るしかない。


 紙はない。筆もない。だが、記憶ならある。


 怜司は頭の中で、鐘ごとの運搬量、落下回数、鞭の回数、倒れた者の数を数え始めた。


 前世では、上司から「細かすぎる」と嫌がられた癖だった。異世界では、その細かさが命綱になる。


 明日も、また鐘が鳴る。怜司はその音を待ちながら、頭の中の帳簿に今日の数字を刻んだ。

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