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第5話 配置転換を希望します

 夕食も黒麦粥だった。


 朝より少しだけ濃い。いや、濃い気がするだけかもしれない。空腹が調味料になっている可能性は高い。怜司が木の椀を抱えて座っていると、ルカンが隣に腰を下ろした。


「七番」


「はい」


「お前、本当に変な奴だな」


「今日だけで三回目くらいです」


「数えるなよ、そういうの」


 ルカンは粥をすすり、少し黙った。作業場の隅では、奴隷たちがそれぞれ疲れ切った体を休めている。誰も大声では話さない。笑い声もほとんどない。ただ、食べる音と、咳と、遠くの鎖の音だけがある。


「でも、今日は鞭が少なかった」


 ルカンは椀の中を見つめたまま言った。


 怜司は返事に迷った。自分のおかげだと言うほど傲慢にはなれない。だが、何も変わらなかったと言うほど鈍くもない。


「たまたまです」


「たまたまで鞭が減るなら、毎日たまたま起こせ」


「難しい注文ですね」


「お前ならできそうだろ」


「過大評価です。僕は前の世界でも出世していません」


「しゅっせ?」


「偉くなることです」


「じゃあ、こっちでも無理だな」


「否定が早い」


 ルカンが小さく笑った。トマも近くで口元を緩める。マイラは粥をすすりながら、「笑うと腹が減るよ」と呟いたが、その声も少しだけ柔らかかった。


 その瞬間、怜司は胸の奥に奇妙な痛みを覚えた。


 希望、というにはあまりにも小さい。温かさ、というには粥と同じくらい薄い。だが、完全な絶望だけではない何かが、湿った地下の空気の中に確かにあった。


 前世の怜司は、会社で誰かに頼られることが多かった。だが、それは便利だからだった。断らないから。怒らないから。押しつけやすいから。感謝されることもあったが、ほとんどは次の仕事の前置きだった。


 ここでは違う。


 いや、違うと言い切るのは早い。ルカンたちも、バラドも、商会も、怜司を利用するだろう。使える奴隷として見るだろう。だが、少なくとも今日、トマは殴られずに済んだ。老人は無理に重い籠を背負わずに済んだ。ルカンは少しだけ笑った。


 それだけで、怜司は自分がまだ人間の側に踏みとどまっている気がした。


 夜、牢へ戻される頃には、体は完全に限界だった。行きと同じ石の通路を歩きながら、怜司は何度も足をもつれさせた。バラドはそのたびに苛立ったような顔をしたが、鞭は使わなかった。商品を初日で壊したくないのか、今日の成果に免じたのかは分からない。


 牢に入る前、バラドが怜司を呼び止めた。


「七番」


「はい」


「お前、明日も今日みたいに考えられるか」


 怜司はすぐには答えなかった。疲れすぎている。眠い。痛い。首も肩も腰も手も足も、自分のものではないみたいだった。正直に言えば、明日のことなど考えたくない。今すぐ横になって、何もかも忘れたい。


 だが、考えることをやめたら、この場所では本当にただの労働力になる。


 怜司はゆっくりと顔を上げた。バラドの目は、朝とは少し違っていた。人を道具として見る目であることに変わりはない。けれど、その道具に刃があるかどうかを確かめるような、わずかな関心が混じっていた。


「考えるだけならできます」


「実行できなければ意味がない」


「それは、前の職場でもよく言われました」


「また変なことを言っているな」


「すみません」


 バラドは呆れたように息を吐いたが、すぐに真顔へ戻った。


「この鉱山で長く生きる奴隷は二種類だ。何も考えず命令通り動く奴と、考えていることを隠せる奴だ。お前はどちらでもない。だから普通なら早く死ぬ」


 怜司の背筋が冷えた。


 バラドは脅しているのではない。事実を言っているだけだ。この世界の現場責任者として、経験からそう判断している。だからこそ、言葉が重かった。


「だが、今日の運搬量は増えた。鉱山主は数字を見る。帳簿役は数字でしか話せない。商会は数字のためなら、多少気味の悪い奴隷も生かす」


「僕の生存条件は、数字ですか」


「そうだ」


 あまりにも分かりやすい答えだった。


 怜司は笑いそうになった。死ぬ前も数字だった。売上、原価、粗利、工数、残業時間、評価点。死んだ後も数字。運搬量、鉱石、銀貨三枚。人間の価値を数字に置き換える仕組みから、どうやら彼はまだ逃げられていない。


 だが、数字は冷たい一方で、感情よりは扱いやすい。


 課長の機嫌より、運搬量の方がまだ信用できる。そう思ってしまった自分に、怜司は少しだけ救われ、同じくらい絶望した。


「分かりました」


 怜司は言った。


「生きるために、数字を出します」


 バラドは何か言いかけたが、結局鼻を鳴らしただけだった。


「寝ろ。明日は鐘が鳴る前に起こす」


「労働時間について相談は」


「ない」


「ですよね」


 牢の扉が閉まった。鍵が回る音がする。怜司は汚れた藁の上に倒れ込んだ。体が痛みを訴えたが、もう姿勢を直す気力もない。近くではルカンが壁にもたれ、トマが丸くなり、マイラが目を閉じている。誰もすぐには眠らない。疲れているのに、眠るにも警戒が必要な場所なのだ。


 怜司は天井の灯苔を見上げた。


 青白い光が、石の隙間で静かに揺れている。蛍光灯ではない。オフィスの天井でもない。ここはヴェルガ王国の西端、ザルムント伯領のグレンツ鉱山。自分は銀貨三枚で買われた七番の奴隷。首には隷印。逃げれば死ぬ。逆らえば焼ける。明日も鉱石を運ぶ。


 最悪だ。


 疑いようもなく、最悪だ。


 けれど、怜司は目を閉じる直前、ぼんやりと思った。


 前世では、死ぬ瞬間まで誰かの仕事の心配をしていた。今世では、少なくとも自分が生きるために頭を使っている。


 それが進歩なのか退化なのかは分からない。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 社畜として死んだ佐久間怜司は、奴隷の七番として目を覚ました。そしてどういうわけか、鎖に繋がれた初日に、鉱山の運搬効率を一割弱改善してしまった。


 あまりにも嫌な才能だった。


 もし神が見ているなら、怜司は一言だけ言いたかった。


 配置転換を希望します。


 もちろん、その申請が受理される気配は、今のところまったくなかった。

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