第4話 踏み台一つで変わる現場
怜司は考えるより先に声を出していた。
「待ってください」
坑道の空気が固まった。
ルカンが「馬鹿」と口だけで言った。マイラが片目を細める。トマは怜司と棍棒を交互に見て、完全に泣きそうな顔になった。怜司自身も、自分の口を押さえたかった。どうして黙っていられないのか。社畜時代はあれほど黙って理不尽を飲み込んできたのに、なぜ転生初日に限って正義感らしきものが顔を出すのか。
違う。正義感ではない。
棍棒を振られれば、トマの動きが鈍る。動きが鈍れば列が詰まる。列が詰まれば全体の運搬量が落ちる。運搬量が落ちればバラドが怒る。バラドが怒れば、恐らく自分にも鞭が飛ぶ。
つまり、これは自己防衛だ。
怜司はそう自分に言い聞かせた。人助けではない。断じて違う。たぶん。
「何だ、新入り」
監督奴隷が棍棒を下ろさずに言った。額に汗が浮き、目つきは鋭い。彼もまた余裕がないのだろう。下から上を管理させられる人間の顔だった。前世でいうところの、名ばかり主任である。上には怒鳴られ、下には嫌われ、権限は少なく責任だけ重い。だからといって棍棒を振っていい理由にはならないが、構造としては理解できる。
「段差の手前が滑ります。ここで小さい者がつまずくと、後ろの荷も止まります。今叩くと、トマの歩幅がさらに乱れて、次も落とします」
「だから何だ」
「石を二つ置いて踏み台にした方が、全体の運搬が速くなります。あと、落ちた石を拾う係を一人決めておけば、列が止まりません」
言ってから、怜司は冷や汗をかいた。
これは駄目かもしれない。口答えに聞こえる。いや、完全に口答えだ。首の隷印が熱を持つかと身構えたが、痛みは来なかった。命令違反ではないらしい。もしかすると、命令に逆らう意思ではなく、作業改善の提案として認識されたのかもしれない。隷印の判定基準が分からない。非常に怖い。仕様書が欲しい。
監督奴隷は怜司を睨みつけた。
「新入りが偉そうに」
「偉くはありません。七番です」
「そういうところだぞ、お前」
ルカンが小声で呟いた。
監督奴隷の顔に怒りが浮かんだ時、奥からバラドの声が飛んだ。
「何を止めている」
空気がさらに悪くなった。監督奴隷は慌てて背筋を伸ばし、トマは完全に縮こまる。怜司は内心で胃を抱えた。上司登場。現場で一番嫌な瞬間である。しかも今回は、報告書で誤魔化せない。現物を見られている。
バラドは大股で近づき、状況を一目で見た。落ちた黒鉄石。段差。怯えたトマ。棍棒を持つ監督奴隷。そして、なぜか半歩前に出ている新入りの七番。
「説明しろ」
バラドの視線が怜司に向いた。
怜司は反射的に頭を下げた。
「段差で荷こぼれが発生しています。叩いて矯正するより、踏み台を設置し、落下物の回収役を固定した方が運搬量は増えると思われます」
言葉が口から出た瞬間、坑道の誰もが黙った。
怜司は自分でも分かった。言い方が完全に会社員だった。奴隷の口から出る言葉ではない。異世界の鉱山における第一声としてもおかしい。もっと「お許しください」とか「命だけは」とか、場に合った台詞があるはずだ。なのに出てきたのは運搬量だった。
バラドは眉間に皺を寄せる。
「うんぱんりょう」
「運ぶ量です」
「それは分かる」
分かるのか、と怜司は少し驚いた。バラドは粗暴に見えるが、数字の概念を軽視するタイプではないらしい。
「踏み台を置くと、石を盗む隙ができる」
「白く光る魔銀混じりは目立ちます。黒鉄石だけを踏み台用に二つ、バラド様の前で選べば問題は少ないかと。踏み台は固定せず、鐘が鳴った後に戻せます」
「回収役は怠ける」
「足の遅い者にやらせます。運搬列に入れて遅延させるより、落下物を拾わせた方が全体には得です」
言っているうちに、怜司の頭が妙に冴えてきた。恐怖はある。首も痛い。腹もまだ足りない。だが、目の前の問題は分かりやすかった。動線、段差、荷量、個人差、監督の配置。現代の業務改善に比べれば、資料も会議も承認フローもない分、むしろ単純かもしれない。
それが良いことなのかどうかは、考えたくなかった。
バラドはしばらく黙っていた。
やがて彼は、足元の黒鉄石を二つ拾い、段差の手前に置いた。大きさの違う石を噛ませるように並べると、簡単な踏み台になる。彼は自分の足で踏み、ぐらつきを確かめた。
「トマ、歩け」
少年はびくりと震えたが、言われた通りに荷を背負って歩いた。先ほどつまずいた場所で、今度は足が自然に上がる。完全に安全とは言えないが、少なくとも引っかかりは減った。後ろのルカンも試す。彼は一度踏み台を越えると、怜司を振り返り、癪に障ると言いたげな顔で頷いた。
「……ちょっと楽だな」
バラドの目が細くなる。
「鐘一つ分、これで回せ。運搬が増えなければ七番を叩く。増えれば、この段差には石を置く」
理不尽な条件だった。
だが、現代日本でも、改善提案が失敗したら提案者が責められることは珍しくない。むしろ懐かしい。怜司は懐かしさに胃が痛くなった。異世界の鉱山でまで前職を思い出させないでほしい。
「承知しました」
「あと、その妙な話し方をどうにかしろ。気が散る」
「努力します」
「努力じゃなくて、やれ」
「はい」
怜司は深く頭を下げた。
その後の鐘一つ分、彼は死ぬ気で歩いた。半分の荷とはいえ、痩せた少年の体には過酷だった。肩は焼けるように痛み、太ももは震え、肺は冷たい空気を吸うたびに軋んだ。だが、段差の詰まりは明らかに減った。落下物の回収役には、足を引きずっていた老人が回された。彼は最初こそ戸惑っていたが、列に入らず落ちた石だけを拾えばいいと分かると、無理に急ぐ必要がなくなり、顔色が少しだけましになった。
運搬列は滑らかになった。
ほんの少しだ。劇的な改革ではない。奇跡でもない。ただ、つまずきが減り、怒号が減り、無駄に止まる時間が減っただけだ。
だが、現場における「ほんの少し」は、積み重なると数字になる。
鐘が鳴った時、選別場の前に積まれた黒鉄石の山を見て、バラドの表情が変わった。帳簿役らしき痩せた男が木板に何かを書きつけ、首を傾げている。怜司には文字が読めないが、量が増えていることは雰囲気で分かった。
ルカンが隣で荒い息を吐きながら、悔しそうに言った。
「お前、何なんだよ」
「元社畜です」
「しゃちく?」
「飼われて働く生き物です」
「奴隷じゃねえか」
「似ていますが、給料が出るぶん少し違います」
「給料?」
「働くと、生活できるかできないか微妙なお金がもらえます」
ルカンは本気で困惑した顔をした。
「それ、何が嬉しいんだ?」
怜司は答えられなかった。
前世の社会制度を説明しようとして、奴隷に論破されるとは思わなかった。確かに、何が嬉しかったのだろう。給与明細を見て税金と保険料に削られ、家賃と光熱費と食費を払えばほとんど残らず、それでも明日も会社へ行く。自由はあったはずだ。辞める権利もあったはずだ。けれど、辞めた後に生きる方法が見えなければ、人は鎖がなくても歩く方向を選べなくなる。
首に隷印がある今、その違いは残酷なほどはっきりしていた。
それでも、怜司は小さく息を吐き、無理やり口角を上げた。
「少なくとも、前の世界では粥にもう少し味がありました」
「それは羨ましいな」
ルカンはそう言って、初めて少しだけ笑った。
作業が一段落した後、怜司はバラドに呼ばれた。中央作業場の隅、木箱を机代わりにした場所に、バラドと帳簿役の男が立っている。帳簿役は細長い顔をした男で、指先にインクの跡があり、奴隷たちを見る目には露骨な嫌悪があった。彼の服は粗末ではあるが、奴隷のものとは違う。首に隷印もない。自由民なのだろう。
「こいつか、バラド。段差に石を置けと言った奴隷は」
帳簿役は怜司を上から下まで見て、鼻を鳴らした。
「七番です」
怜司が名乗ると、帳簿役は不愉快そうに眉をひそめた。
「奴隷が勝手に口を利くな」
首の隷印が、じわりと熱を持った。怜司は慌てて頭を下げる。命令ではない。だが、相手の敵意に紋様が反応したような気がした。仕様が本当に分からない。痛みのヘルプページを誰か作っておいてほしい。
バラドが帳簿役へ木板を差し出した。
「鐘一つ分の黒鉄石の量が一割弱増えた。魔銀混じりの取り逃しはなし。落下による破損も減っている」
「一度だけだろう」
「だから、もう一鐘試す」
「奴隷の思いつきに現場を変える気か?」
「現場を変えるんじゃない。石を二つ置くだけだ」
バラドの声には、帳簿役への苛立ちが滲んでいた。どうやら二人は同格ではない。帳簿役は数字と鉱山主への報告を握っているが、現場そのものはバラドの領分。互いに不満を持ちながら、必要だから協力している。会社でよく見る部署間対立だった。営業と経理。現場と管理。地獄の種類が違うだけで、人間関係の面倒くささは変わらない。
帳簿役は怜司を見た。
「お前、文字は読めるか」
怜司は答えに詰まった。読めない。だが、完全に読めないと言えば価値が下がるかもしれない。かといって読めると言って試されたら終わる。
「この地の文字は、まだ読めません」
慎重に言うと、帳簿役の眉が動いた。
「この地の、だと?」
「遠方の生まれのようです。記憶に曖昧なところがありますが、数を数えることはできます」
「数?」
帳簿役は近くの木箱を指差した。
「あれがいくつある」
木箱は不規則に積まれていた。怜司は一瞬で数えようとして、途中でやめた。ばらばらに見ると間違える。縦列ごとに分ける。三、三、四、二、奥に一つ。合計十三。
「十三です」
帳簿役は目を細めた。どうやら合っていたらしい。次に彼は、黒鉄石の入った小袋をいくつか並べた。
「これを三つずつ五組に分けたら、余りはいくつだ」
小学校低学年の算数だった。だが、この世界の識字率や教育水準を考えれば、奴隷が即答できる内容ではないのかもしれない。怜司は袋の数を見て答える。
「袋が十七なら、三つずつ五組で十五。余り二です」
帳簿役の表情が変わった。
怜司は背筋に冷たいものを感じた。しまった。やりすぎたかもしれない。価値を示すつもりが、異物として警戒される可能性もある。奴隷が計算できることが、この世界でどれほど異常なのか分からない。
「こいつ、本当に銀貨三枚か」
帳簿役がバラドに言った。
「書類ではな。借金奴隷のまとめ売りだ。名前も年も曖昧。隷印は正規のものだ」
「盗品ではあるまいな」
「盗まれた魔術師見習いがこんな痩せ方をするか」
帳簿役は怜司を値踏みするように見た。その視線に、怜司は不快感よりも恐怖を覚えた。価値が上がることは、必ずしも自由に近づくことではない。高価な道具になれば、より厳重に管理されるだけかもしれない。
それでも、無価値のまま死ぬよりはましだ。
そう思うしかなかった。
「七番」
バラドが言った。
「お前はしばらく第三区で働け。余計なことを考えたら首が焼ける。だが、運搬が増える考えなら俺に言え。帳簿役ではなく、まず俺にだ」
最後の一言には、明確な圧があった。情報の流れを自分に集めたいのだ。現場改善の成果を自分の手柄にするつもりもあるのだろう。怜司はその意図を理解し、逆らわないことにした。現場の直属上司を飛ばして管理部門に話を持っていくと、たいていろくなことにならない。前世で学んだ数少ない真理である。
「承知しました。まずバラド様に報告します」
「様はいらん。気色悪い」
「では、バラドさん」
「さん?」
「敬称です」
「……まあいい」
バラドは微妙な顔をした。どうやらこの世界に「さん」はないらしい。だが、怒られなかったので採用することにした。呼び捨ては怖い。様は気色悪い。さんは中間管理職への精神安定剤として優秀だった。
その日の労働は、怜司にとって人生で最も長いものになった。
前世にも長い一日はあった。始発で出社し、終電を逃し、会社の椅子で二時間だけ眠り、また働いた日。クレーム対応で五時間電話を切れなかった日。上司のミスを自分の責任にされ、取引先と社内の両方に頭を下げた日。だが、それらは少なくとも空調の効いた建物の中で起こっていた。水も飲めた。トイレもあった。椅子もあった。
鉱山には、そのどれもがほとんどなかった。
水は桶に入った生ぬるいものを順番に飲む。休憩は短く、座る場所は湿った岩の上。トイレと呼べる場所は坑道の奥に掘られた穴で、臭いは牢といい勝負だった。背負い籠は肩の皮膚を削り、手のひらには豆ができ、豆はすぐに潰れた。少年の体は軽いが、筋肉も体力もない。怜司は何度も視界の端が白くなるのを感じた。
それでも、倒れなかった。
倒れれば休憩だとバラドは言った。だが、その休憩はおそらく片道切符だ。怜司は黒麦粥の味を思い出し、あれでも次の食事を食べたいと思った。人間は不思議だ。どれほど不味い粥でも、次があると思えば生きる理由になる。
作業の途中、怜司は何度か小さな改善を口にした。籠に鉱石を詰める時、大きい石を下に、小さい石を隙間に入れた方が揺れにくい。戻りの空籠は片側に寄せて置けば、満杯の者とぶつからない。水桶は坑道の入り口ではなく、折り返し地点に半分置いた方が列が詰まらない。
どれも些細なことだった。
だが、些細なことほど現場では効く。
ルカンは最初こそ面白がっていたが、次第に真顔で怜司の言うことを聞くようになった。トマは怜司を見ると小さく頭を下げるようになり、マイラは何も言わないまま、彼の提案が通るかどうかを片目で観察していた。監督奴隷は面白くなさそうだったが、バラドが許している以上、表立って潰すことはしなかった。
鐘が何度目かに鳴り、ようやく一日の作業が終わった時、怜司は自分の足がまだ体についていることに驚いた。感覚はほとんどない。肩も腰も背中も悲鳴を上げている。手首の枷は皮膚を擦り、血が滲んでいた。だが、生きている。
生きているという事実が、こんなにも具体的に重いものだとは知らなかった。
今日一日で分かったことがある。この鉱山には無駄が多い。そしてその無駄を一つ直すたびに、誰かの顔が少しだけ変わる。それだけで、怜司はまだ続けられる気がした。次の鐘まで。次の粥まで。それだけでいい。




