第3話 初日の現場と人間関係
通路の先に出ると、そこは広い地下の作業場だった。怜司は思わず足を止めた。
巨大な空洞の中に、何本もの坑道が黒い口を開けている。天井は高く、自然の岩盤を削って作られたものらしい。壁一面に灯苔が張りつき、青白い光が水底のように空間を満たしていた。中央には粗末な木の足場と荷車が並び、裸に近い格好の男たちが鉱石の詰まった籠を背負って歩いている。鉄の鎖が擦れる音、鞭が空気を打つ音、咳、怒号、石を砕く音。すべてが混じり合い、巨大な腹の中にいるような圧迫感を生んでいた。
怜司は圧倒されながら、同時に奇妙な感想を抱いた。
現場だ。
あまりにも現場だった。安全管理が崩壊し、動線が混雑し、責任者が怒鳴り、労働者が疲弊し、道具が足りず、工程表が存在しているのか怪しい。文明も時代も違うはずなのに、怜司はなぜか懐かしさに近いものすら感じてしまった。
いや、懐かしんでいる場合ではない。
「七番、こっちだ」
バラドに促され、怜司は作業場の隅へ連れて行かれた。そこには大きな鍋があり、灰色とも茶色ともつかない粥が煮えている。近くに並んでいる奴隷たちは、木の椀を両手で抱え、無言で順番を待っていた。配膳役の老人が、椀に粥を流し込んでいる。流し込む、という表現がもっとも正しい。具はほとんどない。液体に穀物の痕跡が浮いているだけだ。
怜司の番が来ると、老人は濁った目で彼を見た。
「新入りか」
「はい。七番だそうです」
「番号を自分で名乗るうちは、まだ人間のつもりが残っとるな」
老人はそう言い、椀に粥を注いだ。皮肉なのか、忠告なのか、単なる感想なのか分からない声だった。怜司は両手で椀を受け取る。手首の枷が邪魔で、少しこぼした。熱い粥が指にかかるが、火傷というほどではない。むしろ温かさがありがたかった。
口に含む。
味は、なかった。
正確には、焦げた穀物の苦みと、薄い塩気と、鍋の底の気配がした。だが、空腹の体にはそれでも染みた。怜司は一口、また一口と飲み込みながら、前世のコンビニおにぎりを思い出した。あれは奇跡だった。百数十円で、白米と具と海苔が整然と包装され、賞味期限まで印字されている。しかも温めますかと聞いてくれる。現代日本、恐るべき文明国である。
「泣くほど不味いか」
バラドが横から言った。
怜司は慌てて目元を拭った。どうやら本当に涙が出ていたらしい。
「いえ、前の食事を思い出しまして」
「買われる前か」
「まあ、そんなところです」
新幹線の売店で買った鮭おにぎりです、とは言えない。言っても通じないだろうし、通じたら逆に怖い。
食事を終えると、バラドは怜司を第三区と呼ばれる坑道の入り口へ連れて行った。そこは中央作業場から斜め下へ伸びる暗い道で、他の坑道よりも湿気が強かった。入口には木製の札が下げられ、見慣れない文字が焼きつけられている。怜司には読めない。だが、数字らしき記号は何となく分かる。三を意味するものかもしれない。
「第三区は黒鉄石と微量の魔銀が出る。魔銀は王都の鍛冶師や魔術院が欲しがる高値の鉱石だ。だが、掘れる量は少ない。黒鉄石を運びながら、白く光る筋が混じっていたら監督に報告しろ。隠したら首が焼ける」
バラドはそう言い、坑道の奥を顎で示した。
魔銀。魔術院。
怜司の頭の中で、また情報が整理される。魔法は存在するらしい。ただし、誰も彼もが自由に使える便利技術ではなさそうだ。王都に魔術院があるということは、知識や資格、身分によって管理されている可能性が高い。魔銀が高値で取引されるなら、魔法には素材が必要なのかもしれない。
地の底で粥をすすった直後に考えることではないが、情報は命綱だ。
「魔法は、奴隷でも使えるのですか」
怜司は慎重に尋ねた。
バラドは鼻で笑った。
「使えたら銀貨三枚で買われてねえよ。魔力持ちは教会か領主が測る。才能があれば平民でも拾われるが、奴隷落ちした時点でたいてい終わりだ。首に隷印を刻まれた者は、魔力の流れも縛られる。もっとも、お前みたいな鉱山奴隷に魔力があったところで、せいぜい火種を起こす前に倒れるのが関の山だ」
バラドは淡々と言ったが、その言葉は世界の仕組みをいくつも含んでいた。教会がある。領主が才能を測る。魔力は社会的価値になる。奴隷紋、あるいは隷印と呼ばれる首の紋様は、命令違反だけでなく魔力にも干渉する。
怜司は自分の首に触れようとして、痛みの記憶に手を止めた。
チート能力の気配は、今のところない。少なくとも、手から火は出ない。目を凝らしても鑑定画面は出ない。頭の中で念じても、親切な説明文は流れない。出るのは空腹と恐怖と、なぜか業務改善への衝動だけだ。
人選を間違えていないか、神様。
もしどこかに担当者がいるなら、苦情フォームを探したかった。だが、この世界にカスタマーサポートがあるとは思えない。あったとしても、怜司の身分では問い合わせ前に鞭が飛ぶ。
「おい、新入り」
坑道の中から声がした。
見ると、岩壁のそばで荷籠を背負った青年がこちらを見ていた。年は二十前後だろう。体格は悪くないが、頬はこけ、目元には疲労が濃く溜まっている。首には怜司と同じ黒い紋様があり、左腕には古い火傷痕があった。
「七番だって? 前の七番は三日で潰れたぞ。縁起悪いな」
青年は笑ったが、その笑みには悪意よりも諦めがあった。笑わなければやっていられない人間の笑いだ。怜司は一瞬、どう返すべきか迷った。ここで怯えすぎると舐められる。強がりすぎると敵を作る。現場初日の立ち回りは、前世でも難しかった。職場でも鉱山でも、新入りはまず空気を読む必要があるらしい。
「三日ですか。前任者より長く勤められるよう努力します」
怜司が真面目に頭を下げると、青年はぽかんとした顔をした。
「勤める?」
「いえ、働きます」
「変な奴だな、お前」
本日二回目の評価だった。どうやらこの世界に来ても、怜司の第一印象はあまり変わらないらしい。
青年の名はルカンといった。彼は自分から名乗ったわけではなく、近くにいた小柄な少年が「ルカン、無駄口してるとバラドに見られる」と小声で注意したことで判明した。その少年はトマと呼ばれており、年は十二、三歳ほどに見えた。さらに奥には、片目に白い濁りのある中年女がいて、周囲からマイラと呼ばれている。彼らは全員、第三区の運搬奴隷らしかった。
バラドは怜司に背負い籠を投げ渡した。
籠といっても、竹や樹皮で編んだ軽いものではない。太い木枠に革紐を通した、ほとんど拷問具のような運搬器具だった。空の状態でも重い。これに鉱石を詰めて坂道を登るなど、前世の怜司なら労災申請書を三枚ほど用意する案件である。
「掘り手が砕いた黒鉄石をここに詰める。満杯にしたら中央の選別場へ運べ。戻ってまた詰める。鐘が二つ鳴るまで繰り返しだ。遅れたら飯が減る。落としたら鞭だ。逃げたら死ぬ」
「休憩は」
怜司が聞くと、ルカンが吹き出した。
バラドは目を細めた。
「倒れた時が休憩だ」
「なるほど、自己申告制ではないんですね」
「お前は黙ると死ぬのか」
「すみません」
怜司はすぐに頭を下げた。反射神経だけは一流である。謝罪速度検定があれば、全国大会を狙えたかもしれない。そんな大会に出たくはないが。
バラドはしばらく彼を睨んでいたが、やがて溜息をついた。
「最初は半分でいい。潰れても面倒だ」
周囲の奴隷たちがわずかに目を見開いた。どうやら新入りに対する措置としては異例らしい。怜司は頭を下げながら、バラドの判断を推測した。単純な温情ではない。銀貨三枚で買ったばかりの商品を初日で壊すのは損、という計算だ。だが、計算でも何でもいい。生き延びる余地が一つ増えた。
「ありがとうございます。商会の損失にならないよう努めます」
「その言い方、気味が悪いからやめろ」
バラドはそう言い残して去っていった。
彼の足音が遠ざかると、坑道の空気が少しだけ緩んだ。ルカンが怜司の背中を軽く小突く。軽く、のはずだが、今の痩せた体には十分痛かった。
「お前、どこの生まれだよ。貴族の屋敷で下働きでもしてたのか?」
「たぶん、遠いところです」
「たぶん?」
「記憶が少し曖昧で」
これは半分本当だった。佐久間怜司としての記憶はある。だが、この体の記憶はほとんどない。断片的に、薄暗い部屋、怒鳴り声、荷馬車、喉の渇き、首を焼かれる痛みのようなものが浮かぶ程度だ。元の持ち主が死んだのか、怜司が上書きしたのかは分からない。考えると胸の奥が冷たくなるので、今は考えないことにした。
この世界に来て最初に覚えた技能は、現実逃避である。前世から持ち越し済みだった。
「記憶が曖昧な奴は珍しくねえよ」
片目のマイラが、岩壁にもたれながら言った。声は低く、乾いている。
「隷印を刻む時に熱を入れすぎると、頭が焼けることがある。泣き叫んで母親の名を呼んでた奴が、翌日には自分の名も忘れてるなんてザラだ。忘れた方が楽なこともある」
彼女の言葉に、怜司は首筋を意識した。隷印。人を所有物にするための魔法か技術か、その両方。奴隷制度がただの社会慣習ではなく、術式によって物理的に支えられているのだと分かる。逃亡が難しいのも当然だ。首の紋様が命令違反に反応するなら、暴動も簡単には起こせない。
地獄だ。
ただし、地獄にしては妙に運用が雑だった。
怜司は作業を始めながら、それに気づいた。掘り手が岩壁を砕き、黒く重い石を山にする。運搬奴隷はそれを背負い籠に詰め、中央選別場まで運ぶ。動線は一本。行きと帰りが同じ狭い坑道を使うため、頻繁に詰まる。満杯まで詰める奴隷と半分で運ぶ奴隷が混在しており、速度もばらばらだ。選別場の手前には小さな段差があり、そこで何人も足を取られている。荷を落とせば鞭。鞭を避けようとして無理に抱えれば腰を痛める。腰を痛めれば速度が落ちる。速度が落ちれば怒鳴られる。怒鳴られれば焦る。焦れば落とす。
典型的な悪循環だった。
怜司は半分ほど鉱石を詰めた背負い籠を持ち上げようとして、膝が笑うのを感じた。重い。半分でこれなら、満杯にしているルカンたちはどうなっているのか。いや、どうかなっているから皆この顔なのだ。生気のない目、痩せた足、曲がった背中。労働力を使い潰している。
だが、使い潰し方が下手だった。
それが怜司の正直な感想だった。
もちろん、人道的に問題外である。倫理的には完全に失格だ。現代日本なら即座に監査が入り、ニュースになり、社長が頭を下げ、ネットで炎上し、しばらくして別の名前で似たような会社が出てくる。だが、この世界では奴隷の権利など存在しない。それでも、利益を考えるなら、もう少し壊れにくく使う方法があるはずだった。
嫌な考えだ。
怜司は自分でそう思った。だが、今の彼は正義を叫べる立場ではない。まず生き延びる。生き延びるためには、自分の価値を示す。価値を示すには、現場の無駄を見つける。前世と同じだ。あまりにも同じすぎて、笑えてくる。
異世界に来てまで業務改善。
神様、転職先の業種を間違えている。
「おい、七番。足を止めんな」
ルカンが前を歩きながら振り返った。怜司は慌てて歩き出す。背負い籠の革紐が肩に食い込み、首の隷印の近くを擦った。痛みで顔が歪む。坑道の地面は湿っており、鉱石の粉で滑りやすい。灯苔の光はあるが、足元を十分に照らすほどではない。
前を行くトマが、段差で小さくつまずいた。背中の籠が揺れ、黒鉄石が一つ転がり落ちる。小さな石だったが、落ちた音はやけに大きく響いた。
近くの監督奴隷が振り向く。奴隷の中でも、商会から棒を持たされ、他の奴隷を見張る役目を負わされた者らしい。首には同じ隷印があるが、腰には短い棍棒を提げている。彼はトマを見るなり、舌打ちして近づいた。
「また落としたのか、チビ」
トマの顔が青ざめる。
「す、すみません。すぐ拾います」
「拾う前に覚えろ」
棍棒が振り上げられる。怜司の目がトマへ向いた。考えるより先に、足が動いていた。




