第2話 福袋の中身は鎖付き
次に怜司が目を覚ました時、最初に感じたのは、目覚まし時計の電子音ではなかった。
腐った水と、汗と、鉄錆と、言葉にするのを本能が拒む何かが混ざった臭いだった。
鼻の奥を殴りつけるような悪臭に、怜司は反射的に咳き込もうとした。だが、喉は紙やすりを飲み込んだように乾いており、出てきたのは咳とも呻きともつかない情けない音だけだった。肺に入る空気は冷たい。湿っている。地下室の空気だ、と怜司はぼんやり思った。会社の資料倉庫もなかなか酷かったが、少なくともあそこは人間の尊厳をここまで積極的に破壊してくる臭いではなかった。
瞼を開けると、薄暗い石の天井が見えた。天井の隙間には黒い苔のようなものが張りつき、ところどころで淡く青白く光っている。蛍光灯ではない。非常灯でもない。だが、その光は奇妙に安定しており、完全な闇を拒む程度には周囲を照らしていた。
壁は粗い石積みで、いくつもの鉄環が打ち込まれている。床には藁のようなものが敷かれていたが、寝床と呼ぶにはあまりにも湿り、潰れ、汚れすぎていた。泥だと思ったものは、よく見ると泥だけではない。汗、血、吐瀉物、排泄物。それらが長い時間をかけて馴染み合い、もはや単独の名称を与えることすら失礼な、最悪の合作になっている。
「……どこだ、ここ」
自分の口から漏れた声に、怜司は硬直した。
若い。
掠れていて、弱々しくて、喉の奥に砂を詰めたような声ではある。だが、三十五年使い込んだ自分の声ではなかった。もっと高く、まだ成長しきっていない少年の声だった。
怜司は起き上がろうとして、手首に鈍い重みを感じた。視線を落とす。細い腕があった。自分のものとは思えないほど骨ばっている。皮膚は土気色で、あちこちに擦り傷や痣があり、手首には鉄の枷が嵌められていた。鎖は床に打ち込まれた鉄環へ繋がっている。
足首にも同じものがあった。
そして、首。
指を持ち上げようとした瞬間、首筋に焼けるような違和感が走った。怜司は呻きながら、自分の首に触れる。そこには首輪ではなく、皮膚そのものに刻まれた黒い紋様があった。触れた指先に、かすかな熱が返ってくる。刺青のようであり、焼き印のようでもあり、何よりも悪意ある管理システムのようだった。
怜司はしばらく黙っていた。
夢だ。そう考えるには、臭いが具体的すぎた。悪夢だ。そう考えるには、手首の鉄枷が重すぎた。疲労による幻覚だ。そう考えるには、床の冷たさがあまりにも本気だった。
彼は恐る恐る、自分の胸元に視線を落とした。着ているのは、麻袋に穴を開けただけのような粗末な服だった。体は痩せている。腹はへこんでいて、肋骨が浮いている。だが、完全に飢えきっているわけではない。ぎりぎり労働力として使える程度に生かされている体だ、と怜司の中の嫌な観察力が判断した。
まさか。
彼の頭の中に、現代日本で何度か目にした娯楽作品の設定が浮かびかけた。事故死。目覚めたら知らない世界。別の肉体。剣と魔法。王族。貴族。才能。祝福。最強。
そこまで並べてから、怜司は自分の手首の鎖を見た。
どうやら、福袋の中身はかなり渋かったらしい。
「起きたか、七番」
低い声が、鉄格子の向こうから落ちてきた。
怜司はびくりと肩を震わせた。目を向けると、狭い牢の前に一人の男が立っている。年齢は四十前後だろうか。分厚い革鎧を着て、腰には短剣と鞭を提げている。無精髭の奥にある口元は不機嫌に歪み、額には古い傷痕が走っていた。現代日本のオフィスにはまずいない種類の人間だが、その目だけは、怜司にとって見慣れたものだった。
人を人として見ていない目。
派遣社員に追加作業を押しつける時の正社員の目。新人が失敗するのを待っている古株の目。責任を回避できる相手を探している上司の目。環境も服装も文明も違うのに、そこだけは驚くほど変わらない。
人類、そこは進化しないのか。
怜司は泣きそうになりながら、そんなことを思った。
「立て。今日からお前は第三区の運搬奴隷だ」
「……奴隷?」
言った瞬間、男の眉がぴくりと動いた。
怜司はしまったと思った。社畜時代の経験則が、遅れて警鐘を鳴らす。相手が当然だと思っていることに疑問を挟むな。特に、相手が鞭を持っている時は絶対に。
だが、もう遅かった。
首の紋様が、内側から火を吹いた。
「ぐ、あっ……!」
声にならない悲鳴が喉を裂いた。皮膚の下に熱した針金を通されるような痛みが走り、怜司は床に膝をつく。手首の鎖が鳴り、汚れた藁の上に額が落ちかけた。痛い。ありえないほど痛い。怒鳴られる、減給される、評価を下げられる、などという生ぬるい懲罰ではない。これは肉体そのものを命令に従わせる痛みだった。
「主人への不敬だ。軽めにしてやった」
男はつまらなそうに言った。
軽め。
怜司は床に手をついたまま、涙目で息を吐いた。会社で課長に「軽く直して」と言われた時もたいがい酷い目に遭ったが、この世界の「軽め」も信用してはいけないらしい。いや、もしかすると全世界共通で「軽い」という言葉は人類最大の罠なのかもしれない。
「お前は銀貨三枚で買われた鉱山奴隷だ。名前などない。番号で呼ばれ、命令で動き、死ねと言われたら死ぬ。それだけだ。覚えていなければ、首の印が覚えさせる」
男の声は淡々としていた。そこに怒りはあまりない。説明してやっているという親切心もない。道具の扱い方を確認するような口調だった。
怜司は荒い息を整えながら、男の足元を見た。革の長靴には鉱石の粉らしき白い汚れがこびりついている。鞭の柄は手垢で黒ずみ、よく使い込まれている。一方で、腰の短剣には血の跡も刃こぼれも少ない。殺す役ではなく、働かせる役。怒鳴る。痛めつける。だが、すぐに殺しはしない。商品価値を理解している人間だ。
観察するな、と思った。
だが、観察してしまう。
社畜時代、怜司は誰が本当の決裁権を持っているのか、誰が機嫌で仕事を増やすのか、誰に先に根回しすれば炎上を防げるのか、そういうことだけは無駄に鍛えられていた。悲しい才能である。履歴書には書けない。面接でも言えない。だが、今この瞬間だけは、鎖より少しだけ役に立ちそうだった。
「返事は」
男の声が低くなる。
怜司の背筋が、反射で伸びた。
「は、はい。申し訳ありません」
その謝罪は、あまりにも滑らかに口から出た。三十五年の人生で磨き抜かれた、何の誇りにもならない高速謝罪だった。あまりに自然すぎて、自分でも少し悲しくなる。
男はわずかに目を細めた。
その反応を、怜司は見逃さなかった。
この男は、従順な奴隷を嫌いではない。だが、怯えて動けない奴隷は嫌う。命令を理解できる者は使う。反抗する者は折る。そういう類の管理者だ。
管理者。
怜司はその単語を頭の中で噛んだ。ここは会社ではない。だが、組織はある。命令系統もある。労働現場もある。上役も下役もいる。利益も損失もある。形は違っても、誰かが誰かを使って何かを生産している以上、そこには必ず穴がある。
そして穴があるなら、そこから息をする余地もある。
「命令を確認してもよろしいでしょうか」
怜司は床に膝をついたまま、慎重に言った。
男の顔が、今度ははっきりと歪んだ。
「あ?」
「第三区の運搬奴隷として、まず何を、どこからどこへ、どの量だけ運べばよろしいでしょうか。手順を誤ると、商会に損を出します」
言いながら、怜司は自分で自分が嫌になった。異世界らしき場所で目覚め、奴隷だと告げられ、首を焼かれる痛みを味わった直後に、出てくる言葉が「手順」と「損」なのだ。勇者の素質はない。だが、社畜としての根は深い。抜こうとしても、もう地中で配管みたいに絡まっている。
男はしばらく黙って怜司を見下ろした。
牢の奥では、他の奴隷らしき者たちが薄く目を開けていた。誰も声を出さない。視線だけが集まっている。痩せた老人、頬のこけた女、骨格の太い青年、小柄な子供。彼らの瞳には、同情よりも警戒があった。余計なことを言うな。鞭が飛ぶぞ。そんな無言の圧が、湿った空気の中に広がっている。
怜司も同意見だった。
余計なことを言っている自覚はある。できるなら今すぐ訂正して、「すみません、口が勝手に業務確認しました」と土下座したい。だが、一度口に出した以上、怯えきって引っ込めるのは悪手だ。相手に「こいつは妙なことを言うが、使えるかもしれない」と思わせるしかない。
男はやがて鼻を鳴らした。
「妙な奴隷だな」
「よく言われます」
反射で答えてから、怜司は死を覚悟した。
前世でも、余計な一言で空気を凍らせたことは何度もある。だが、今回は相手の腰に鞭がある。会社の飲み会で課長の冗談に被せてしまった時とは、危険度が違う。
男は一瞬だけ目を丸くした。
それから、低く笑った。
「口の減らん奴隷は嫌いだが、頭の回る奴隷は嫌いじゃない。使えなければ坑道の奥へ捨てるだけだ」
助かった。いや、助かってはいない。状況はまったく改善していない。だが、とりあえず今すぐ鞭で皮膚を地図にされる展開は回避した。怜司は心の中で、前世の全クレーム対応経験に手を合わせた。
男は腰の鍵束を鳴らし、牢の扉を開けた。古い鉄が軋み、湿った空気が動く。怜司の手首と足首の枷から床の鎖が外されると、重みは残ったまま、短い歩幅で動けるようになった。
「俺はバラドだ。このグレンツ鉱山の下働き頭をしている。お前たち奴隷は、俺の命令を聞け。俺の上には商会の帳簿役と採掘長がいる。その上には鉱山主。そして鉱山主の上には、この地を治めるザルムント伯がいる」
バラドは歩きながら、振り返りもせずに言った。
説明というより、足場の悪い道を歩かせながら最低限の警告を投げているような声音だった。怜司は鉄枷に歩幅を邪魔されながら、その背中についていく。牢を出た先は、低い石造りの通路だった。壁には例の青白い苔が点々と生え、天井からは水滴が落ちている。どこか遠くで、金属を叩く音と、人の怒鳴り声が反響していた。
「この国はヴェルガ王国。ここは王国西部、ザルムント伯領の端だ。王都からは馬車で二十日、まともな道ならな。だが、ここにまともな道はない。あるのは鉱石と借金と、逃げ損ねた馬鹿どもだけだ」
バラドの言葉に、怜司は通路の壁へ目を向けた。石の隙間には、黒い筋のような鉱脈が走っている。所々に白い結晶が混じり、灯苔の光を受けて鈍く輝いていた。鉱山。奴隷。王国。伯爵。商会。情報が一気に流れ込んでくるが、怜司の頭はまだ完全には追いついていない。
それでも、彼は聞いた単語を整理した。
国名、ヴェルガ王国。領主、ザルムント伯。鉱山主がいて、商会が運営に関わっている。奴隷は鉱山の労働力。自分は銀貨三枚で買われた。貨幣価値は不明。だが、少なくとも人間一人の値段がそう高くない世界だ。
最悪だ。
だが、最悪にも種類はある。完全な無秩序ではない。組織があり、階層があり、帳簿役がいる。帳簿役がいるということは、数字がある。数字があるということは、損得がある。損得があるところには、交渉の余地がほんの少しだけ残る。
問題は、その余地に辿り着く前に自分が死ぬ可能性が高いことだった。
「質問はあるか」
バラドが言った。
怜司は少し考えた。質問したいことは山ほどある。自分は誰なのか。元の体の持ち主はどうなったのか。魔法はあるのか。ここは本当に別世界なのか。奴隷身分から解放される道はあるのか。そもそも朝食は出るのか。
しかし、今聞くべきことは一つだけだった。
「朝食はありますか」
バラドの足が止まった。
怜司は真顔だった。命の危機なのは分かっている。だが、腹が減っていた。あまりにも減っていた。胃が自分の存在を世界に訴えている。異世界の謎より、まずカロリー。人間の尊厳は時として炭水化物の後に来る。
バラドは肩越しに振り返り、今度こそ呆れた顔をした。
「お前、首を焼かれた直後に飯の心配か」
「空腹時の業務効率は著しく低下します」
「ぎょうむ?」
「働きです」
「最初からそう言え」
バラドは鼻で笑ったが、怒ってはいなかった。むしろ少しだけ機嫌が上向いたようにも見えた。怜司はその変化に安堵しつつ、心の中で自分の胃に感謝した。胃が命を救うこともある。会社ではストレスで穴を開けかけた胃が、こちらではコミュニケーションツールとして機能している。
「黒麦粥が出る。水みたいなもんだが、食わなきゃ倒れる。倒れたら殴って起こす。起きなきゃ捨てる」
「合理的ですね」
「嫌味か?」
「いえ、確認です」
バラドはまた低く笑った。
通路の先に何があるのか、まだ分からない。だが、怜司の足は確かに前へ向いていた。生き延びるために、まず動く。前世から持ち越した、唯一まともな習慣だった。




