第1話 死ぬ瞬間まで業務確認
佐久間怜司は、自分が死ぬ瞬間まで仕事のことを考えていた。
午前7時42分。月曜の駅のホームは、人生に疲れた人間を箱詰めにして都市へ出荷する巨大な集荷場のようだった。スーツの群れは無言で押し合い、誰も彼もスマートフォンの画面を見つめながら、昨日までの疲労と今日からの絶望を器用に折り畳んでいる。怜司もまた、その中の一人だった。
肩に食い込む鞄の中には、昨夜のうちに終わらせるはずだった資料が入っている。いや、正確には、今朝の4時半にどうにか体裁だけ整えた資料が入っている。誤字はあるかもしれない。数式も一つ怪しい。だが、そこまで確認している時間はなかった。なぜなら6時には会社近くのカフェで別件の見積書を直す予定だったし、9時半には課長が「昨日頼んだやつ、まだ?」という顔で会議室に現れる予定だったからだ。
昨日頼んだ、ではない。昨日の夜23時46分に投げてきた、である。しかも「軽くでいいから」と書かれていた。社会人における「軽くでいい」は、山岳救助隊に向かって「ちょっと富士山まで散歩してきて」と言うのと同じくらい信用してはいけない言葉だと、怜司はもう知っていた。
目の奥が熱い。こめかみのあたりで血管が細く脈打っている。視界の端に映る電光掲示板の文字が、滲んだ水彩画のように揺れた。
快速。遅延なし。8時17分乗り換え。9時半会議。11時までに議事録。昼休みにクレーム返信。16時から取引先。18時半に課長の思いつき。21時に「今日中で」と言われる未来。23時にコンビニ弁当。24時に自己嫌悪。翌朝、再出荷。
そこまで考えたところで、怜司の膝から力が抜けた。
あ、これはまずい。
頭ではそう思った。だが、体はもう命令を聞かなかった。前に傾く。足が半歩、白線を越える。誰かが息を呑む音がした。背後から伸びた手が、スーツの袖を掠める。鞄が腕から滑り落ち、資料の入ったファイルが妙にゆっくりと宙を舞った。
最後に見えたのは、電車の前照灯だった。
家族の顔でも、人生の走馬灯でも、若い頃の夢でもなかった。怜司の脳裏に浮かんだ最後の思考は、あまりにも彼らしい、救いようのないものだった。
――あの資料、誰が引き継ぐんだろう。
その瞬間、佐久間怜司という男の人生は、社内共有フォルダに置かれた未完了タスクのように唐突に途切れた。
意識が、闇の底へ沈んでいく。
だが、怜司はまだ知らなかった。この沈下が、終わりではないということを。




