第16話 ひと月の現場、領都リュゼンテール
翌日から、教育係がついた。
彼女の名はシェルヴァ・エイムルク。
年齢は二十六。ザルムント伯領の文官で、領都リュゼンテールの税務記録と穀物台帳を扱う女性だった。濃い紺色の髪を肩の上で切り揃え、細い銀縁の眼鏡をかけている。眼鏡はこの世界では高価なものらしく、魔銀を薄く混ぜた枠に透明な磨き石を嵌めて作られているという。怜司は最初にそれを見て、文明の方向性が意外と進んでいることに驚いた。
シェルヴァは細身で、表情の変化が少ない。だが、冷たいわけではなかった。むしろ、何かを教える時の目は熱い。数字と制度が好きな人間の目である。怜司は初対面で、また同類を見つけてしまったと思った。
「シェルヴァ・エイムルクです。オルシェナ様より、セヴ様とトマ様の基礎教育を命じられました。文字、数、礼法、領地制度、貨幣、簡単な法、屋敷内の作法、街の歩き方を担当します」
初回の挨拶で、彼女は淡々とそう言った。
怜司は即座に質問した。
「期間はひと月と聞いていますが、その内容をすべて詰め込むのですか」
「はい」
「過密では」
「過密です」
「認めるんですね」
「現実を否定しても予定は減りません」
怜司は胸を押さえた。前世の職場で聞いたことがあるような言葉だった。トマは不安そうに怜司の袖を掴む。
「兄ちゃん、この人、怖い?」
「優秀な人ほど怖いことがあります」
「聞こえています」
シェルヴァは眼鏡の奥から二人を見た。
「怖がらせる意図はありません。ただし、時間は限られています。お二人はザルムント家の養子として扱われますが、現状では屋敷の下働きの子より文字を知りません。これは危険です」
「危険?」
トマが小さく尋ねる。
シェルヴァは彼の前にしゃがみ、机の上に三枚の木札を置いた。木札にはそれぞれ違う記号が刻まれている。
「この札の一つは、薬。もう一つは毒。もう一つは塩です。文字が読めなければ、誰かに聞かなければなりません。聞く相手が正直なら助かります。嘘をつく相手なら死にます」
トマの顔が真剣になった。
「文字、覚える」
「良い返事です」
シェルヴァは次に怜司を見た。
「セヴ様は数に強いと聞いています。ただ、この国の記数法と帳簿形式を覚えなければ、あなたの強みは半分も使えません」
「その通りです」
「ですので、最初の十日で文字と数字の基礎を叩き込みます」
「叩き込む」
「比喩です」
「比喩ならよかったです」
「必要なら物理も検討します」
「前言撤回が早い」
シェルヴァは表情を変えなかった。冗談なのか本気なのか分からない。怜司は背筋を伸ばした。新しい教育係は、鉱山の鞭とは違う種類の危険を持っている。知識で殴るタイプだ。
教育は厳しかったが、理にかなっていた。
午前は文字と数字。午後は屋敷内の見学と領地制度。夕方前に軽い散歩。夜は復習。ひと月自由に生活しなさい、とオルシェナは言ったが、その自由には明らかに時間割が存在していた。怜司がそれを指摘すると、シェルヴァは当然のように言った。
「無秩序な自由は、学習効率を落とします」
「自由とは」
「選択肢がある状態です。予定がない状態ではありません」
「なるほど。前の世界の上司にも聞かせたかったです」
「前の世界の上司は、しばしば登場しますね」
「だいたい悪い例として」
「教材としては優秀です」
トマは文字を覚えるのに苦労したが、印や形を記憶するのは得意だった。鉱山で怜司の石印を見ていた経験が生きている。シェルヴァはそれに気づくと、文字を絵や物の配置に結びつけて教えた。毒の札、塩の札、パン屋の看板、教会の印、商会の荷印。トマは少しずつ、街の記号を読めるようになっていった。
怜司は数字の体系を覚えるのが早かった。十進に近いが、貨幣や重量は単位が複雑だった。銅貨十二枚で大銅貨一枚、銀貨との交換比率は地域や商会手数料によって微妙に変わる。黒鉄石は重さで扱うが、魔銀混じりは純度と筋の太さで評価が変わる。穀物は袋単位、税は収量と土地等級、労役は日数で記録される。複雑だが、現代日本の税制や会社の経費精算に比べれば、まだ人間味があるとも言えた。
ただし、怜司はすぐに気づいた。
この領地は、鉱山が儲かっている一方で、食料の流れがかなり危うい。
リュゼンテールの市場を初めて見て回った日、その違和感は強まった。
市場は活気に満ちていた。石畳の広場に、布を張った露店が並ぶ。黒麦の袋、根菜、干し肉、山羊の乳から作った固いチーズ、薬草、木工品、鍛冶道具、毛織物、塩、魚の干物。人々の服装は鉱山奴隷とは比べものにならないほど整っているが、豊かというほどではない。値段を巡る声が飛び交い、商人の手元では銅貨が鳴る。
トマは初めて見る市場に目を輝かせていたが、怜司は別のものを見ていた。
黒麦の袋が多い。根菜もある。だが、青菜や果実は少なく、値が高い。塩はさらに高い。山の領地だから当然かもしれないが、食材の偏りが強い。貧しい者ほど黒麦と根菜に依存する。鉱山で見た栄養不足は、奴隷だけの問題ではないかもしれない。
シェルヴァは怜司の視線に気づいた。
「何を見ていますか」
「食材の偏りです。黒麦と根菜はありますが、青菜と塩が高い。鉱山の食事が偏る理由が分かりました」
「ザルムント領は山地です。塩は南の塩街道から買うしかありません。青菜は季節に左右されます。冬は特に不足します」
「保存食は」
「根菜の貯蔵、黒麦粉、干し肉、山羊乳のチーズ、塩漬け。教会の施療院では乾燥薬草も扱います」
「豆は比較的安いですね」
「土が痩せた畑でも育つためです。ただ、調理に手間がかかるので、忙しい家では敬遠されがちです」
怜司は市場の端で、割れ豆を売る老婆を見た。豆は安いが、見栄えが悪い。裕福な家は買わない。貧しい家は買うが、煮る燃料が足りないこともある。鉱山で豆を前夜から水に浸したように、調理手順を変えれば使いやすくなるかもしれない。
考えかけて、怜司は自分の手を見た。
休む練習。学ぶ練習。
今すぐ改善提案を出すのは、たぶん違う。まず見る。学ぶ。オルシェナに言われた通り、知らないまま働けば答えが歪む。怜司は深く息を吸い、市場の匂いを覚えることにした。黒麦粉の粉っぽさ、山羊の乳の酸味、香草、革、汗、銅貨の金属臭。鉱山とは違うが、ここもまた現場だった。
屋敷での生活は、怜司とトマを少しずつ変えていった。
トマは夜、うなされることが減った。最初は寝台の柔らかさに落ち着かず、怜司の部屋へ来て床で寝ようとした。ネリスカがそれを見つけ、床ではなく予備の小寝台を運び込ませた。以来、トマは時々怜司の部屋で眠る。誰も叱らない。怖ければ怖いと言う練習。オルシェナの言葉を、屋敷の者たちはきちんと共有していた。
怜司は、食事を残すことに罪悪感を覚えた。
ザルムント邸の食事は量が多すぎるわけではないが、鉱山を思えば十分すぎた。最初の数日は、出されたものをすべて食べようとして腹を壊しかけた。オーレグに叱られ、ネリスカに食事量を調整され、シェルヴァに「食べられる量を把握するのも管理です」と言われた。管理。そこまで言われると従わざるを得ない。
使用人たちは、一貫して二人を「様」付けで呼び続けた。
最初は針のむしろだった。怜司は呼ばれるたびに背筋が跳ね、トマは小さくなる。だが、ザイロは穏やかに、しかし逃げ道を塞ぐように言った。
「セヴ様、トマ様。呼ばれ方は、周囲に立場を知らせる札のようなものです。お二人がご自身をどう思われるかとは別に、この屋敷ではそう扱うと決められております。どうか、使用人たちの仕事を乱さぬためにも、お受け取りください」
怜司はその説明で納得してしまった。
呼称も札。マイラの白石と同じ。立場を可視化する印。自分が様付けに値するかどうかではなく、屋敷の秩序として必要。そう言われると、受け入れざるを得ない。
「ザイロさんは説明が上手いですね」
「長く生きておりますので」
「僕も前の職場で、その説明を受けたかったです」
「前の職場は、教育が不足していたご様子で」
「不足どころか、存在が疑わしいです」
ザイロは微笑むだけだった。
ひと月の最初の十日が過ぎる頃、怜司はようやく、領都リュゼンテールの輪郭を少し掴み始めた。
北の丘にザルムント邸と領庁。東に教会と施療院。南門近くに市場と商会区。西側に職人街と鍛冶場。川沿いに倉庫群と水車小屋。城壁の外には畑と山羊の放牧地。街道は南へ向かい、塩と海産物がそこから来る。北西の山道は鉱山へ続き、黒鉄石と魔銀が領都へ入る。領都の中には貧民区とまでは呼ばれないが、古い家が密集する一角もある。そこでは黒麦粉を薄く焼いたものが主食で、薪代を節約するため、共同の煮炊き場を使う家もあるという。
怜司は見て、聞いて、記録した。
紙はまだ自由に使えない。だが、シェルヴァが練習用の蝋板を与えてくれた。表面に蝋を張った板で、尖筆で文字を書き、温めれば消して再利用できる。怜司はそれを見た瞬間、感動した。
「再利用可能なメモ帳」
「めもちょう?」
「前の世界の仕事道具です」
「あなたの前の世界は、仕事道具だけ妙に具体的ですね」
「人生の大半が仕事だったので」
シェルヴァは少し黙り、眼鏡を押し上げた。
「それは、今後矯正すべき認識です」
「そこまで教育範囲ですか」
「オルシェナ様より、休む練習も教育の一部とされています」
「逃げ場がない」
「学びとはそういうものです」
怜司は蝋板に文字を練習しながら、少しだけ笑った。
領都での生活は、鉱山よりずっと安全だった。だが、何も考えずに楽な場所ではない。ここには別の重さがある。制度、礼儀、貨幣、税、商会、教会、貴族家の視線。鉱山では石と人の流れを見ればよかった。領都では、見えないものが多い。約束、権利、身分、評判、書類。前世で散々苦しんだ紙と数字の鉱山が、ここにも広がっている。
ただし、今度は一人ではない。
トマが隣で文字を覚えている。シェルヴァが容赦なく教える。ザイロが屋敷の流れを説明する。ネリスカが生活を整える。ピリアが時々余計な感情を顔に出して、トマを笑わせる。オーレグが体調を診る。オルシェナは時折現れ、怜司の観察をさらに一段深く抉るような問いを投げる。
ある夕方、庭の石道を歩いている時、トマが怜司に言った。
「兄ちゃん」
「はい」
「お母様って、怖いけど、怖くないね」
怜司は少し考えた。
「かなり難しい表現ですね」
「怒鳴らない。でも、逆らえない」
「正確です」
「でも、僕たちを売らない」
「はい」
「ご飯もある」
「あります」
「じゃあ、怖くない方が多いかも」
怜司は庭の向こうに見える領都の屋根を眺めた。夕暮れの光が藍色の瓦を照らし、遠くの鐘楼から鐘の音が響いている。鉱山の鐘とは違う。労働の区切りではなく、街全体の時間を知らせる音だった。
「そうですね。今のところは、怖くない方が多いです」
「兄ちゃんは、いつお母様って普通に呼べるようになる?」
怜司は足を止めた。
「それは長期課題です」
「シェルヴァ先生に言ったら、練習表を作られそう」
「絶対に言わないでください」
トマは笑った。
その笑い声を聞きながら、怜司は自分の首に触れた。隷印はもうない。手首にも足首にも鎖はない。けれど、自由というものは、ただ鎖が外れただけでは完成しないのだと、彼は少しずつ理解し始めていた。
何をしていいか分からない。
休んでいいと言われても休めない。
大切に扱われても疑ってしまう。
母と呼べと言われても、口が固まる。
鎖は外れた。
だが、鎖に合わせて歪んだ心と体は、すぐには戻らない。
ひと月。
オルシェナが与えたその期間は、休暇ではなかった。怜司とトマが、奴隷ではない自分に慣れるための時間だった。
そして同時に、領都という新しい巨大な現場を、焦らず見るための時間でもあった。
怜司は庭の石道に立ち、マイラからもらった白い石をポケットの中で握った。迷ったら置きな。そう言われた石だ。今はまだ、どこに置くべきか分からない。だから、見て、聞いて、覚える。
働くのはそれからでいい。
そう言われても、完全には信じきれない。
けれど、今日はもう日が落ちる。
怜司は深く息を吸った。
「トマ」
「なに?」
「夕食前に、少しだけ休みましょう」
トマは目を丸くした。
「兄ちゃんが休むって言った」
「練習です」
「お母様に言う?」
「言わなくていいです」
「シェルヴァ先生には?」
「絶対に言わないでください。課題にされます」
トマは楽しそうに笑い、怜司の手を取った。
二人は屋敷へ戻っていく。ザルムント邸の窓には、柔らかな灯りがともり始めていた。そこには湿った藁も、鉄枷の音も、怒鳴り声もない。代わりに、食事の支度をする匂いと、廊下を歩く使用人たちの静かな足音と、どこかの部屋から聞こえるシェルヴァの紙をめくる音がある。
怜司はその音を聞きながら、ふと思った。
社畜として死に、奴隷として目覚め、鉱山を出て、領主の養子になり、今は母上と呼ぶ練習を課されている。
人生の工程表があるなら、誰かが途中で大きく入力ミスをしたに違いない。
ただ、その入力ミスのおかげで、トマは柔らかい靴を履いて隣を歩いている。
なら、今はまだ、修正依頼を出すのはやめておこう。
怜司はそう思いながら、夕暮れの屋敷へ戻った。




