第17話 甘やかし方の違い
ザルムント邸で暮らし始めて、ひと月が過ぎた。
ひと月。
佐久間怜司の感覚では、それは短いようで、恐ろしく長い時間だった。前世ならば、月初の締め処理を終えて、請求書を確認し、翌月の会議資料を作り、気づけばまた月末が近づいている程度の長さである。疲労と焦燥と未読メールに押し流され、何を食べたかも、何曜日に休んだかも曖昧なまま過ぎていく時間。
だが、このひと月は違った。
朝、柔らかな寝台で目を覚ます。窓の外から鳥の声が聞こえる。顔を洗うための水が用意されている。食卓には、温かいスープと柔らかなパンがある。文字を学び、数字を学び、領都を歩き、人の話を聞き、夕暮れには屋敷へ戻る。夜には灯りの下で蝋板に復習を刻み、眠くなれば眠っていいと言われる。
眠っていい。
その当たり前の言葉に、怜司はいまだに慣れなかった。
鉱山では、眠りは倒れるように得るものだった。前世では、眠りは仕事の残り時間から逆算して奪い取るものだった。だが、ザルムント邸では違う。寝るために寝台があり、起きるために朝がある。自分の体を翌日のために整えることが、怠慢ではなく必要なこととして扱われる。
それがどうにも落ち着かない。
怜司はこのひと月、何度も夜中に目を覚ました。何かを忘れている気がする。提出していない資料がある気がする。引き継ぎ漏れがある気がする。そう思って跳ね起き、机の上の蝋板を確認し、そこにシェルヴァが冷静な字で書いた「就寝前の作業禁止」という注意札を見つけて、毎回静かに敗北した。
ザルムント家の文官は、怜司の行動を読みすぎている。
教育係シェルヴァ・エイムルクは、怜司の休まない癖を「修正対象」と見なしていた。彼女は文字、数、礼法、領地制度だけでなく、いつの間にか怜司の生活管理まで担当範囲に含めている。恐ろしいことに、本人はそれを当然だと思っているらしかった。
ある夜のことである。
怜司が灯りを絞った自室で蝋板を前にしていると、扉が音もなく開いた。振り返るより早く、濃紺の髪を肩の上できっちり揃えた人影が、銀縁眼鏡の奥から怜司の手元を見下ろしていた。気配が薄い。鉱山のグラムは足音で分かったが、シェルヴァは紙をめくる音すらさせずに背後を取る。種類の違う恐怖だった。
「セヴ様」
声は静かだった。だが、その静かさが逆に逃げ場を塞いでくる。
「睡眠時間を削って学習効率が上がるのは、短期間だけです。三日を超えると誤読が増えます」
怜司は蝋板を裏返そうとして、その手の上にシェルヴァの視線が乗っているのに気づき、断念した。見られている。完全に。
「前の世界では、睡眠を削ることで仕事が終わる場合もありまして」
シェルヴァは答えない。代わりに、怜司の手から蝋板を静かに抜き取り、机の端へ伏せて置いた。それから、眼鏡の縁を指で押し上げる。その一連の動作は、反論の余地を一つずつ物理的に潰していくようだった。
「終わったのですか」
「終わった気にはなりました」
「では、終わっていません」
言い切られた。疑問の余地なく、名詞で殴られたような感覚だった。怜司はこめかみを軽く押さえる。
「正論は時に鞭より痛いですね」
「鞭より安全です」
シェルヴァは表情を変えずに言った。冗談を言っているのか、純粋な事実を述べているのか、相変わらず判別がつかない。だが、間違ってはいない。
「それは確かに」
怜司は反論を諦めた。
シェルヴァの教育は厳しいが、無駄がなかった。怜司にはこの国の記数法、貨幣、帳簿形式、領政用語を重点的に叩き込む。トマには文字と生活作法を、絵や印と結びつけて教える。二人を同じ机に座らせておきながら、与える課題は細かく変えている。怜司が計算問題を解いている横で、トマは薬と毒と塩の札を見分ける練習をする。トマが看板文字を覚えている横で、怜司は黒麦袋の税率と輸送費を計算させられる。
教育とは、かくも逃げ場のないものなのか。
前世の学校教育より、こちらの方がよほど実務に直結している。怜司はそう思いながらも、脳の奥がじわじわ温まる感覚を嫌いではなかった。仕事に追われるためではなく、世界を理解するために学ぶ。そんな勉強は、いつ以来だろうか。
一方で、トマは少しずつ変わっていた。
鉱山にいた頃のトマは、いつも怯えた目で周囲を見ていた。怒鳴り声がすれば肩をすくめ、足音が近づけば逃げ場を探し、食事は誰かに奪われる前にかき込むように食べた。怜司を「兄ちゃん」と呼ぶようになってからも、その根元には常に恐怖があった。
だが、ザルムント邸でひと月を過ごしたトマは、以前より少し背筋が伸びた。
まだ臆病ではある。知らない大人に囲まれると怜司の後ろに隠れるし、強い声には反射的に体が震える。けれど、毎朝きちんと顔を洗い、服の乱れを直し、食事の前にネリスカから教わった通りに手を置くようになった。文字は苦手だが、道順や部屋の位置、使用人たちの顔と名前を覚えるのは早い。屋敷の中で迷ったメイド見習いに、逆に道を教えていたこともある。
何より、トマはオルシェナに懐いていた。
最初は「お母様」と呼ぶたびに顔を赤くしていたが、今では怜司よりずっと自然に呼ぶ。朝の挨拶でオルシェナが現れると、トマは少し緊張しながらも駆け寄り、その日の勉強で覚えた文字や、市場で見たものを一生懸命報告する。オルシェナは忙しいはずなのに、そういう時だけは必ず手を止めて聞く。片手間ではなく、きちんと目を合わせる。
そして、甘い。
怜司から見ても、明らかに甘かった。
ある日の午後、トマが文字の練習で同じ文字を三度間違え、シェルヴァから静かにやり直しを命じられていた。蝋板の上には、形の崩れた同じ字が三つ並んでいる。トマが肩を落としかけたところへ、廊下からオルシェナが通りかかった。トマは叱られた子犬のような顔で顔を上げる。
「お母様……この字、難しいです」
その上目遣いは、明らかに援軍を求める顔だった。
オルシェナは歩を止め、トマの肩越しに蝋板を覗き込んだ。少し首を傾げ、考えるふりをする。その「ふり」が長い。本当は答えなど分かっているのに、わざわざ間を取っている。
「確かに難しいわね」
彼女はそう言って、声をひとつ柔らかくした。
「では、今日はその字を三つ書けたら、焼き林檎を出してもらいましょう」
トマの目が、分かりやすく輝いた。
その輝きを、横から差し込んだ光が遮った。シェルヴァの眼鏡が、灯りを反射してきらりと光ったのである。彼女は手元の記録板から顔を上げ、感情のない声で、しかし確実に抗議の意思を込めて言った。
「オルシェナ様。報酬による動機付けは有効ですが、常態化すると学習目的が菓子へ移ります」
「毎回ではないわ。今日は特別」
オルシェナの返答は早い。早すぎる。後ろめたい者の早口だった。
「昨日も、剣術見学の後に蜂蜜菓子を出されていました」
「あれも特別よ」
「一昨日は、礼法の姿勢を保てたご褒美に干し果実を」
「あれも特別」
「特別の頻度が高すぎます」
シェルヴァの声は一切高まらない。ただ、事実を一つずつ積み上げ、最後に総量で押し潰す。怜司はそれを横で聞きながら、領主でも教育係には弱いのだと知った。いや、弱いというより、後ろめたいのだろう。トマはといえば、二人のやり取りを真剣な顔で交互に見上げ、焼き林檎の行方だけをひたすら案じている。彼にとっては、領主と文官の権力闘争よりも、林檎が出るか出ないかの方が重大事だった。
オルシェナは小さく咳払いをした。優雅に話題を逸らそうとして、逸らしきれていない。
「では、今日は三つではなく五つ書けたら」
「妥当です」
シェルヴァが即座に頷く。交渉成立、という顔だった。
トマは一瞬だけこの世の終わりのような顔になったが、焼き林檎という光のために、すぐに蝋板へ向き直り、必死に尖筆を握り直した。怜司はその健気な背中を見ながら、隣のオルシェナへ、つい小声で漏らした。
「お母様は、トマに甘いですね」
言ってから、怜司は半拍だけ固まった。
お母様。
まだ、意識しなければ言えない。口の中で一度組み立ててから出す言葉だ。だが、一か月の訓練というのは恐ろしいもので、最初の頃よりは確かに口が動くようになっていた。
オルシェナはその一言を聞き逃さなかった。ほんのわずかに、目を細める。からかいの色だった。だが、すぐにはからかわない。彼女は怜司のボケに即座に乗らず、いつも一拍おいて、別の角度から返してくる。
「あなたにも甘くしているつもりよ」
「僕には課題が増えます」
「それがあなたへの甘やかし方だもの」
「甘やかしとは」
怜司が眉を寄せると、オルシェナは窓の外の薬草園へ視線を流しながら、ゆっくり言った。
「働きたい子には、働かせない時間を与える。学びたい子には、学ぶ材料を与える。甘いものが欲しい子には、焼き林檎を与える。相手によって違うだけよ」
「理屈は分かりますが、何か納得しきれません」
「納得できないなら、次の課題にしましょう」
「やはり課題が増える」
オルシェナは、今度こそ楽しそうに微笑んだ。怜司は敗北を悟った。この人を相手にすると、ボケてもツッコんでも、最終的に課題が増える仕組みになっている。
トマの変化は、勉強だけではなかった。
ある朝、庭で護衛兵たちが訓練しているところを、トマがじっと見ていた。木剣が打ち合う音、足が砂を踏む音、隊長の短い号令。トマは最初、怜司の後ろから覗くだけだったが、次第に身を乗り出し、剣の動きではなく足の運びを見ているようだった。怜司はそれに気づいたが、声はかけなかった。トマが何かに集中している時の目は、鉱山で落下物の記録を見ていた時と似ていた。
その様子を、オルシェナも見ていた。
昼食後、彼女はトマに軽い木剣を持たせた。庭の隅、柔らかい土の上である。相手をしたのは屋敷の護衛兵ではなく、オルシェナ自身だった。もちろん本気ではない。彼女は細身の練習剣を持ち、トマの動きを見るだけのつもりだったのだろう。
だが、トマは意外な動きをした。
力は弱い。構えも知らない。腕も細い。けれど、踏み込みが速かった。相手の剣を怖がって目を閉じることもなく、オルシェナの手元ではなく肩と足を見ている。鉱山で殴られないよう周囲の動きに敏感だったことが、奇妙な形で働いているのかもしれない。トマは一度、オルシェナの軽い誘いに乗らず、横へ逃げるように足をずらした。
オルシェナの目が変わった。遊びを見る目から、何かを見定める目へ。
「もう一度」
彼女はそう言い、今度は少し速く動いた。トマは追いつけず尻餅をついたが、すぐに立ち上がった。土で汚れた膝を払いもしない。怯えていない。むしろ、目が輝いている。
「お母様、もう一回」
怜司はその場で、トマが焼き林檎の時とは別の顔をしていることに気づいた。あれは欲しいものをねだる子供の顔。これは、何かを掴みかけた者の顔だった。
その日の夕方、オルシェナはザイロに命じて剣術教師を呼ばせた。
数日後、屋敷へ現れたのは、痩せた長身の女だった。名をカズラ・フェインディルという。年齢は三十代半ば。短く切った黒髪に、左頬を斜めに走る薄い傷痕。服装は簡素な訓練着だが、腰に下げた細剣はよく手入れされていた。もとは王国北境の巡察騎士で、今は領都で子弟や護衛兵に剣を教えているらしい。
彼女は挨拶もそこそこに、トマの前へ立った。言葉数は少ない。トマの頭からつま先までを、品定めというより、荷の重さを測るような目で一往復させる。それから、最初に落とした一言がこれだった。
「軽い。折れそうだ」
トマは、びくりと肩を震わせた。久しぶりに見る、鉱山の頃の反応だった。
オルシェナは動じない。静かに、しかしはっきりと言葉を置いた。
「折らないために、あなたを呼んだのよ」
カズラは、それだけで納得したように頷いた。余計な確認はしない。
「なら、走らせる。食わせる。寝かせる。剣はその後だ」
怜司は思わず、この無口な剣士に好感を抱いた。いきなり剣を振らせない。まず体を作る。順番が正しい。前世なら、新人にいきなり実戦を投げて「現場で覚えろ」と言う上司ばかりだった。それに比べれば、なんという良心的な教育計画か。
ただ、トマの方は不服そうだった。剣術と聞いて、てっきり剣を振れるものと期待していたらしい。最初の課題が庭をゆっくり走ることだと知って、あからさまに複雑な顔をする。
「剣は?」
「走ってから」
「いつ?」
「倒れずに走れるようになってから」
「遠い」
トマが心底がっかりした声を出すと、カズラは表情を変えずに、短く返した。
「剣は遠いものだ」
その一言には、飾りも慰めもなかった。だが、不思議とトマは反発しなかった。たぶん、彼女の言葉には嘘がないからだ。怖がらせるためでも、甘やかすためでもない。必要なことを、必要な順番で、必要なだけ言っている。鉱山でトマが信じたのも、そういう種類の言葉だった。
怜司はその訓練の始まりを見届けてから、自分の仕事に戻った。




