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第15話 奴隷ではない、では何なのか

「二人とも、今日から奴隷ではありません」


 オルシェナは静かに告げた。


 怜司は顔を上げた。


「奴隷では、ない」


「ええ。少なくとも、法の上では。隷印は消しました。登録も私の名で抹消させます。これで、あなたたちは売買される財ではなくなります」


 言葉の意味は分かる。だが、実感が追いつかない。


 奴隷ではない。


 それは自由ということなのか。どこへでも行けるということなのか。働かなくていいということなのか。命令されないということなのか。分からない。怜司は首を触りながら、口を開いた。


「では、僕たちは何になるのでしょうか」


 オルシェナは少しだけ微笑んだ。


「まずは、ひと月。自由に生活なさい」


「自由に」


「ええ。屋敷の中を見て、領都を歩き、領地の人と物と金の流れを見なさい。あなたは鉱山で、見えたものを変えた。なら、まずはこの領地を見なければならないわ。働くのはそれからでいい」


「働かなくていいのですか」


「ひと月はね」


 怜司は言葉を失った。


 ひと月、働かなくていい。


 前世でも、そんな期間はなかった。病欠すら罪悪感に苛まれ、有給休暇は幻の制度だった。異世界で奴隷から解放された直後に、一か月の自由期間を与えられる。意味が分からない。何か裏があるのではないかと疑う自分が悲しかった。


「僕が働かないと、価値が」


「価値を示し続けなければ捨てられる、と思っているのね」


 オルシェナの言葉に、怜司は息を呑んだ。


 彼女は怜司の反応を見て、小さく息を吐いた。


「セヴ。鉱山ではそれが正しかったのでしょう。けれど、ここでも同じように振る舞えば、あなたはまた壊れるわ。壊れた道具は使えない。壊れた人間は、もっと使えない」


「人間として扱うのか、道具として扱うのか、どちらですか」


「両方よ」


 オルシェナはあっさり言った。


「私は領主です。人を人として見るだけでは領地を守れない。けれど、人を道具としてしか見ない者は、結局道具すら壊す。あなたが鉱山で示したのは、まさにそのことでしょう?」


 怜司は答えられなかった。


 オルシェナはトマの頭にそっと手を置いた。トマはまだ涙目だったが、びくりとはしなかった。


「ひと月、学びなさい。屋敷の礼儀、文字、数、領都の市場、教会、商会、倉庫、街道。あなたたちは知らないことが多すぎる。知らないまま働かせても、出せる答えが歪むわ」


「教育期間、ということでしょうか」


「そうね。あなたの言葉で言うなら、研修かしら」


 怜司は目を見開いた。


「研修」


「違う?」


「いえ。前の世界では、研修と称してすぐ現場投入されることも多かったので」


「それは研修ではなく放置ね」


「おっしゃる通りです」


 オルシェナは少し笑った。


「ザイロとネリスカが生活を整えます。教育係もつけます。まずは食べて、眠って、歩いて、見て、聞きなさい。セヴ、あなたは働く前に休む練習をしなさい。トマ、あなたは怖い時に怖いと言う練習をしなさい」


 トマは怜司の服を掴んだまま、小さく頷いた。


 その日から、怜司とトマのザルムント邸での生活が始まった。


 最初の三日間は、ほとんど療養だった。


 朝、柔らかな寝台で目を覚ます。これだけで怜司には事件だった。石床ではない。湿った藁でもない。背中が冷えていない。体を起こしても関節が悲鳴を上げない。掛け布は軽く、しかし温かい。窓の外には庭があり、朝の光が薄い帳を通して差し込んでいる。鳥の声が聞こえる。怒鳴り声ではない。鎖の音でもない。鳥だ。


 怜司は初日の朝、そのまま起き上がれなかった。


 快適すぎて、逆に怖かった。


 寝台の横では、トマが丸くなって眠っていた。彼には別の寝台が用意されているのに、夜中に不安になって怜司の部屋へ来たのだ。使用人たちは止めなかった。むしろ朝、ネリスカが入ってきて二人を見ても、眉ひとつ動かさず、「本日は朝食を少し遅らせます」とだけ言った。柔軟性がある。いや、把握されているだけかもしれない。


 朝食は、怜司にとってさらに衝撃だった。


 白に近いパン。温かい野菜のスープ。柔らかい卵。薄く切った燻製肉。果実を煮たもの。水ではなく、香草を入れた温かい飲み物。すべてが、鉱山の食事と別次元だった。トマは椅子に座ったまま固まり、怜司も目の前の皿を見つめて動けなかった。


 給仕の若いメイド、ピリア・クァルトが首を傾げる。彼女は栗色の髪を短く切り、よく動く明るい目をしていた。仕事は丁寧だが、表情に感情が出やすい。ネリスカに何度も注意されているらしい。


「お口に合いませんか、セヴ様」


「様」


 怜司はまずそこに反応した。


「はい、セヴ様」


「その、様は必要でしょうか」


 ピリアは困ったように瞬きした。


「必要でございます。ザイロ様より、セヴ様とトマ様には必ず敬称をつけるよう申しつかっております」


「僕たちは昨日まで奴隷だったのですが」


「昨日まででございます」


 理屈は合っているようで、怜司の理解は追いつかない。


 トマはパンを両手で持ち、匂いを嗅いでいる。食べていいのか分からないらしい。怜司が小さく頷くと、恐る恐るかじった。次の瞬間、目が丸くなる。


「兄ちゃん、パンが柔らかい」


「パンとは本来、場合によっては柔らかいものです」


「黒パンしか知らなかった」


「僕もこの世界ではそうです」


 トマは二口目をかじり、少し泣きそうな顔になった。怜司もスープを一口飲んだ。野菜の甘みがある。塩味が適度。油が浮いている。温かい。胃が驚いている。ルカンの表現は正しかったのだと、怜司は今さら思った。


 三日目の午後、怜司は我慢できなくなった。


 オルシェナは庭に面した小さな書斎にいた。机の上には文書が積まれ、窓からは薬草園が見える。彼女は怜司とトマを入れると、手元の署名を終えてから顔を上げた。


「どうしたの、セヴ。休む練習は進んでいる?」


「進捗は芳しくありません」


「でしょうね」


「把握されている」


「あなたは休むと言われて、屋敷の水路の流れを見ていたでしょう」


「排水が気になりまして」


「それを休んでいないと言うのよ」


 オルシェナは呆れたように微笑んだ。怜司は咳払いをする。


「その件とは別に、確認したいことがあります」


「何かしら」


「屋敷の方々が、僕とトマを様付けで呼びます」


「そうね」


「僕たちは奴隷ではなくなったとはいえ、平民ですらない身元不明の元奴隷です。使用人の方々が敬称をつける理由が分かりません」


 オルシェナは一瞬、きょとんとした。


 本当に、意外そうだった。


 怜司はその表情を見て、嫌な予感がした。彼女にとって当然すぎて、説明するまでもないことがある時の顔だ。前世で上司が「言わなくても分かると思ってた」と言う直前の顔に少し似ている。非常に危険である。


 オルシェナは書類を一枚脇へ置き、さも当然のように言った。


「あなたとトマは、私の養子ですよ」


 怜司は固まった。


 トマも固まった。


 部屋の時計らしき水音だけが、静かに流れていた。


「……はい?」


 怜司の声は、裏返りかけていた。


「私の養子です」


「すみません。言葉の意味は理解しています。ただ、文脈が理解できません」


「領主家の養子。つまり、あなたたちはザルムント家の子として扱われます」


「扱われます、ではなく、なっています、という話ですか」


「ええ」


「いつですか」


「隷印を消した日です」


「早い」


「手続きは先に済ませておきました」


「段取りが良すぎる」


 怜司は頭を抱えそうになった。トマは口を開けたまま、オルシェナを見つめている。


「僕と兄ちゃんが、オルシェナ様の子?」


「そうよ」


 オルシェナは穏やかに頷いた。


「もちろん、血の繋がりはありません。けれど、ザルムント家の庇護下に置くには、ただの客人より養子の方が都合がいいの。元奴隷を領政に関わらせるとなれば、商会も教会も面倒な口を挟むでしょう。けれど、私の子として登録されていれば話は早いわ」


 怜司は椅子に座っていなければ倒れていたかもしれない。


 理屈は分かる。貴族家の養子という身分があれば、屋敷で教育を受ける理由になる。領都を見て回る理由にもなる。使用人が様付けする理由にもなる。元奴隷を単に解放しただけでは、商会や奴隷市場が権利を主張する余地があるかもしれないが、伯爵家が養子にしたなら手を出しにくい。


 分かる。

 分かるが、心が追いつかない。


「なぜ事前に説明を」


「隷印を消す前に説明して、あなたが考え込みすぎると面倒でしょう?」


「面倒で済ませましたね」


「ええ。あなたは面倒な子だもの」


 オルシェナは悪びれない。むしろ、当然の判断をしたという顔だ。


 怜司は額に手を当てた。


「僕は三十五歳です」


「見た目は十五ほどね」


「中身の話です」


「その話は、いずれ詳しく聞きます。けれど、法が見るのは今のあなたの肉体と登録よ。あなたは身元不明の少年で、私はあなたを養子として届け出た。何も問題はありません」


「問題しかない気がします」


「慣れなさい」


「強い」


 トマはようやく再起動した。


「あの、僕も?」


「もちろん」


「僕も、オルシェナ様の子?」


「ええ。嫌かしら」


 トマは慌てて首を振った。だが、すぐに困った顔になる。


「嫌じゃないです。でも、僕、何もできない」


「これから覚えればいいわ」


「字も読めないし、礼儀も分からないし、食べるのも下手だし」


「なら、覚えることがたくさんあって退屈しないわね」


 オルシェナの声は柔らかかった。トマは目を瞬かせ、少しだけ顔を赤くする。彼はまだ、母という存在にどう反応していいのか分からないのだろう。怜司も分からない。こちらは精神年齢三十五歳である。今さら「母」が増えるとは思わなかった。しかも相手は自分より肉体年齢では大人だが、精神的にはどう扱えばいいのか分からない女性領主である。


 オルシェナは二人を見比べ、さらりと言った。


「ですから、私のことは『母上』か『お母様』と呼びなさい」


 怜司は呼吸を忘れた。


「何と?」


「母上、またはお母様」


「選択肢が重い」


「好きな方でいいわ」


「どちらも気軽には選べません」


「では、練習しましょう。セヴ」


「はい」


「母上」


「……」


「セヴ?」


 怜司は口を開いた。だが、声が出ない。三十五歳の元社畜が、異世界の女性領主に向かって母上と呼ぶ。状況が複雑すぎる。脳が処理を拒否している。トマは横で怜司を見上げている。逃げ場がない。


「お、お母……」


 怜司は途中で止まった。


 オルシェナは微笑んでいる。楽しんでいる。絶対に楽しんでいる。


「続けて」


「お母、様」


 言った瞬間、怜司は魂が一段階ほど別の場所へ行った気がした。


 トマは目を輝かせた。


「お母様」


 こちらはあっさり言えた。しかも自然だった。オルシェナの表情が一瞬だけ柔らかくなる。


「ええ、トマ。上手ね」


 怜司は敗北感を覚えた。何の勝負かは分からないが、負けたことだけは分かった。


「セヴは、少しぎこちないわね」


「三十五年分の心理的抵抗が」


「ひと月の課題にしましょう」


「課題が増えた」


「休む練習、学ぶ練習、私を母と呼ぶ練習。三つね」


「研修項目が多いです」


「あなたなら管理できるでしょう?」


「できると言うと仕事が増えるので、検討します」


 オルシェナは楽しそうに笑った。


 こうして怜司とトマは、ザルムント伯家の養子になっていたことを、本人たちだけが遅れて知った。

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