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第14話 領都と、鎖が外れる瞬間

 四日目の昼過ぎ、領都リュゼンテールが見えた。


 最初に見えたのは、灰青色の城壁だった。山の稜線を背に、緩やかな丘の上へ広がる都市。その外周を低い石壁が囲み、街道は南門へ続いている。壁の上には旗が立ち、藍地に銀の角を持つ山羊の紋章が風に揺れていた。ザルムント伯家の紋章らしい。都市の内側には尖塔がいくつか見え、そのうち一つは教会、もう一つは領庁の鐘楼だと兵が教えてくれた。遠くには赤茶色の屋根が連なり、煙突から細い煙が上がっている。


 トマは荷台から身を乗り出しかけ、鎖に引かれて慌てて戻った。


「兄ちゃん、家がいっぱいある」


「街ですからね」


「あんなに人が住んでるの?」


「たぶん」


「全員にご飯あるのかな」


 怜司はすぐに答えられなかった。


 鉱山を出てから、トマの質問は時々鋭い。街の大きさに驚くより先に、そこに住む人間の食事を心配する。鉱山で空腹を知った子供の視点だった。怜司は領都の煙を見ながら、静かに答える。


「ある人と、ない人がいると思います」


「領都なのに?」


「領都でもです」


「じゃあ、兄ちゃんが見る?」


「見ていいなら」


「また仕事が増えるね」


「本当にそうですね」


 怜司は苦笑した。


 ザルムント邸は、領都の北側、丘の上に建っていた。


 城というより、領庁と館を合わせたような造りだった。外壁は淡い灰色の石で、屋根は深い藍色の瓦。正面には広い車寄せがあり、左右には整えられた庭園が広がっている。庭といっても華やかな花ばかりではない。薬草、低木、針葉樹、石畳の水路。鉱山の無骨さとは違うが、どこか実用を感じさせる庭だった。噴水の水音が聞こえた時、トマは本気で口を開けていた。


 馬車が止まると、扉の前には使用人たちが並んでいた。


 先頭に立つのは、細身の老執事だった。白髪を後ろへ撫でつけ、黒に近い深緑の上着を着ている。顔立ちは穏やかだが、背筋の伸び方と視線の置き方に隙がない。彼の名はザイロ・オルテグ。後で知ることになるが、ザルムント家に三十年以上仕える家令であり、屋敷の人と物と時間をすべて把握している男だった。怜司は初対面で、危険な同類の匂いを感じた。仕事を抱え込みすぎて倒れないタイプの、しかし倒れる前に周囲を動かす側の人間である。


 その隣には、メイド長のネリスカ・ヴォルムがいた。年齢は四十前後だろう。灰褐色の髪をきつくまとめ、白い襟の制服を寸分の乱れもなく着ている。目は鋭いが、冷たくはない。むしろ、汚れた子供を見た瞬間に「洗う」と判断した者の目だった。怜司はその視線を受けた瞬間、危険を察知した。


 これは業務改善では解決できない類の危険だ。


「お帰りなさいませ、オルシェナ様」


 ザイロが静かに頭を下げる。オルシェナは別の馬車から降り、軽く頷いた。旅装でも姿勢は崩れず、銀灰色の髪も乱れていない。どういう体幹をしているのか。怜司は四日間の馬車旅で腰を破壊されかけた自分との差を感じ、貴族の基礎能力に戦慄した。


 オルシェナは怜司とトマを振り返る。


「ザイロ。ネリスカ。この二人を頼みます」


「承知いたしました」


「まず湯を。衣服は焼却、鎖は外して保管。隷印は後ほど私が処理します」


「かしこまりました」


 ネリスカが滑らかに答えた。


 怜司は引っかかった。


 鎖を外す。


 今、さらっと言った。


「あの、鎖を外すというのは」


 怜司が言い終えるより早く、ネリスカが一歩近づいた。彼女の後ろから若いメイドが数人、静かに展開する。隊列だった。完全に訓練されている。鉱山の運搬列とは別種の統率があった。


「セヴ様、トマ様。長旅でお疲れのところ恐れ入りますが、まずは湯浴みでございます」


「様?」


 怜司はそこで固まった。


 セヴ様。

 トマ様。


 聞き間違いかと思った。だが、トマも目を丸くしている。横で兵が鎖の鍵を外し始めた。手首の枷が外れる。足首の枷も外れる。鉄が離れた瞬間、怜司の皮膚に軽さが戻った。重みが消えたのに、そこにまだ鉄があるような感覚だけが残る。トマは自分の手首を見つめ、何度も指を開いたり閉じたりしていた。


「あ、あの、鎖が」


「外されましたね」


 ネリスカは当然のように言った。


「いや、外していいのですか」


「オルシェナ様のご指示です」


「それは、そうですが」


「では問題ございません」


 凄まじい論理だった。命令系統が明確な組織の強さである。怜司は反論しようとしたが、次の瞬間、別のメイドが両側から近づいてきた。


「では、お召し物を」


「おめしもの?」


「今着ておられるものです」


「これは服というより、布ですが」


「ですので、処分いたします」


「処分」


 怜司は一歩下がろうとした。だが、背後にもメイドがいた。包囲されている。トマが怜司の袖を掴む。怜司は冷静に状況を分析した。相手は武器を持っていない。だが、動きに無駄がない。目的は湯浴み。こちらは元奴隷二名、長旅後、疲労あり、抵抗の意思なし。勝ち目はない。


「兄ちゃん」


「トマ、落ち着いてください。これはおそらく、清潔にするための作業です」


「作業?」


「はい。僕たちは今、洗濯物に近い扱いを受けています」


「洗濯物って脱がされるの?」


「たぶん」


 ネリスカが微笑んだ。


「ご理解が早くて助かります。では、参りましょう」


 そこからは早かった。


 怜司とトマは屋敷の奥にある湯殿へ連れて行かれた。ザルムント邸の湯殿は、怜司が想像していた中世風の桶風呂とは違い、石造りの広い部屋に温水を引き込む仕組みだった。壁には湯気が薄く漂い、床には滑りにくい細かな溝が刻まれている。温水は屋敷裏の湧水と魔銀を使った加熱盤で温めているらしい。メイドの一人が簡単に説明してくれたが、怜司は半分しか聞けなかった。なぜなら、その間に身ぐるみを剥がされていたからである。


「自分で脱げます」


「失礼ながら、鉱山由来の汚れは布の隙間にも入り込みます。手順に従っていただきます」


「手順と言われると弱い」


「兄ちゃん、負けてる」


「これは抵抗しても工程が長引くだけです」


 トマは別の衝立の向こうで同じように世話を受けていた。子供だからか、怜司よりさらに手厚い。怜司の方も、成人扱いではなく少年の体であるため、メイドたちの対応は完全に保護対象へ向けるものだった。そこに変な含みはない。ないのだが、現代日本の感覚を持つ怜司にとって、複数人に無言で洗浄手順を進められるのはなかなか精神的に厳しかった。


 湯をかけられた瞬間、黒い水が足元へ流れた。


 怜司は黙った。


 メイドたちも黙った。


 トマの衝立の向こうから、「うわ」と小さな声がした。


 鉱山の汚れは、想像以上だった。髪から、耳の後ろから、爪の間から、首筋から、黒鉄石の粉と汗と藁屑が流れ落ちる。石鹸のようなものを泡立てられ、髪を洗われ、背中を擦られる。最初はくすぐったさと恥ずかしさで体が強張ったが、次第に湯の温かさが骨に染みてきた。肩の奥、腰の奥、手首の枷跡。そのすべてが、少しずつほどけていく。


 怜司は気づけば、深いため息をついていた。


「お湯って、すごいですね」


 思わず口から漏れた言葉に、近くの若いメイドが微笑んだ。


「はい。お湯は偉大でございます」


「前の世界では、蛇口をひねると出ました」


 メイドの手が止まった。


「じゃぐち?」


「すみません。今のは忘れてください」


「かしこまりました」


 彼女は何も聞かなかったことにした。教育が行き届いている。


 湯浴みは一度では終わらなかった。洗って、流して、また洗う。髪には香草を煮出した湯を使い、皮膚の擦り傷にはしみる薬湯を塗られた。怜司は何度か小さく呻いたが、ネリスカが「我慢なさいませ。化膿よりましです」と言うと、反射的に「はい」と答えてしまった。メイド長はバラドより静かだが、逆らいにくさでは同等かもしれない。


 トマは最初こそ怯えていたが、途中から湯の温かさに負け、半分眠りかけていた。


「兄ちゃん、これ、毎日あるの?」


「貴族の家なら、あるかもしれません」


「貴族すごい」


「すごいですね」


「鉱山にも欲しいね」


「それはかなり大規模な設備投資になります」


「また難しいこと言ってる」


「お湯を出すのは大変なんです」


 怜司は湯気の中で、鉱山の奴隷牢に温水を引く方法を一瞬考えかけた。燃料、湧水、加熱盤、桶、排水。すぐに首を振る。今考えることではない。だが、いつかできるなら、あの湿った寝床と冷たい石床を知る者として、湯の価値を忘れたくはなかった。


 湯浴みの後、二人は柔らかな布で体を拭かれ、新しい衣服を着せられた。


 怜司の服は、生成りの下着に、薄い灰色のチュニック、柔らかな紺の上着、足首までのズボン。貴族そのものの装いではないが、明らかに使用人や奴隷の服ではない。トマには同じ意匠で、少し明るい青灰色の服が用意されていた。靴もある。柔らかな革靴だった。トマは足を入れた瞬間、床を踏んだり、つま先を動かしたりしている。


「兄ちゃん、足が痛くない」


「靴とは本来そういうものです」


「すごい」


「文明です」


 怜司自身も、久しぶりに足枷のない足で柔らかい靴を履き、しばらく動けなかった。手首が軽い。足首が軽い。けれど、軽すぎて逆に不安になる。鎖がないのに、勝手に逃げてはいけないような気がする。首の隷印はまだ残っている。黒い紋様が皮膚に焼きついている限り、自由になったとは言えない。


 湯殿を出た先の控え室には、磨かれた大きな鏡があった。


 怜司はそこで、初めて自分の姿をまともに見た。


 鏡の中にいたのは、見知らぬ少年だった。


 年は十四、十五ほど。痩せてはいるが、湯浴みで汚れが落ちたため、鉱山で見ていた自分の手足よりもずっと白く見える。髪は濡れると灰茶色に近く、乾けば少し淡い色になるらしい。目は黒ではない。薄い琥珀と灰を混ぜたような、奇妙な色だった。頬はこけているが、骨格は悪くない。長く栄養を与えれば、もう少し背も伸びるかもしれない。首筋には、黒い隷印が絡みつくように刻まれている。その紋様だけが、湯でも石鹸でも落ちなかった。


 怜司は鏡へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 これは自分なのか。


 佐久間怜司ではない。だが、セヴでもまだない。前世の三十五歳の記憶を持つ、異世界の少年の体。鏡に映る目だけが、自分の中身と少しだけ繋がっている気がした。


「兄ちゃん、これ兄ちゃん?」


 隣でトマが鏡を覗き込んだ。彼もまた、見違えていた。汚れが落ち、髪を整えられ、柔らかな服を着ると、ただの痩せた奴隷の少年ではなくなっている。大きな目と、まだ幼い頬。腕は細いが、鉱山で少しだけ肉がついた。首の隷印さえなければ、どこかの下級文官の子供だと言われても通るかもしれない。


「たぶん、僕です」


「たぶん?」


「鏡を見るのが久しぶりで」


「僕も。なんか変」


「変ですね」


 二人が鏡の前で固まっていると、控え室の扉が静かに開いた。


 オルシェナが入ってきた。


 湯気の残る部屋に、彼女は場違いなほど自然に立っていた。旅装ではなく、屋敷用の深藍の長衣へ着替えている。銀灰色の髪はゆるく編まれ、胸元にはザルムント家の紋章を象った小さな銀飾りが留められていた。彼女は怜司とトマを見て、満足そうに頷く。


「やはり、汚れを落とすと印象が変わるわね」


「オルシェナ様」


 怜司は慌てて頭を下げた。トマも真似する。オルシェナは二人へ歩み寄り、まず怜司の首元を見た。そこにある隷印を、淡い琥珀の目が静かに捉える。


「痛む?」


「今は痛みません。ただ、意識すると熱を感じます」


「当然ね。隷印は皮膚に刻まれた模様ではなく、所有権を魂に引っかける術式だから」


 オルシェナはそう言いながら、右手を怜司の首筋へかざした。触れてはいない。だが、手のひらから薄い銀色の光が滲んだ。魔銀のような、灯苔とは違う澄んだ光。怜司は反射的に身を固くした。隷印が熱を持つ。いや、熱ではない。内側から何かがほどけていく感覚だった。


「領主権限による赦免と、所有登録の抹消を行います。動かないで」


「え」


「動かないで」


「はい」


 怜司は即座に止まった。命令口調ではない。だが、逆らえない迫力があった。


 光が首筋に触れた瞬間、隷印が焼けた。


 怜司は歯を食いしばった。痛い。だが、命令違反の痛みとは違う。締めつけていた鎖を、皮膚の内側から一本ずつ引き抜かれるような痛みだった。黒い紋様が、熱を持って浮かび上がる。鏡の中で、首に絡んでいた線が銀色の光にほどかれ、灰になり、消えていく。


 数秒だったのか、もっと長かったのか分からない。


 やがて熱が引いた時、怜司の首には何も残っていなかった。


 赤みすら、ほとんどない。


 怜司は鏡を見た。首を触る。皮膚がある。黒い紋様がない。隷印がない。そこにあったはずの重さが、消えている。手足の鎖が外れた時よりも、さらに深い場所が軽くなっていた。


「あ……」


 声が出なかった。


 トマが怜司の首を見て、次に自分の首を押さえた。オルシェナは膝を少し折り、トマの目線に近づける。


「次はあなたよ。怖ければ、セヴの手を握っていなさい」


 トマは迷わず怜司の手を握った。小さな手は震えている。怜司も握り返した。


 オルシェナの手が、トマの首へかざされる。


 トマは痛みに顔を歪めたが、泣かなかった。怜司の手を強く握り、必死に耐えている。銀色の光が黒い紋様をほどき、焼き、消していく。やがてトマの首も、何もなかったように綺麗になった。


 トマは鏡を見た。


 それから、自分の首を何度も触った。


「ない」


 小さな声だった。


「兄ちゃん、ない」


「はい」


「本当に?」


「本当に、ありません」


 トマは一瞬、笑いそうになった。だが、その前に顔が歪み、目から涙がこぼれた。怜司は何も言わず、彼の肩を抱いた。トマは声を殺して泣いた。鉱山で泣くことを我慢してきた少年が、柔らかな服を着て、温かい部屋で、首に何もない状態で泣いている。


 オルシェナはその様子を静かに見ていた。


 彼女の顔には、過剰な同情はなかった。だが、冷たさもない。ただ、当然すべき処理を終え、その結果として子供が泣いていることを受け止めているような表情だった。


 しばらく、誰も言葉を出さなかった。トマの嗚咽と、湯殿から流れてくる湯気の音だけが、控え室に満ちていた。

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