第13話 慣れた地獄を出る朝
グレンツ鉱山を出る朝、怜司は自分が思っていたよりも鉱山に慣れてしまっていたことを知った。
地下の湿った空気。灯苔の青白い光。黒鉄石の粉が混じった喉のざらつき。鎖の擦れる音。怒鳴り声。水桶の周りに敷いた石の並び。第三区の段差に置いた踏み台。支柱につけた危険度の印。黒麦と豆と塩肉の端が煮える、あまり上等とは言えないが確かに食べ物らしくなった匂い。
すべてが、最初は地獄の構成要素だった。
だが、数週間かけてそこへ手を入れ、少しずつ人が死ぬ速度を落としていくうちに、それらは怜司にとって単なる恐怖の象徴ではなくなっていた。どこを踏めば滑りにくいか、どの時間帯に水桶が混むか、ルカンが不機嫌な時は本当に不機嫌なのか空腹なだけなのか、マイラが黙っている時は怒っているのか考えているだけなのか、トマが石板を抱えて走ってくる時はだいたい何かが詰まっている。そういう細かな感覚が、いつの間にか体に染みついていた。
慣れた地獄から出るのは、思いのほか不安だった。
自由へ向かうというより、別の種類の不明な現場へ異動する感覚に近い。しかも辞令は領主直々、拒否権なし、引き継ぎ期間三日。前世の怜司なら、その時点で胃薬を探していた。今は胃薬どころか、携帯電話もコンビニもない。あるのは首から消えない隷印と、横で不安そうに石板を抱えているトマだけだった。
出発の直前、ルカンは腕を組み、いつものように面倒くさそうな顔で立っていた。だが、その目は少し赤い。本人は絶対に認めないだろう。
「領都で偉くなっても、変な飯を忘れるなよ」
「社畜飯は偉くなったら食べなくていい料理です」
「じゃあ忘れていいのか」
「いえ、非常時には役立ちます」
「結局忘れられねえんじゃねえか」
ルカンは鼻で笑い、怜司の肩を軽く叩いた。軽くだった。最初に会った頃なら、その一撃だけでよろめいたかもしれないが、今の怜司は少し踏ん張れるようになっていた。体はまだ痩せているし、鉱山労働者としては非力だが、それでも最初の頃よりは肉がつき、肩の骨の出方もましになっている。人間は豆と根菜でも多少は育つらしい。
マイラは古い布に包んだ小さな石を怜司へ差し出した。
白っぽい石だった。待機場所の印に使っていたものと同じ種類だ。怜司が受け取ると、マイラは片目を細めた。
「迷ったら、置きな。目印は、どこでも役に立つ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。あんたは考えすぎるからね。頭の中だけで道を作ると、人はついてこられない。石でも線でも、外に出しな」
怜司はその言葉を胸に刻んだ。
マイラは鉱山の知恵袋だった。文字はあまり読めない。帳簿も扱わない。だが、彼女は人間がどこで転ぶか、どこで腹を立てるか、どこで諦めるかをよく知っている。怜司が領都へ行くなら、きっとこういう知恵が必要になる。
グラムは少し離れた場所で、棍棒を肩に担いでいた。相変わらず目つきは悪い。けれど、昔のように敵意だけをぶつけてくる顔ではなかった。
「向こうでも余計なこと言って殴られんなよ」
「善処します」
「その言い方、殴りたくなるな」
「出発前に殴られると、旅程に支障が出ます」
「本当に腹立つな、お前」
そう言いながらも、グラムは棍棒を振らなかった。代わりに、顎で第三区の方を示す。
「こっちは回す。お前がいなくてもな」
怜司は少しだけ驚いた。グラムの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。数週間前、選別場の裏で棍棒を押しつけてきた男と同じ人物とは思えない。もちろん、彼が急に善人になったわけではない。怒鳴るし、怖いし、立場が変わればまた殴るかもしれない。それでも、彼は「誰が怠けたか」ではなく「どこで止まったか」を見るようになった。
それは、確かな変化だった。
「お願いします」
怜司が頭を下げると、グラムは嫌そうに目を逸らした。
「奴隷に頭下げんな。気持ち悪い」
「僕も奴隷です」
「それも、もう終わるかもしれねえだろ」
グラムの言葉に、怜司は返事ができなかった。
バラドは最後まで事務的だった。怜司とトマの手足の枷を確認し、旅用の短い鎖に繋ぎ替え、同行する兵へ引き渡す。だが、その動作は以前より乱暴ではない。商品を扱うというより、ひどく扱えば後で面倒になる荷物を扱うような丁寧さだった。誉めていいのか分からない変化である。
「セヴ」
「はい」
「領都は鉱山より綺麗だが、優しいとは限らん」
「承知しています」
「承知している奴は、だいたい承知していない」
「前の職場でもよくありました」
「また前の職場か」
バラドは呆れたように息を吐いたが、少しだけ口元を緩めた。
「オルシェナ様は、気に入ったものほど遠慮なく使う。壊れる前に言え」
「言えば止まりますか」
「止まらんかもしれん。だが、黙って壊れるよりはましだ」
怜司はその言葉を、意外なほど重く受け取った。
前世でそれを言ってくれる上司はいなかった。壊れる前に言え。たったそれだけの言葉が、どうしてこれほど胸に引っかかるのか。怜司は苦笑しそうになった。鉱山の下働き頭に、労務管理の基本を教えられている。人生、いや死後の人生は本当に分からない。
「分かりました。壊れる前に報告します」
「報告はいらん。逃げろ」
「隷印が」
「比喩だ」
「比喩でしたか」
バラドは今度こそ小さく笑った。
トマは出発前、社畜飯の鍋を名残惜しそうに見ていた。彼にとって、鉱山は苦痛の場所であると同時に、初めて「兄ちゃん」と呼べる相手に出会った場所でもある。領都へ行けることを喜んでいないわけではない。だが、慣れた地獄を離れる不安は、彼にもあった。
怜司はトマの肩に手を置いた。
「大丈夫です。領都にも食事はあります」
「兄ちゃんが作る?」
「たぶん作らなくていいと思います」
「じゃあ、まずかったらどうするの?」
「その時は、改善提案をします」
「ご飯にも?」
「ご飯にも」
トマは少し安心したように頷いた。安心の基準が間違っている気もしたが、怜司は深く考えないことにした。
領都リュゼンテールまでは、馬車で四日かかった。
鉱山を出ると、道はしばらく荒れた山道を進んだ。黒鉄石を運ぶために整備されているとはいえ、現代日本の舗装道路とは比べものにならない。車輪は石に跳ね、荷台は揺れ、手足の鎖が鳴る。怜司は最初の半日で、馬車とは優雅な移動手段ではなく、横揺れする木箱だと理解した。前世の満員電車も地獄だったが、少なくとも床は平らだった。手すりもあった。冷房が壊れていなければ空調もあった。
トマは最初、流れる景色に目を輝かせていた。山の斜面、針葉樹の森、遠くに見える白い鳥、谷を渡る石橋。鉱山に来る前の記憶が曖昧な彼にとって、外の世界はほとんど初めて見るものばかりだった。だが、二日目には揺れに負け、荷台の隅で青い顔をしていた。怜司は水を少しずつ飲ませ、横になれるよう布を畳んで頭の下へ置いた。
「兄ちゃん、馬車ってもっと楽しいものだと思ってた」
「僕もです」
「お尻が痛い」
「交通インフラの改善が必要ですね」
「こうつう?」
「道と乗り物です」
「兄ちゃん、どこでも改善するね」
「揺れで内臓が改善を求めています」
同行の兵が聞こえないふりをして笑いを噛み殺していた。
旅の途中、怜司は領地の広さを初めて実感した。ザルムント伯領は鉱山だけではない。山の麓には木材を切り出す村があり、川沿いには水車小屋が並び、街道沿いには宿場と小さな市場があった。畑は広いが、土は場所によって痩せている。山からの冷たい風が強く、作物は黒麦や根菜が中心らしい。街道を行き交う荷馬車の多くは、鉱石、木材、塩漬け肉、黒麦袋を積んでいた。
怜司は荷台の上で、つい流れを見てしまう。
どこから何が来て、どこへ何が行くのか。木材は鉱山へ。鉱石は領都へ。食料は村から宿場を経て鉱山へ。塩は南から来るらしい。馬は疲れる。橋が狭い場所では荷馬車が詰まる。雨が降ればぬかるむ。これらがすべて、鉱山の収穫量に繋がっている。領地とは、巨大な現場なのだと怜司は思った。
そして、巨大な現場ほど、詰まりは見えにくい。
四日目の昼過ぎ、荷台の揺れがわずかに変わった。山道が終わり、道が広くなる。怜司は布の向こうへ目をやった。遠くの稜線の手前に、灰青色の輪郭が見え始めていた。領都リュゼンテールは、もうすぐそこにある。




