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第12話 同行の条件と、三日間の引き継ぎ地獄

 ザルムント伯オルシェナが放った「領都へ連れて行く」という宣告に、部屋の空気が凍りついた。


 バラドの表情は動かなかった。だが、目だけがわずかに細くなった。


「閣下。こいつが抜けると、鉱山の現場が揺れます」


「揺れぬように引き継がせなさい。あなたが言ったのでしょう。便利すぎると危険だと」


「……はい」


 ガルヴァンは口を開きかけたが、オルシェナの視線を受けて黙った。鉱山主は露骨に不満そうだった。そりゃそうだ、と怜司は思った。自分がどれほど価値ある存在かはさておき、数字を上げた奴隷を急に持っていかれるのは、現場としては困るだろう。前世でも、業務を分かっている人間が突然異動すると地獄になる。


 問題は、その異動対象が自分であることだった。


「お待ちください」


 怜司は思わず口を開いていた。


 部屋中の視線が集まる。隷印がじわりと熱を持つ。領主の決定に逆らう。危険だ。分かっている。だが、黙ってはいられなかった。


「僕は、鉱山に残った方が収穫量の維持には良いと思います」


  オルシェナは怜司を見た。


「断るつもり?」


「提案です」


「言葉を変えただけね」


「はい」


 正直に認めると、オルシェナは少しだけ楽しそうに目を細めた。


「セヴ。あなたに拒否権はないわ」


  静かな声だった。


 冷酷というより、制度そのものの声だった。怜司は首の隷印を意識した。そうだ。自分は奴隷だ。ここ数週間、周囲がセヴと呼び、トマが兄ちゃんと呼び、バラドやガルヴァンやグラムの態度が軟化したことで、どこか錯覚していた。自分に発言権があると。交渉の余地があると。もちろん、多少はある。だが、根本にはない。所有物の移動に、所有物の同意は必要ない。


 胃の奥が冷えた。


 それでも、怜司は頭を下げなかった。下げれば、そのまま何も言えなくなる気がした。


「では、条件を確認させてください」


「条件?」


「はい。拒否権がないことは理解しました。ですが、僕を連れて行く目的が領都の業務改善なら、最低限、引き継ぎと補助者が必要です」


「補助者ね」


 オルシェナは怜司の顔をじっと見た。


「誰を望むの?」


 怜司は迷わなかった。


「トマを連れて行きたいです」


 バラドが怜司を見た。ガルヴァンの眉が動く。鉱山主は露骨に怪訝な顔をした。


「小柄な少年奴隷です。今は水桶や寝床の溝、落下物の記録を見ています。文字は読めませんが、僕の印の意味を覚えています。僕の説明を一番早く理解します」


「弟分だから連れて行きたい、ではなくて?」


 オルシェナの問いは鋭かった。


 怜司は息を詰めた。ここで情を隠して実務だけを語ることはできる。だが、この相手には半端な嘘は通じない気がした。


「それもあります」


 部屋が静かになる。


「僕はトマに兄ちゃんと呼ばれています。ですから、置いていくのは嫌です。ただ、それだけなら閣下は許可しないでしょう。だから実務上の理由も言いました。どちらも本当です」


 オルシェナはしばらく怜司を見ていた。


 怜司はその視線を受け止めた。怖くないわけではない。むしろ怖い。首の隷印は熱を持ち、手のひらには汗が滲んでいる。だが、一度死んだ身だと開き直った時から、彼は少しずつ変わっていた。前世のように、自分の希望をすべて飲み込んで黙ることだけは、もうしたくなかった。


 沈黙の後、オルシェナは言った。


「許可しましょう」


 怜司は思わず息を吐いた。


「ありがとうございます」


「勘違いしないで。情に動かされたわけではないわ。あなたの頭の中にしかない手順を、多少なりとも理解する者がいるなら連れて行く価値はある。それに、あなたが領都で使えるかどうかを見るには、あなたが何を守ろうとするかも見ておく必要があるもの」


「観察対象ですか」


「そうよ」


「できれば人間扱いを希望します」


「奴隷にしては要求が多いのね」


「社畜時代の反省です」


「また知らない言葉だわ」


 オルシェナは立ち上がった。椅子の脚が床を軽く擦る。部屋にいる者たちが一斉に姿勢を正した。彼女は怜司の前まで歩いてきた。近くで見ると、彼女は怜司より頭一つ近く高かった。細身だが、弱々しさはない。指先には剣だこではなく、ペンと手綱に慣れた硬さがあった。


「セヴ。あなたは鉱山を改善した。けれど、領地は鉱山より広いわ。村もある。倉庫もある。街道もある。兵糧もある。税もある。飢える者も、余らせて腐らせる者もいる」


 オルシェナの声は、先ほどまでの試すような響きとは少し違っていた。


「あなたが本当に数字で人の死ぬ速度を落とせるのなら、鉱山の底に置いておくには惜しいわ」


 怜司は言葉を失った。


 評価されている。

 それは分かった。


 だが、その評価は自由を意味しない。より大きな現場へ移されるだけだ。鉱山から領都へ。黒鉄石から領地経営へ。荷籠から帳簿へ。規模が変わる。関わる人間も増える。失敗すれば、自分だけでなくトマも巻き込む。


 前世で何度も味わった、昇進ではない仕事増加の気配がした。


 しかも今回は、断れない。


「閣下」


 怜司は慎重に口を開いた。


「念のため確認しますが、領都での労働時間は」


「奴隷が労働時間を聞くの?」


「健康維持のための確認です」


「あなた次第ね」


「一番怖い回答です」


 オルシェナは微かに笑った。


「安心なさい。過労で死なれては困るわ」


 怜司は思わず真顔になった。


「その言葉は、前の世界で聞きたかったです」


「前の世界の主は、よほど無能だったのね」


「否定はしません」


 バラドが小さく息を吐いた。ガルヴァンは何か言いたげだったが、結局黙って帳簿を閉じた。鉱山主は不満を隠せない顔で、それでも領主に逆らうことはできず、口を噤んでいる。


 怜司はその場で、鉱山に残すべきことを頭の中で並べ始めた。第一区の布管理、第二区の待機場所、第三区の寝床溝、支柱印、豆の浸し桶、社畜飯の手順、塩水の薄め方、魔銀混じりの仕分け、空籠線、落下物記録。引き継ぎ項目が多すぎる。前世で退職前の引き継ぎ資料を作る時の吐き気が蘇った。


 いや、今回は退職ではない。


 異動である。


 奴隷に異動辞令が出るとは思わなかった。人生は本当に分からない。死後の人生について言うのも、やはり変だが。


 部屋を出る時、バラドが低い声で言った。


「セヴ。三日で引き継げ」


「三日ですか」


「長くは待てん」


「前の世界でも、引き継ぎ期間はいつも短かったです」


「なら慣れてるな」


「慣れたくはありませんでした」


 バラドは少しだけ笑った。粗い、短い笑いだった。ガルヴァンは怜司の横を通り過ぎる時、木板を押し付けるように渡した。


「お前の印と手順を、分かる限り私が書く。間違いがあれば言え。文字は読めずとも、形くらいは見ろ」


「ありがとうございます」


「礼ではない。お前が消えた後に帳簿が乱れると私が困る」


「理由は何でも助かります」


「本当に腹立たしい奴隷だな、お前は」


 ガルヴァンの声には、以前ほどの毒はなかった。


 地上から地下へ戻る階段を下りながら、怜司はトマにどう伝えるか考えていた。兄ちゃんと呼んでくれる少年を、領都へ連れて行く。救いなのか、巻き込みなのか分からない。鉱山に残るよりましかもしれない。だが、領都が安全とは限らない。貴族の側に近づくほど、別の危険もある。


  地下の空気が近づく。


 湿気、鉄錆、黒麦粥の匂い、灯苔の青白い光。数週間前は地獄そのものだった場所が、今では妙に見慣れている。怜司はそのことに驚いた。人間はどんな場所にも慣れる。だからこそ怖い。慣れた地獄から出ることにさえ、不安を覚える。


 選別場へ戻ると、トマが真っ先に駆け寄ってきた。


「兄ちゃん、何だったの?バラドさんに呼ばれて、みんな心配してた」


 怜司は少年の顔を見た。汚れた頬。少し肉のついた顔。以前より明るくなった目。手には小さな石板があり、落下物の記録らしき線が刻まれている。


 怜司は膝を折り、トマと目線を合わせた。


「トマ。領都へ行くことになりました」


 少年の顔から血の気が引く。


「兄ちゃんが?」


「はい」


「戻ってくる?」


 答えられなかった。


 怜司が黙ると、トマは石板を握りしめた。唇が震える。だが、泣かなかった。泣く代わりに、必死に顔を上げている。鉱山で生きる子供は、泣くことにも警戒が必要なのだ。


 怜司は言った。


「トマも一緒に来てほしいと頼みました。許可されました」


 トマの目が大きく開いた。


「僕も?」


「はい。ただ、領都が安全かは分かりません。鉱山とは違う危険もあります。だから、無理に喜べとは言えません」


 トマはしばらく怜司を見つめた。やがて、石板を胸に抱き、小さく頷く。


「行く。兄ちゃんが行くなら、僕も行く」


「即答でいいんですか?」


「だって、兄ちゃんは一人だと飯を食べるの忘れそうだし」


 怜司は言葉に詰まった。


 ルカンが後ろで吹き出し、マイラが「その通りだね」と頷く。グラムは少し離れた場所で腕を組み、気に入らなそうな顔をしながらも何も言わなかった。バラドは選別場の入口で二人を見ていたが、やがて低く言った。


「三日だ。三日で鉱山を置いていけるようにしろ」


 怜司は立ち上がった。


 頭の中には、引き継ぎ項目が山のように積み上がっている。寝床、食事、支柱、荷運び、記録、教育。鉱山から出る前にやることは多い。多すぎる。前世なら、この時点で残業確定だった。


 だが、今度は少し違う。


 ルカンがいる。マイラがいる。トマがいる。ガルヴァンが記録する。グラムが詰まりを見る。バラドが命令として落とす。鉱山は、もう怜司一人の頭の中だけでは回っていない。


 それが数週間の成果だった。


 怜司は深く息を吸った。湿った地下の空気が肺に入る。ひどい匂いだ。だが、初日ほど絶望的ではない。黒麦と豆と塩肉の匂いが、かすかに混じっている。


「分かりました」


  怜司は言った。


「では、引き継ぎを始めます」


  ルカンが嫌そうな顔をした。


「その言い方、何かすげえ面倒なことが始まりそうだな」


「はい。とても面倒です」


「否定しろよ」


「嘘はよくありません」


 トマが笑い、マイラも小さく息を漏らした。バラドは呆れたように首を振り、グラムは「さっさとしろ」と言いながらも、以前のように棍棒を鳴らすことはしなかった。


 怜司は石板を手に取り、地面に印を描き始めた。


 鉱山を去るための仕事。

 鉱山を壊さないための仕事。

 そして、領都というさらに大きな現場へ向かうための仕事。


 死んだ後も仕事に追われるとは思わなかった。


 だが、今度は少なくとも、自分が何のために働くのかを少しだけ知っている。


 怜司――セヴは、灯苔の青白い光の下で、三日分の引き継ぎという名の地獄に取りかかった。


 前世の彼なら、そこでこう思っただろう。


 ああ、また残業だ。


 だが今の彼は、トマが隣で石板を構え、ルカンが面倒くさそうに腕を組み、マイラが片目で全体を見渡しているのを見て、少しだけ笑った。


 残業ではない。


 これは、明日この鉱山に残る者たちが、少しでもましに朝を迎えるための作業だった。

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