XX. 気づかなかった
すみません、たいへん遅くなりました。
西の空が赤くなり始めると、メルケルはガユーへ戻っていった。予定通りなら、次に会うのは三日後だ。
二頭の狼が牽くソリが見えなくなるまで見送ったブレイズたちは、獣の忌避剤を小屋の周囲に撒いてから中へ戻った。
「あとはご飯食べて寝るだけかあ」
床に敷かれた毛皮の上に、ウィットがころんと寝転がる。
近くに座ったラディの膝に頭を乗せて目を閉じたので、「寝るなよ」と言葉を投げておいた。半端な時間に寝て、夜に眠れなくなるのはまずい。
「夜といえば、見張りはどうする?」
ラディが立ったままのブレイズを見上げて訊いてくる。
メルケルは、夜間の襲撃について「あまり心配いらない」と言っていたが……。
「メルケルさんを疑うわけじゃねえけど、一回だけやっとくか」
「今夜と明日の夜、二人ずつ?」
「そんなとこだろうな。……で、問題なさそうならそれで終わりにする」
もちろん、不安があるようならそのまま夜ごとに交代で見張りを続ければいい。
おそらくは、メルケルの言う通り大丈夫なのだろうが……彼の場合は狼を連れているから、雪原の獣のほうが避けているという可能性もあるし。
「いいんじゃないか。慎重になるに越したことはない」
「夜の雰囲気も見てみたいしね」
ロアとウィットも異論ないらしい。
それならさっさと当番を決めてしまおう。そろそろ食事にしたいが、今夜の見張りなら眠くなるほど食うわけにはいかない。
「悪いけど、私は明日に回してもらえると助かる」
「分かってる。今日はちゃんと休んどけ」
「なら俺が今夜だな。まともに魔術が使えるやつがいたほうがいいだろ」
「僕はどっちでもいいよー」
「お前も明日だ。寝っ転がってるってことは疲れてんだろ」
というわけで、今夜の見張りはブレイズとロアだ。
あっさり決まったので、夜の支度を始めることにした。
鍋に水を張り、干し肉と干し野菜、味付けに塩、肉の臭み消しに香草と、酒を少し入れて暖炉で煮込む。
メルケルが三日分のパンも運んできてくれたので、パンとスープ、最低限の食事はとれるだろう。
自分たちでもジャムやら焼き菓子やらを買ってあるので、メニューに飽きたらそっちでごまかせばいい。
……まあ、今回は下見だけで切り上げる予定なので、飽きて耐えられなくなるほど雪原に長居するわけではないのだが。
スープを煮込む時間で寝床の準備や薪の補充を済ませ、食事を腹に入れてしまえば、あとはもう夜を過ごすだけだ。
移動で体力を消耗したラディとウィットは毛皮の上でマントに包まって休み、ブレイズとロアは朝が来るまで見張りをすることになる。
天井から吊るしていたランタンを下ろしながら、ロアが難しい顔をした。
「窓がないのは不便だな」
「外で見張るには寒すぎるしなあ」
あくまで調査の足がかりとして建てられた小屋なためか、あまり考えて作られたわけではないようだ。
とにかく最低限、雪と風をしのげて凍えずに眠れればいい、と言わんばかりだ。
もしかしたら、今回のブレイズたちの調査で何か有益なものが見つかれば、改めてきちんとした拠点を作るつもりなのかもしれない。
その場合、こちらの小屋は納屋にでもなるのだろう。
「たまに外に出て様子を見るしかねえか」
寒さや物音でラディとウィットを起こしてしまいそうだが、他に外の様子を窺う手段が思いつかない。
どのみち、小屋の中からでは外が明るくなっても分からないのだ。定期的……と言えるほど時間を正確に把握する手段はないが、ちょいちょい外を見ることは必要だろう。
ロアは暖炉のそばに座り込んで、火が燃えるのをじっと見つめている。
その火に薪を少し足してから、ブレイズもまた、彼の近くに腰を下ろした。
◇
ひやりとした冷気に、ブレイズは小屋の扉を振り返った。
手持ち無沙汰なので、光源が暖炉とランタンだけでもできる程度に剣の手入れをして、ちょうど終えたところ。
途中、火を眺めるのに飽きたらしいロアが一度外を見に行って、それが戻ってきたようだった。
「なんかあったか?」
「遠くに狼らしい影は見たが、近寄ってくる様子はなかったな」
「忌避剤のお陰か? 鼻が利くだろうし」
「だと思うが」
そう言うロアを小屋に残して、ブレイズも外に出てみた。
日が落ちた雪原は代わりに月が出ていて、夜だというのに雪の白さが分かるほどに明るい。小屋の中よりも明るいんじゃないか、とうっすら思う。
その白い雪原に、黒く小さな影がちらちらと動いていた。
あれがロアの言っていた狼だろうか。妙に小さい気がするが、食料の少ない寒冷地なら、あまり大きく育たなくても不思議ではないだろう。
こちらを窺っている気配はあるが、確かに、近づいてくるようには見えない。
ふぅむ、と息を吐く。
目の前がふわりと白くなって、すぐに元の景色に戻った。
ガユー周辺で夜行性の獣といえば狼くらいだと聞いているので、この様子なら、本当に夜の見張りは必要ないのかもしれない。
見張りをなくすと決めるかどうかは、明日の夜、ラディとウィットにも見せてからになるが。少なくとも、彼女たち二人で夜を過ごさせても危険はないだろう。
そこまで考えて、小屋の中に戻った。
「どうだった?」
「お前の言う通りだな。あの様子なら襲ってくる心配はねえだろ」
答えた直後に、ふわあとあくびが出た。
寒い外からいきなり暖かい屋内に入ったせいか、肩の力が抜けて眠気が出てきたようだ。
寝てしまうわけにはいかないので、出発前にガユーの市場で買った干し肉を取り出し、ナイフで削って口に放り込む。噛み応えがあるので、少しは眠気覚ましになるだろう。
「それ、ガユーで買ったやつか?」
「ああ。いるか?」
「いや、俺も自分で買ってあるから大丈夫なんだが……」
口の中の干し肉をもちゃもちゃ噛みながら、何か言いたげなロアの目を見返す。
干し肉は塩がきついが、軽く燻してあるようで臭みもなく、なかなか美味いと思えた。
ロアは少し迷うような素振りを見せたのち、仕方なさそうな表情で言った。
「……魔物肉じゃないやつか?」
「………………っ」
ブレイズは固まった。咀嚼する顎の動きも止まった。
いま食っている干し肉が魔物肉でないかどうか、分からなかった。分からないまま食ったということに、言われて気がついた。
「確認しなかったのか」
「……忘れてた」
小屋の中に沈黙が落ちる。
聞こえるのがラディたちの寝息と、暖炉の火が爆ぜる音だけになって、数秒。
「…………っくく」
ロアが耐えきれないといったふうに、口元を手で押さえて笑いを漏らした。
目だけをこちらに向けて、手のひらで覆ったままの口で言う。
「具合は悪くなったか?」
「……いまんとこは、何もねえな」
「そりゃ何よりだ」
寝ている二人を起こさないようにだろう、口元を押さえたまま肩を震わせるロア。
この男がこんなに楽しそうに笑うのを初めて見たかもしれない、と思いながら、ブレイズは口の中の干し肉を飲み下した。
なお、この時点でブレイズが気づかなかったことは、実はもうひとつある。
彼は温暖な地域で育ったため知らなかったが、寒冷地に生息する獣は、彼の想像に反して大型化する傾向がある。
つまり彼が目にした『妙に小さい気がする』『黒く小さな影』は、雪原に生きる獣としては本当に小さいのだということ。
あの影の正体が、四つ脚の獣でなく――八本足の人工物だったと知るのは、もう少し先の話である。
新年度、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
わたしは4月がウルトラ繁忙期なのでどったんばったんしています。
ちょっと別件の原稿作業やら業務上の資格取得やら更新やらが詰まっているため、上半期の更新ペースは変わらず不安定となる見通しです。
なるべく月に一度は更新できたらなあと思っています……。




