XX. 蜘蛛の糸
小屋の扉を少し開け、空が明るくなったのを確かめる。
朝だ。
結果として、獣の類が小屋を襲うことは一度もなかった。
次の夜も同じであれば、夜の見張りはいらないだろう。
ラディとウィットを起こして朝食をとり、ブレイズとロアは仮眠もとった。
起こされた頃には日が十分に出ていたので、そのまま四人で外へ出る。
屋外での行動に問題がなければ、明日の昼は雪原の奥にある小屋へ行ってみる予定だ。
自分たちの目的である『鋼の蜘蛛』が見つかったのは、奥の小屋から東へ少し進んだあたり。
腰を据えて調査するとなれば、本格的に拠点にするのは奥の小屋のほうになるだろう。
「さっっむ……いけど、風がなくてよかったね」
冷えた空気に身を躍らせたウィットが、口から白い息を吐きつつ言った。
彼女の言葉通り、今日は昨日ほど風が強くない。小屋から南のほうを見れば、平地と雪原を隔てる山脈がはっきりと見えた。さすがにガユーの街までは見えないが、どれかの山のふもとにあるのだろう。
「次に行く小屋ってあっちの方だよな」
元気そうなウィットを視界から外して、ブレイズは北の方角を見る。
南側と違って平らな雪原が続いているのか、北側には視界を遮るものがほとんどなかった。
本日は快晴。雪原の白と空の青が、地平線で上下に二分されている。……地平線の近くの空は、うっすらと白く染まっているようにも見えた。
「奥の小屋は……ここからは見えねえか」
「上空から見てくるか。方向と距離くらいは確認できるだろ」
そう言って宙に浮いたのはロアだ。
風の精霊に力を借りているからか、彼の足元で雪がふわりと巻き上げられる。
申し出に「頼む」とブレイズが頷くと、ロアは雪を風で散らしながら北へ飛んでいった。
巻き上げられた雪が落ち着いたあたりで、ラディがブレイズのそばに寄ってきた。
雪の眩しさに眉を寄せながら、隣に立って同じように北の方角を見る。
「……見晴らしが良すぎて、逆に落ち着かないな」
「分かる」
ブレイズは同意した。
普段は屋内の警備をしているというのもあるが、ファーネの街は防壁に囲まれているので、ここまで視界が開けている場所はない。
北門から街の外に出れば平原があるが、温暖なのでぱらぱらと草やら木やらが生えていて、地平線を意識することはなかった。
王都経由でここまで来る道中だって、なんだかんだ周囲には山なり建造物なりがあったのだ。
視線を遮るものが一切ない光景というのは、どこか心細い気分になる。
実際のところ、目印にできそうなものが小屋くらいしかないのは心もとない。
小屋を見失ったら、自分の位置も見失ってしまうのだ。
ファーネの近くにある『魔境の森』とは違う。
何もない雪原では、遭難したら食べ物も燃料も得られない。何の備えもなしに眠れば、まず間違いなく凍死する。
大雪原にぽつんと建てられた小さな小屋は、外での活動においても生命線なのだ――。
状況の危うさに薄ら寒いものを感じていると、ふと、視界の端を白と青以外の何かがかすめた。
ここからでは爪の先ほどの小石にしか見えない、灰色の影。
(気のせいか……?)
もしくは雪の陰を見間違えたか。そう思ったが、まばたきして見直しても、それは同じ場所にあるように見える。
じっと見ていると、わずかに動いていることに気づく。犬や狼にしては小さい。小動物か?
「ブレイズ?」
ふと、傍らのラディに呼ばれてそちらを見下ろす。
不思議そうな顔をしているので、見つけたものを指差しながら視線を戻した。
少し目を離している間に、姿が大きくなっている、ような。
……近づいてきている?
しばらく見ていると、やがてその影の輪郭が見えてきた。
「……蜘蛛だな」
「蜘蛛? 『鋼の蜘蛛』か?」
「たぶんな」
周囲に対比できるものがないのでサイズがいまいち測りにくいが、たぶん、以前デズモンドに見せてもらった個体と同じくらいだろう。
色合いも……やはり周囲が白一色だと受ける印象が多少異なるが、件の『蜘蛛』と同じ灰色をしている、と表現してよさそうだ。
「ウィット」
「んー?」
視線を蜘蛛へ向けたままウィットを呼び、耳だけで返事を受け取る。
「静かに戻ってこい。ゆっくりでいい」
「……どうしたの?」
「ほら……あれ」
視界の端に、『蜘蛛』を指差すラディの手が映り込んだ。
それで察したのだろう、ウィットの声は聞こえなくなり、気配だけが静かにこちらへ近づいてくる。
そんなやり取りの間にも、『蜘蛛』はじわじわと距離を詰めてきていた。
頭の部分に密集した複眼が、体の両脇で蠢く足が、ブレイズから目視できるほどになって――そこで、動きを止める。
何かを語りかけるには遠く、無視するには近すぎる。そんな中途半端な位置で、立ち止まったのだ。
(なんだ……?)
足一本動かすことなく、こちらを向いたまま、じっとしている。
まるで、こちらの出方を窺っているような。
観察? 凝視? それとも、何かを見定めている……?
じり、と。
ふと、『蜘蛛』の足がわずかに動いた、ように見えた。
その瞬間、ブレイズはラディを突き飛ばして抜剣した。
「――ッ!」
ブレイズが剣を構えた時、すでに『蜘蛛』はこちらへ飛びかかって宙を舞っていた。
無機質な複眼と視線がかち合った、と思ったと同時、すぐ下にある口らしき部位から白いものを吐き出してくる。
それは白い、蜘蛛の巣を思わせる網だった。
見上げるブレイズの目の前で大きく広がり、こちらを包み込もうと落ちてくる。
斬り捨てようと、ブレイズは剣を鋭く振るったが。
「なっ……!」
細い紐のようなネットは斬れず、ただ剣身に絡みつくのみだった。
そのままブレイズは白いネットに呑み込まれ、背後でカチリと何かが合わさるような音を聞く。
「ブレイズ!」
突き飛ばされたラディが、雪に転がっていた身を起こす。
その後ろに、ウィットがこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「――伏せろ!」
頭上からの声に従い身を低くする。
ヒュオ、と耳元で風が唸った直後、暴風がブレイズの髪をめちゃくちゃにした。
ロアの風の刃だ。打ち下ろされた先は、目の前の『蜘蛛』。
しかし、巻き上げられた雪が収まり、再び見えた『蜘蛛』には傷ひとつない。へこみの一つもない。
その複眼が、ぎょろりとロアのほうを見上げ――ぞわり、背筋を寒気が駆け上った。
「ロ――」
「ロア! 避けて!!」
ブレイズの声をかき消す勢いでウィットが叫び、上空のロアが素早く回避行動をとった。
それとほぼ同時、『蜘蛛』から一条の赤い光が伸びて、位置をずらしたロアの上腕をかすめる。
「……ッ!!」
ロアの顔がぐしゃりと歪んだ。
ぱたたっ、と何かが近くの地面に落ちてきて、反射的に目で追ったブレイズは息を呑む。
白い雪に、鮮やかな赤。血だ。
「この……っ!」
体勢を立て直したラディが『蜘蛛』を睨みつける。
周囲の雪を使って『蜘蛛』に分厚い氷の刃を叩きつけ、そのまま四方に氷の壁を作って閉じ込めた。
仕上げにがら空きの真上から大きな氷柱を落として、ようやく『蜘蛛』は動きを止めた。
「……殺せた、のか?」
「分からない。押し潰せはしたと思うけど」
ブレイズに答えながら、ラディは彼に絡みつくネットに手をかけた。外してくれるようだ。
ロアは、と彼の姿を探すと、負傷した腕を押さえながら地面に降りてくるところだった。そちらにはウィットが駆け寄っている。
……ひとまず、状況は落ち着いただろうか。
ほ、と安堵の息を吐きかけて。
氷壁の向こう側にいる『蜘蛛』の眼が、赤く光っているのに気がついた。
「くそっ!」
ネット越しに手を伸ばし、ラディの肩を引き寄せる。
赤い光が氷壁を貫き、ブレイズたちから少し離れたあたりの地面にぶつかった。
光の当たった地点から雪が消え、荒れた地表が露出する――雪を蒸発させた? 一瞬で?
戦慄している間に、『蜘蛛』は赤い光を器用に操って、ラディの作った氷の檻をバラバラに切り刻んでしまった。
軋むような金属音をさせながら、よろよろと歩み出てくる。
さすがに大きな氷柱という重量物で潰されて無傷というわけにはいかなかったのか、足の動きがぎこちなかった。
赤く色を変えたままの複眼が、ラディに向く。
先ほどの赤い光で攻撃されたら、と考えると同時、脳裏に浮かんだのはロアの負傷。
(あんなもん、ラディに当てられたら……!)
ぞっとして。
せめてこの体で防げやしないかと、うまく動かせない腕を彼女に伸ばして。
――横手から走ってきたウィットが『蜘蛛』を蹴飛ばしたのは、ブレイズが相棒を抱き寄せるのと、ほとんど同時だった。
「ウィット、バカ、近づくな!」
「いい加減に、しろっ!!」
ひっくり返された『蜘蛛』が、ぴょんと跳躍して体勢を整える。
そのわずかな時間で腰の剣を抜いたウィットは、そのまま水平に『蜘蛛』の赤い眼球をひとつ凪いだ。
妙に鋭い剣閃に彼女の顔を見れば、その両目は随分と久しぶりの緑色に変じている。
その緑色と真正面から対峙した『蜘蛛』が、不自然に動きを止めた。
生き残った眼球が、赤く明滅を繰り返す。それが、どこか葛藤しているようにブレイズには見えた。
しばらくの間、ウィットと『蜘蛛』は睨み合い――やがて、『蜘蛛』が動いた。
こちらから遠ざかるように、じりじりと後退していく。
赤く光る複眼は、不規則な明滅を繰り返している。
ある程度の距離まで離れると、こちらに背を向けてどこかへと去っていった。
「……追うか?」
「いや……」
腕の傷を自力で癒したロアが聞いてくるのに、ブレイズは首を横に振る。
たやすく切り刻まれた氷壁。
ごっそりと雪が消えた地面。
あんな『武器』を持つ生き物を、わざわざ追いかける気にはなれなかった。




