第8話 黒く塗られた隣の人
一年前の文化祭写真。
そこには、顔を黒く塗りつぶされた生徒の隣に、今より少し幼い相原真帆が写っていた。
退学した生徒と相原の関係が、少しずつ明らかになっていく。
退学したのは、誰のせい?
その一文は、画面の中で静かに光っていた。
添付された集合写真には、去年の文化祭の日付が入っている。
体育館の前。
赤い腕章をつけた実行委員たち。
笑っている生徒たち。
その中に、一人だけ顔を黒く塗りつぶされた生徒がいた。
そして、その隣に立っていたのは、相原真帆さんだった。
今より少し幼い。
髪も少し短い。
大きめのカーディガンの袖を、両手で握っている。
でも、間違いない。
相原さんだ。
「相原さん……」
一ノ瀬ひより先輩が、かすれた声でつぶやいた。
旧進路指導室の空気が、重く沈んだ。
青柳楓先輩は写真を見つめたまま、顔を強張らせている。
黒崎悠真先輩は黙っていた。
三枝莉子先輩は、何かを言いたそうに唇を開きかけて、結局何も言わなかった。
ぼくは画面をもう一度拡大した。
黒く塗られた顔。
その隣の相原さん。
さらにその横には、文化祭実行委員の赤い腕章をつけた生徒たちが並んでいる。
「でも、相原さんは今一年生ですよね」
三枝先輩が言った。
「一年前なら、まだ高校生じゃないはず」
その疑問は当然だった。
ぼくも一瞬、同じことを考えた。
けれど、星ヶ丘高校には少し特殊な事情がある。
「星ヶ丘は中高合同の文化祭です」
ぼくは言った。
「去年、相原さんは中等部三年だったんだと思います。内部進学組なら、文化祭補助として高校側の実行委員を手伝うことがあります」
青柳先輩が、小さくうなずいた。
「……そう。去年、真帆ちゃんは中等部の補助係だった」
ひより先輩が、青柳先輩を見た。
「楓、知ってたの?」
青柳先輩は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えは半分出ていた。
「知ってたのね」
ひより先輩の声は責めているようで、責めきれていなかった。
たぶん、もう誰かを一方的に責めることができなくなっているのだ。
秘密を抱えていたのは、一人ではないとわかってしまったから。
青柳先輩は、苦しそうに息を吐いた。
「真帆ちゃんは、あの子に懐いていた」
「あの子?」
「水瀬灯里」
その名前が、初めて部屋に落ちた。
水瀬灯里。
黒く塗られた顔の生徒。
一年前、公開告白を止めてほしいと相談した人。
冬に学校を辞めた人。
その名前を聞いた瞬間、ひより先輩の肩が小さく震えた。
「楓」
「ごめん。でも、もう名前を出さないと進まない」
青柳先輩の声も震えていた。
「灯里は、私のクラスメイトだった。文化祭実行委員で、真帆ちゃんの教育係みたいなこともしてた」
黒崎先輩が静かに続けた。
「真帆は中等部の補助として、灯里の班についていた。だから二人はよく一緒にいた」
「相原さんは、水瀬さんのことを知っていた」
ぼくが言うと、青柳先輩はうなずいた。
「知っていたどころじゃない。たぶん、憧れていた」
憧れていた。
その言葉は、相原さんの姿と少し重なった。
大きめのカーディガン。
袖を握る癖。
星形のチャーム。
どこか自信なさげで、それでも何かにしがみつくような目。
「星形のチャーム」
ぼくはつぶやいた。
ひより先輩がこちらを見る。
「書記くん?」
「相原さんのスマホについていた星形のチャームです。あれ、水瀬さんも持っていたんじゃないですか」
青柳先輩の表情が変わった。
「どうして」
「相談ノートに星の印がありました。青柳先輩の印だと聞きました。でも、写真には相原さんの星形チャームも出てきた。スピーカーにも星みたいな傷があった。星が何度も出てくる」
ぼくは写真を見る。
黒く塗られた水瀬灯里さんの顔。
その制服の胸元付近に、小さな銀色の何かが見える。
拡大すると、形までははっきりしない。
でも、たぶん。
星だ。
青柳先輩は、ゆっくり目を伏せた。
「灯里も、星のチャームをつけていた」
やっぱり。
「真帆ちゃんにあげたの。文化祭のあとに」
「どうしてですか」
「お守りだって言ってた。来年、高校に上がったら一緒に実行委員をやろうねって」
その約束は、果たされなかった。
水瀬灯里さんは、冬に学校を辞めた。
相原さんだけが、星形のチャームを持って高校へ上がった。
ぼくは胸の奥が重くなるのを感じた。
今まで相原さんは、事件に巻き込まれた一年生に見えていた。
相談メモの写真を撮ってしまった、不安な生徒。
スマホを利用されたかもしれない被害者。
でも、彼女は一年前の出来事に最初からつながっていた。
「相原さんに、話を聞きましょう」
ぼくが言うと、ひより先輩はすぐには動かなかった。
「ひより先輩?」
「怖いね」
先輩は小さく言った。
「何がですか」
「聞くのが」
その声は、正直だった。
ひより先輩は、いつも相談者の気持ちに向き合ってきた。
でも今回は違う。
一年前、自分たちが守れなかった生徒。
その生徒を慕っていた後輩。
その後輩に、今、自分たちは疑いを向けようとしている。
怖くないはずがない。
「でも、聞かないと」
青柳先輩が言った。
「真帆ちゃんが犯人かどうかじゃなくて、灯里のことをどう思っていたのか。ちゃんと聞かないと、また私たちは勝手に決めることになる」
ひより先輩は、深く息を吸った。
「うん」
その一言には、覚悟があった。
ぼくたちは旧進路指導室を出た。
相原さんがいる可能性が高いのは、生徒会室か文化祭実行委員の会議室。
けれど、先に向かったのは中庭だった。
「真帆ちゃん、つらくなると中庭に行く」
青柳先輩が言った。
「灯里とよく話していた場所だから」
夕方の中庭は、人が少なかった。
文化祭準備のざわめきは校舎の中に吸い込まれて、ここだけ少し静かだ。
花壇の近くのベンチに、相原真帆さんは座っていた。
大きめのカーディガン。
袖を握る両手。
スマホには、星形のチャーム。
彼女はぼくたちに気づくと、びくっと肩を震わせた。
「……私、何もしてません」
最初に出た言葉がそれだった。
何も聞いていないのに。
それが、かえって痛かった。
ひより先輩は、ゆっくり近づいた。
「相原さん」
「違うんです。本当に、私じゃありません。相談メモの写真は撮りました。でも、失恋届も、閉鎖届も、放送も、投稿も、私じゃないです」
「うん」
「信じてください」
「うん」
「信じてるって、簡単に言わないでください!」
相原さんの声が、中庭に響いた。
花壇の向こうにいた生徒が、驚いてこちらを見る。
でも、すぐに気まずそうに目をそらした。
相原さんは、唇を震わせていた。
「信じてるって言った人ほど、あとで疑うんです。灯里先輩の時もそうでした。大丈夫って言って、守るって言って、でも結局、みんな噂を信じた」
ひより先輩は、何も言い返さなかった。
ただ、真正面からその言葉を受け止めていた。
「灯里先輩、言ってました。ステージに立ちたくないって。みんなの前で答えを出さなきゃいけないのが怖いって。でも、相手のことを嫌いなわけじゃないから、誰かを傷つけたくないって」
相原さんの目から、涙が落ちた。
「優しい人だったんです。いつも私に、無理しなくていいって言ってくれた。中等部の私にも、ちゃんと一人の実行委員みたいに接してくれた」
星形のチャームが、夕方の光を受けて小さく揺れる。
「なのに、噂になった」
相原さんの声が、震えながら低くなった。
「灯里先輩が思わせぶりだったとか。告白されるのが嫌なら最初から優しくするなとか。相談室に泣きついたとか。相手の先輩を恥かかせたとか」
その言葉の一つ一つが、鋭い針みたいだった。
誰かの噂は、言った本人にとっては軽い。
でも、刺さった側には残る。
抜いても跡が残る。
「灯里先輩は、だんだん笑わなくなりました。文化祭が終わっても、廊下で名前を呼ばれるだけで顔がこわばるようになって。冬休みの前に、学校を辞めました」
相原さんは、ひより先輩を見た。
その目には、怒りがあった。
でも、それ以上に悲しみがあった。
「先輩たちは、灯里先輩を守れなかった」
ひより先輩の顔が、痛みに歪んだ。
青柳先輩も、黒崎先輩も何も言えない。
三枝先輩は唇を噛んでいた。
「だから、あなたが今回の事件を?」
ぼくは聞いた。
言わなければならないと思った。
どれだけ残酷でも、そこを避けたらまた何も見えなくなる。
相原さんは、ぼくを見た。
涙で濡れた目が、少しだけ鋭くなる。
「違います」
「灯里さんのために、相談室を閉じようとしたわけではない?」
「違います」
「白石さんを狙ったのも?」
「違います!」
その声は、悲鳴に近かった。
「私、白石先輩を傷つけたくなんてない! だって、灯里先輩と同じじゃないですか。みんなの前で気持ちをさらされそうになって、逃げ場をなくされて。そんなの、私が一番嫌いです!」
その言葉は、嘘には聞こえなかった。
相原さんは犯人ではない。
少なくとも、白石さんを傷つけることを目的にしている人ではない。
でも。
「じゃあ、なぜ相談メモの写真を撮ったんですか」
ぼくは聞いた。
相原さんは、胸元のチャームを握った。
「怖かったからです」
それは第3話で聞いた答えと同じだった。
でも、今は意味が違って聞こえた。
「また同じことが起きると思ったんです。白石先輩が相談に来たって聞いて、公開告白の話も出ていて、藤原先輩の名前もあって……一年前と同じだって」
「誰から聞いたんですか」
ひより先輩が静かに聞いた。
相原さんは、目を伏せた。
「……匿名のメッセージです」
「いつ?」
「三日前」
三日前。
白石さんが相談室に来た日。
「何て書かれていましたか」
相原さんはスマホを操作して、画面を見せた。
送り主不明。
まただ。
この事件では、いつもそこにたどり着く。
本文には、こう書かれていた。
今年も公開告白が行われます。
今度の灯里は、白石すずです。
相談室は、また秘密を守れません。
ぼくは息を止めた。
犯人は、相原さんの痛みも知っている。
水瀬灯里さんを慕っていたこと。
公開告白を憎んでいること。
相談室を信用しきれないこと。
そこを狙って、相原さんに相談メモを撮らせた。
「だから、写真を撮ったんですね」
ぼくが言うと、相原さんは小さくうなずいた。
「相談室が本当に白石先輩のことを守っているのか、確かめたかったんです。でも、撮ったあと、すぐ後悔しました。こんなことしたら、私も同じだって」
「その写真を誰かに見られた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「撮ったあと、生徒会室でスマホを机に置きました。備品リストをまとめていて、少し席を外して……戻った時、スマホの位置が少し変わっていました」
「誰が近くにいましたか」
相原さんは、少し考えた。
「黒崎先輩はいませんでした。三枝先輩も職員室で。青柳先輩は会議室に行っていて……」
「他には?」
「文化祭実行委員の人が一人、書類を取りに来ていました」
「名前は?」
相原さんは、言いにくそうに唇を噛んだ。
「二年の、倉橋先輩です」
新しい名前。
倉橋。
青柳先輩が顔を上げた。
「倉橋怜?」
「はい」
青柳先輩の表情が、明らかに変わった。
「楓先輩、知ってるんですか」
ぼくが聞くと、青柳先輩は小さくうなずいた。
「後夜祭ステージの副担当。藤原くんと一緒に音響や進行を見ている」
「公開告白企画にも関わっていますか」
「関わっている。というより……」
青柳先輩は、少しだけためらった。
「最初に公開告白を面白そうだって言い出したのは、倉橋くんだった」
空気が変わった。
藤原海斗くんは代表者。
青柳楓先輩は実行委員長。
でも、公開告白を最初に言い出した人物は別にいた。
倉橋怜。
「その人は、一年前のことを知っているんですか」
ひより先輩が聞いた。
青柳先輩は、首を横に振った。
「普通なら知らないはず。でも……」
「でも?」
「倉橋くんは、去年の公開告白で告白する予定だった男子生徒の弟」
その瞬間、中庭の音が消えた気がした。
公開告白を止められた側。
噂で笑いものにされた側。
水瀬灯里さんだけでなく、もう一人傷ついた人。
その弟が、今、後夜祭ステージの副担当をしている。
「名前は?」
ぼくが聞く。
青柳先輩は答えた。
「去年、灯里に告白する予定だったのは、倉橋蓮。今の三年生。倉橋怜は、その弟」
兄。
弟。
公開告白。
相談室。
一年前の傷。
線が、急に一本にまとまった。
相原さんが震える声で言った。
「でも、倉橋先輩は優しいです。私にも普通に話してくれて、文化祭の仕事も手伝ってくれて」
「優しい人でも、誰かを傷つけることはある」
黒崎先輩が言った。
その言葉は、自分自身に向けたもののように聞こえた。
「決めつけるのは早いです」
ぼくは言った。
「でも、確認する必要があります」
ひより先輩はうなずいた。
その時、相原さんのスマホが震えた。
彼女はびくっと肩を跳ねさせた。
また、送り主不明。
ぼくたちは画面をのぞき込む。
本文は、短かった。
裏切り者。
添付画像には、中庭のベンチに座る相原さんが写っていた。
ぼくたちと話している今の写真。
撮られたばかりだ。
相原さんの顔が真っ青になる。
「今……ここを見てる?」
ひより先輩が周囲を見回した。
中庭。
校舎の窓。
渡り廊下。
花壇の向こう。
体育館へ続く通路。
誰がいてもおかしくない。
誰が見ていてもわからない。
ぼくは画像を拡大した。
角度から考えると、撮影場所は校舎二階の渡り廊下付近。
そこからなら、中庭のベンチが見える。
「二階です」
ぼくが言うと同時に、ひより先輩が走り出した。
ぼくも追う。
階段を駆け上がる。
息が切れる。
心臓がうるさい。
二階の渡り廊下に出た時、廊下の先に人影が見えた。
赤い腕章。
黒いパーカー。
手にはスマホ。
「待って!」
ひより先輩が叫ぶ。
人影が振り返った。
一瞬だけ、顔が見えた。
二年の男子生徒。
細い目。
口元だけが、少し笑っている。
次の瞬間、その生徒は廊下の角を曲がって走り去った。
「倉橋怜!」
青柳先輩の声が、後ろから響いた。
やはり。
ぼくたちは追いかけた。
けれど、文化祭準備の生徒たちが廊下にあふれていて、すぐに見失った。
段ボール。
ポスター。
衣装。
笑い声。
足音。
祭りの準備が、犯人を隠していく。
ぼくは立ち止まり、荒い息を整えた。
ひより先輩は廊下の先を見つめている。
その表情には、怒りがあった。
でも、それだけではない。
ようやく見えた相手が、本当に犯人なのか。
それとも、また誰かに見せられた影なのか。
ぼくたちは、もう簡単には信じられなくなっていた。
その時、廊下の床に一枚の紙が落ちているのが見えた。
ぼくはそれを拾った。
小さなメモ。
黒いペンの文字。
公開告白は、誰かを傷つけるためにあるんじゃない。
その下に、もう一行。
好きだった人を笑いものにしたのは、誰だ。
ひより先輩が、そのメモを見つめた。
「倉橋くん……」
ぼくは、廊下の先を見る。
逃げた倉橋怜。
退学した水瀬灯里。
傷ついた兄、倉橋蓮。
相談室を続けたひより先輩。
閉じたかった青柳先輩。
黙っていた黒崎先輩。
そして、灯里さんを忘れられなかった相原真帆。
事件の中心は、ようやく見え始めた。
でも、同時に思った。
これは単純な復讐ではない。
誰かが、まだ泣いている。
一年前からずっと。
第8話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、相原真帆と退学した生徒・水瀬灯里の関係が明らかになりました。
さらに、公開告白企画を最初に言い出した倉橋怜が、一年前に傷ついた男子生徒の弟であることも判明します。
次回は、倉橋怜とその兄・倉橋蓮、そして一年前の公開告白中止の裏側に迫っていきます。




