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第7話 黒崎くんは、知っている

体育館の青い付箋に書かれていた言葉。


黒崎くんは、知っている。


湊とひよりは、旧進路指導室へ戻る。

そこで待っていたのは、生徒会副会長・黒崎悠真だった。


黒崎くんは、知っている。


青い付箋の裏に書かれたその一文が、手の中で重くなった。


紙一枚なのに、まるで熱を持っているみたいだった。

指先がじんと痛む。


体育館の外へ出ると、夕方の空気が頬に触れた。

涼しいはずなのに、息がうまく吸えない。


一ノ瀬ひより先輩は、何も言わずに廊下を走っていた。


さっき泣きそうになっていた人と同じ人には見えない。

でも、走る背中はいつもより少しだけ危うかった。


早く行かなければ。

何かが壊れる前に。


そんな焦りだけで、ぼくも足を動かした。


「ひより!」


後ろから青柳楓先輩の声がした。


振り返ると、青柳先輩も追いかけてきていた。

その後ろには三枝莉子先輩もいる。


文化祭実行委員長。

恋愛相談室を閉じたいと言った人。

一年間、ひより先輩と向き合えなかった人。


それでも今、青柳先輩は逃げていなかった。


旧進路指導室の前に着いた時、ぼくはすぐに違和感に気づいた。


ドアが、少し開いている。


「鍵……」


ひより先輩がつぶやいた。


昼休みにも、相原真帆さんが「開いていた」と言っていた。

そして今もまた、閉まっているはずの場所が開いている。


ぼくは息を殺した。


中に誰かいる。


ひより先輩がドアに手をかける。

その指が、ほんの少し震えていた。


「先輩」


ぼくが止めようとした時には、もう遅かった。


ドアが開いた。


旧進路指導室の中は、夕方の光で赤く染まっていた。

窓際の机。

青い付箋。

相談ノート。

備え付けのボールペン。


そして、その机の前に一人の男子生徒が立っていた。


黒崎悠真先輩だった。


生徒会副会長。

いつも冷静で、必要以上に感情を見せない人。


その黒崎先輩が、開かれた相談ノートを見下ろしていた。


「遅かったな」


黒崎先輩は、静かに言った。


その一言で、部屋の空気が張りつめた。


ひより先輩は、入口で立ち止まった。


「悠真」


声が硬い。


青柳先輩も、三枝先輩も部屋に入ってきた。

誰もすぐには話さない。


ぼくは、机の上に目を向けた。


相談ノートは、一年前のページが開かれていた。

星の印がついたページ。

さっき共有フォルダに送られてきた画像と同じページだ。


ただし、画像にはなかったものが一つあった。


ページの端に、細い線で囲まれた小さなメモ。


先生確認済み。


その文字を見た瞬間、黒崎先輩の表情がわずかに動いた。


「これ、黒崎先輩が書いたんですか」


ぼくが聞くと、黒崎先輩はゆっくりこちらを見た。


「そうだ」


否定しなかった。


あまりにもあっさりした答えだった。


ひより先輩の顔から、さらに血の気が引いた。


「先生確認済みって、どういうこと」


黒崎先輩はすぐには答えなかった。

窓の外では、風に揺れた木の葉が小さく音を立てている。


沈黙が長い。


その長さが、答えを怖くする。


「一年前」


黒崎先輩が言った。


「公開告白を止めるために、俺は先生へ相談した」


「それは知ってる」


青柳先輩が言った。


「私も一緒に話した。企画として危ないって」


「違う」


黒崎先輩は、短く言った。


青柳先輩の眉が動く。


「何が違うの」


「俺は、先生に言った」


黒崎先輩の声は低かった。


「告白される側の生徒が嫌がっている、と」


部屋の中が、すっと冷えた。


ひより先輩の唇が、かすかに開く。


青柳先輩は、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。


三枝先輩が小さく息を呑む音が聞こえた。


「……名前は?」


ひより先輩が聞いた。


その声は、震えていた。


「名前は言っていない」


黒崎先輩は答えた。


「でも、学年とクラスは言った」


「どうして」


ひより先輩の声が、少し大きくなった。


「どうして、そんなことを言ったの」


「止めるためだ」


黒崎先輩の声も、わずかに強くなった。


「あの時、時間がなかった。後夜祭のリハーサルは翌日だった。先生に本気で止めてもらうには、ただ危ないと言うだけじゃ弱いと思った」


「だから、相談者の情報を出したの?」


「名前は出していない」


「でも、わかる人にはわかる!」


ひより先輩の声が、部屋に響いた。


ぼくは、胸の奥を殴られたような気がした。


一年前、相談室は秘密を守れなかった。


ずっと、誰か悪意のある人が漏らしたのだと思っていた。

でも、今出てきたのは違う。


助けるため。

止めるため。

守るため。


そのために出した、少しの情報。


けれど、その少しが誰かを傷つけた。


黒崎先輩は、ひより先輩から目をそらさなかった。


「わかっている」


「わかってたなら、どうして今まで言わなかったの」


「言えなかった」


「言えなかった?」


ひより先輩の声がかすれた。


「私は、一年間ずっと考えてた。どこで漏れたんだろうって。誰が見たんだろうって。楓とも、ちゃんと話せなくなった。相談室を続けていいのか、何度も迷った」


ひより先輩の目に涙がにじんだ。


でも、その涙はこぼれなかった。


怒りが、涙を押しとどめているみたいだった。


「悠真は、知ってたんだ」


その言葉は、静かだった。


だからこそ、痛かった。


黒崎先輩は、何も言えなかった。


青柳先輩が、一歩前に出た。


「黒崎くん」


その声には、責める響きだけではなかった。

驚き。

悔しさ。

そして、自分も気づけなかったことへの苦しさ。


「私たち、ずっと違うところを見ていたの?」


黒崎先輩は、少しだけ目を伏せた。


「俺が最初に秘密を破った」


その一言が、部屋に落ちた。


重かった。


誰も、すぐには受け止められなかった。


「ただし」


黒崎先輩は続けた。


「今の事件は、俺じゃない」


ぼくは、黒崎先輩を見た。


その言葉は逃げに聞こえなかった。

でも、完全に信じるには早い。


「証明できますか」


ぼくが聞くと、黒崎先輩は、ほんの少しだけ眉を上げた。


「ずいぶん真っ直ぐ聞くな」


「回りくどく聞く場面ではないので」


「そうだな」


黒崎先輩は、机の上に置いていたスマホを取り上げた。


「今日の十六時四十二分に、俺のバックアップフォルダへ音源が保存されていた」


第6話で見つかった、ひより先輩を責める音源。


hiyori_soudan_test。


「その時間、俺は職員室にいた。担当の先生と、文化祭のステージ使用について話していた」


「先生に確認すればわかりますね」


「わかる」


「でも、アカウントは使われています」


「だから問題なんだ」


黒崎先輩は、いつもの冷静な顔に戻ろうとしていた。

でも、目の奥だけは違った。


そこには、焦りがあった。


「副会長用バックアップは、本来、俺しか使わない。けど、パスワードを変えていなかった」


「共有されていたんですか」


「去年、相談企画を始めた時、ひよりと青柳にも一度教えた」


ひより先輩が目を見開く。


「覚えてない」


「覚えていなくて当然だ。仮のパスワードだった」


「仮?」


「相談記録の形式を作る時だけ使った。すぐ変えるつもりだった」


「でも、変えてなかった」


ぼくが言うと、黒崎先輩はうなずいた。


「そうだ」


また一つ、鍵が開いたままだった。


共有アカウント。

共有パソコン。

開いた相談室。

変えていないパスワード。


今回の犯人は、誰かの悪意だけで動いているわけではない。

学校の中にある小さな油断を、丁寧に拾って使っている。


「そのパスワードを知っている人は?」


三枝先輩が聞いた。


「俺、ひより、青柳」


「三人だけ?」


「当時は、そうだった」


青柳先輩が、青ざめた顔で言った。


「でも、私は覚えてない。そんなの、もう……」


「俺も、誰も覚えていないと思っていた」


黒崎先輩は、開かれた相談ノートを見た。


「でも、犯人は覚えているか、どこかで見つけた」


ぼくは、ノートのページをもう一度見た。


先生確認済み。


小さな文字。

黒崎先輩の筆跡。


「この文字、画像には写っていませんでした」


ぼくが言うと、ひより先輩が顔を上げた。


「どういうこと?」


「犯人が送ってきた画像には、星の印と本文だけが写っていました。でも、この『先生確認済み』は写っていない」


「つまり、犯人はこのページ全部を見せたくなかった?」


「はい。黒崎先輩が先生へ話したことまでは、まだ隠しておきたかったのかもしれません」


黒崎先輩は黙っていた。


青柳先輩が小さく言う。


「じゃあ、黒崎くんは知っているって付箋は……」


「黒崎先輩に疑いを向けるため。それと、黒崎先輩自身に口を開かせるため」


ぼくは答えた。


犯人は、ただ証拠を置いているだけではない。

人の反応を読んでいる。


三枝先輩のペンを置けば、三枝先輩が疑われる。

相原さんの写真を使えば、相原さんが追い詰められる。

青柳先輩のアカウントを使えば、青柳先輩が逃げる。

ひより先輩の過去を出せば、ひより先輩と青柳先輩がぶつかる。


そして黒崎先輩の名前を出せば、彼は一年前のことを話さざるを得なくなる。


犯人は、みんなの弱いところを知っている。


知りすぎている。


「最初に秘密を破った人は、まだここにいる」


ぼくは、共有フォルダに送られてきた画像の一文を思い出した。


「これは、黒崎先輩のことだったんですね」


黒崎先輩は、否定しなかった。


ひより先輩は、机の上に手を置いた。

その指先が、わずかに白くなっている。


「悠真」


「なんだ」


「怒ってる」


「ああ」


「でも、今は怒りきれない」


黒崎先輩は、静かにひより先輩を見た。


ひより先輩は、苦しそうに笑った。


「悠真が何をしたかは、許せない。でも、私も楓も、あの時どうすればよかったのかわからなかった。たぶん、みんな間違えた」


「そうだな」


「だからって、なかったことにはしない」


「わかっている」


「本当にわかってる?」


ひより先輩の声が、また少し震えた。


「相談した子は、私たちを信じてくれたんだよ。怖いって言ってくれたんだよ。それを守れなかったのは、たぶん一生消えない」


黒崎先輩は、ゆっくり目を伏せた。


「消えない」


その短い答えには、感情があった。


黒崎悠真という人にも、ちゃんと後悔がある。

見せないだけで、ずっと抱えていたものがある。


それがわかった瞬間、ぼくは少しだけ腹が立った。


なぜ、もっと早く言わなかったのか。

なぜ、一人で黙っていたのか。

なぜ、ひより先輩にも青柳先輩にも背負わせたままにしたのか。


でも同時に、わかってしまう気もした。


自分が最初に秘密を破った。

そう言うのは、たぶんとても怖い。


正しさのためにしたことが、誰かを傷つけたと認めるのは、悪意を認めるよりずっと難しいのかもしれない。


その時、旧進路指導室のスピーカーから、突然ノイズが流れた。


「え?」


三枝先輩が振り返る。


この部屋に校内放送用のスピーカーはある。

普段は朝礼や連絡でしか鳴らない。


けれど今、そこから流れたのは学校の放送ではなかった。


小さなノイズ。

続いて、加工された声。


「正解です」


ひより先輩が息を呑んだ。


「最初に秘密を破った人は、黒崎悠真さん」


黒崎先輩の顔がこわばる。


「でも、最初に秘密を見捨てた人は、誰でしょう」


声は、楽しんでいるように聞こえた。


機械で加工されているのに、その奥に笑いがある気がした。


「恋愛相談室の皆さん。次の問題です」


ぼくは部屋の中を見回した。


どこから流している?

校内放送?

それとも、旧進路指導室に置かれた何か?


「一年前、公開告白を止めてほしいと相談した人は、今もこの学校にいます」


ひより先輩が、はっきりと息を止めた。


青柳先輩の顔色も変わった。


「その人は、今日もあなたたちを見ています」


声が続く。


「誰にも気づかれずに。誰にも守られずに」


スピーカーから、短い笑い声のようなノイズが漏れた。


「今度こそ、守れますか?」


そこで音声は途切れた。


旧進路指導室に、静寂が戻る。


でも、さっきまでの静けさではなかった。


何かが、すぐそばまで来ている。


ぼくは、スピーカーの下にある棚を見た。

そこには、古いラジカセと、延長コードが置かれている。


さらにその後ろ。

棚と壁のわずかな隙間に、小さな黒いものが見えた。


「これ……」


ぼくは手を伸ばした。


小型のスピーカーだった。

無線接続できる、手のひらサイズのもの。


電源ランプが、まだ青く点滅している。


「ここから流したんだ」


三枝先輩が言った。


「でも、誰が置いたの?」


青柳先輩の声が震える。


ぼくはスピーカーを持ち上げた。

底に、白いシールが貼ってある。


備品管理用のラベル。


星ヶ丘祭 音響備品

担当 文化祭実行委員


文化祭実行委員の備品。


つまり、体育館や会議室から持ち出せる人間。


「また実行委員……」


ひより先輩がつぶやいた。


けれど、ぼくは別のものを見ていた。


スピーカーの側面に、小さな傷がある。

星の形に似た、浅い引っかき傷。


相原さんのスマホの星形チャーム。

相談ノートの星印。

青柳先輩が好きだった星マーク。

そして、このスピーカーの星の傷。


星が多すぎる。


偶然にしては、並びすぎている。


「先輩」


ぼくは言った。


「一年前の相談者、誰なんですか」


ひより先輩の顔が強張った。


「名前は言えない」


「今もですか」


「今も」


その答えは、ひより先輩らしかった。


でも、今はその秘密が、犯人に利用されている。


「なら、せめて教えてください」


ぼくは声を落とした。


「その人は、今の事件に関係していますか」


ひより先輩は、長く黙った。


青柳先輩も、黒崎先輩も、ひより先輩を見ている。


やがて、先輩は小さく言った。


「わからない」


「わからない?」


「だって、その子は……」


ひより先輩の声が、ひどく苦しそうに揺れた。


「去年の冬に、学校を辞めたから」


ぼくは言葉を失った。


退学。

それは、この物語の中で初めて出てきた、取り返しのつかない言葉だった。


誰かが死んだわけではない。

でも、その人の学校生活は、そこで終わっている。


「じゃあ、今もこの学校にいるっていう放送は」


三枝先輩が言った。


「嘘?」


黒崎先輩が低く答える。


「あるいは、別の意味だ」


別の意味。


ぼくは部屋の中を見回した。


旧進路指導室。

相談ノート。

青い付箋。

スピーカー。

一年前の記録。


今もこの学校にいる。


本人ではなく、何かが残っている。

名前。

噂。

記録。

後悔。

あるいは、その人を知っている誰か。


その時、ぼくのスマホが震えた。


また、送り主不明。


もう驚きはなかった。

ただ、胸の奥が冷たくなる。


画面を開く。


本文は短かった。


退学したのは、誰のせい?


添付画像が一枚。


そこには、一年前のクラス集合写真が写っていた。


文化祭の日。

体育館の前。

笑っている生徒たち。


その中で、一人だけ顔が黒く塗りつぶされている。


そして、その隣に立っていた人物を見て、ぼくは息を止めた。


赤い腕章。

星形のチャーム。

大きめのカーディガン。


今より少し幼い、相原真帆さんが写っていた。



第7話まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、黒崎悠真が一年前に「先生へ相談者の情報を伝えていた」ことが判明しました。

ただし、それは悪意ではなく、公開告白を止めるための行動でした。

そして最後に、一年前の相談者は退学していたこと、その近くに相原真帆が写っていたことが明らかになります。

次回は、相原真帆と退学した生徒の関係に踏み込んでいきます。


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