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第6話 次の相談者は、一ノ瀬ひより

体育館ステージに置かれた青い付箋。

そこに書かれていたのは、ひより先輩を名指しする言葉だった。

一年前の出来事と、今の事件が重なり始める。


次の相談者は、一ノ瀬ひより。


その文字を見た瞬間、ひより先輩の表情から色が消えた。


怒ったわけではない。

泣きそうになったわけでもない。


ただ、いつも表情のどこかにあった余裕が、すっと抜け落ちた。


放課後の廊下に、文化祭準備のざわめきが流れている。

誰かが笑っている。

誰かが段ボールを運んでいる。

誰かが「ガムテープどこ」と叫んでいる。


なのに、ぼくの周りだけ空気が薄くなったみたいだった。


「ひより先輩」


ぼくが声をかけると、先輩はスマホの画面を見つめたまま、小さく息を吸った。


「……行こう」


「体育館ですか」


「うん」


その声は、かすれていた。


いつもの先輩なら、ここで冗談を言う。

「名指しされちゃったね」とか、「人気者はつらいね」とか、そんなふうに軽く笑って、場の重さを少しだけ横にずらす。


でも、今の先輩は笑わなかった。


赤い腕章と辞退届を持ったまま、先輩は廊下を歩き出した。


その背中が、いつもより小さく見えた。


ぼくと三枝莉子先輩は、その後を追った。


体育館へ向かう廊下は、夕方の光で赤く染まっていた。

窓の外では、運動部の掛け声が遠く響いている。

その声が、妙に明るくて、かえって胸の奥をざらつかせた。


何も知らない人たちには、今日も普通の放課後なのだ。


でも、白石すずさんにとっては違う。

藤原海斗くんにとっても違う。

相原真帆さんにとっても、青柳楓先輩にとっても。


そして、たぶん。


一ノ瀬ひより先輩にとっても。


体育館に入ると、ステージだけに照明が当たっていた。


客席側は薄暗い。

パイプ椅子はまだ並んでいない。

床にはコードが這い、スピーカーの近くに工具箱が置かれている。


文化祭前の体育館は、いつもの体育館ではない。

まだ完成していない舞台。

まだ始まっていない祭り。

それなのに、誰かの秘密だけが、先にここへ引っ張り出されている。


ステージ中央には、マイクスタンドが一本立っていた。


その前に、青い付箋が貼られている。


次の相談者は、一ノ瀬ひより。


ぼくたちがさっき画像で見たものと同じだった。


「本当に置いてある……」


三枝先輩がつぶやいた。


ひより先輩は、ステージへ上がった。

木の床が、きしりと小さく鳴る。


その音が、やけに大きく聞こえた。


先輩は付箋をはがさなかった。

触れもしなかった。


ただ、マイクの前に立っていた。


まるで、これから自分が告白させられる人みたいに。


「ひより先輩」


ぼくがステージ下から呼ぶと、先輩はようやくこちらを見た。


「書記くん」


「はい」


「私、ちょっと怒ってるかも」


先輩はそう言った。


でも、その声は怒っているようには聞こえなかった。

もっと深いところが震えている声だった。


悔しさ。

怖さ。

後悔。

それから、何かを必死にこらえている痛み。


「秘密ってさ」


先輩は、マイクを見つめたまま言った。


「本人が自分で話すから、秘密じゃなくなるんだよね」


ぼくは何も言えなかった。


「誰かに暴かれたら、それは告白じゃない。ただの傷だよ」


その言葉は、体育館の天井へ静かに吸い込まれていった。


その時だった。


ステージ脇の暗がりで、何かが動いた。


「誰かいる」


三枝先輩が鋭く言った。


ぼくはすぐに舞台袖へ走った。


カーテンの影。

積まれた長机。

丸められた暗幕。

その隙間に、人影があった。


「待って!」


逃げようとしたその人の腕を、ひより先輩が先に掴んだ。


赤い腕章。

乱れた髪。

青ざめた顔。


青柳楓先輩だった。


「楓」


ひより先輩の声が震えた。


青柳先輩は、ひより先輩の手を振りほどこうとした。

でも、力が入っていない。

怒っているというより、追い詰められている人の動きだった。


「離して」


「嫌」


ひより先輩は即答した。


「また逃げるの?」


その一言で、青柳先輩の顔が歪んだ。


「逃げたのは、ひよりでしょ」


体育館の空気が、さらに重くなった。


三枝先輩が息を飲む。

ぼくは、その場から動けなかった。


青柳先輩の声は、冷たかった。

でも、その冷たさの奥で、何かが焼けているみたいだった。


「一年前もそうだった。ひよりは相談室を続けた。失敗したのに。秘密を守れなかったのに。それでも、何もなかったみたいに笑って、恋愛相談室なんて名前で続けた」


「何もなかったなんて思ってない」


ひより先輩の声が低くなった。


「じゃあ、どうして続けたの」


青柳先輩の声が大きくなった。


「どうして閉じなかったの? あの子がどんな顔をしていたか、覚えてる? 公開告白を止めてほしいって言った子。みんなに噂されて、廊下を歩けなくなった子。相手の男の子も、笑いものにされた。二人とも傷ついた。誰も救えてない」


ひより先輩の指が、ぎゅっと握られた。


「覚えてるよ」


「嘘」


「嘘じゃない!」


ひより先輩の声が体育館に響いた。


その声に、ぼくは胸を突かれた。


先輩が、こんなふうに声を荒げるのを初めて聞いた。


いつも、先輩は人の感情を受け止める側だった。

怒る人をなだめる。

泣きそうな人に笑いかける。

言葉にできない人の気持ちを、少しずつほどく。


その先輩が今、ほどかれる側に立っている。


「覚えてるよ。忘れたことなんてない」


ひより先輩の声は、震えていた。


「告白するはずだった子が、空き教室で泣いてたことも。相談に来た子が、私に『言わなきゃよかった』って言ったことも。楓が『この場所は危ない』って言ったことも。全部、覚えてる」


青柳先輩は、唇を噛んだ。


「じゃあ、どうして」


「閉じたら、あの時来てくれた子たちの気持ちまで、なかったことになる気がしたから」


ひより先輩は、泣いていなかった。

でも、その目は赤かった。


「失敗したから終わり、じゃなくて。失敗したなら、次は守れるようにしたかった。今度こそ、誰かが一人で抱え込まなくていい場所にしたかった」


「それで、守れたの?」


青柳先輩の言葉は、鋭かった。


「白石さんは傷ついた。相原さんも怯えてる。藤原くんも巻き込まれた。私の名前で投稿されて、実行委員も混乱してる」


青柳先輩は、ひより先輩をまっすぐ見た。


「一年前と同じじゃない」


その言葉に、ひより先輩は何も言えなかった。


体育館の照明が、じりじりと熱を持っている。

夕方のステージは、きれいなのに息苦しい。


ぼくは、胸の奥が重くなった。


青柳先輩の言っていることは、間違っていない。

ひより先輩の言っていることも、間違っていない。


正しいこと同士がぶつかると、誰も悪くないのに、みんな傷つく。


それが一番、厄介だった。


「青柳先輩」


ぼくは口を開いた。


「今回の失恋届や閉鎖届を作ったのは、あなたですか」


青柳先輩は、ぼくを見た。


その目は疲れていた。

怒りよりも、ずっと深い疲れ。


「違う」


短い答えだった。


「公開告白の告知を投稿したのは?」


「違う」


「では、なぜ姿を消したんですか」


青柳先輩は黙った。


ひより先輩が、少しだけ前に出る。


「楓」


「……怖かった」


青柳先輩は、ようやく声を絞り出した。


「私のアカウントで投稿された。辞退届なんて知らない。けど、みんなが私を見る目が変わった。実行委員がざわついて、先生に説明しなきゃって思った。でも、言葉が出なかった」


赤い腕章を握る青柳先輩の手が震えていた。


「まただって思った。一年前と同じだって。誰かの秘密を守れなくて、誰かが泣いて、誰かが私のせいみたいな顔をする」


「楓のせいじゃない」


ひより先輩が言った。


「それ、ひよりが言う?」


青柳先輩の目に、涙が浮かんだ。


「ひよりが一番、自分のせいだって思ってたくせに」


その言葉は、ひより先輩に深く刺さったように見えた。


先輩は、口を開きかけて、閉じた。


言い返せないのだと思った。


一年前のことを、先輩は忘れていない。

責任を感じている。

だから続けた。

でも、続けたことでまた誰かが傷ついている。


その矛盾が、今、先輩の胸を締めつけている。


ぼくは、ステージの上に置かれたマイクを見た。


公開告白。

大勢の前で、気持ちを言わされる場所。


今ここで起きていることも、同じだと思った。


一ノ瀬ひよりの後悔。

青柳楓の怒り。

二人が隠してきた一年前の痛み。


それが、犯人の用意したステージの上で、無理やり引きずり出されている。


「ひより先輩」


ぼくは言った。


「これ、相談じゃありません」


先輩がこちらを見る。


「これは、犯人が作った公開告白です」


青柳先輩も、ぼくを見た。


「一年前のことを知っている人間が、先輩たちの罪悪感を利用している。白石さんと藤原くんだけじゃない。相原さんも、青柳先輩も、ひより先輩も。みんな、自分が悪かったかもしれないと思うところを狙われている」


言いながら、ぼく自身の声が少し震えているのがわかった。


怒っていた。


犯人のやり方に。


誰かの秘密を暴くことよりも、誰かが自分を責めている部分を探して、そこを指で押すようなやり方に。


「だから、今ここで先輩たちが責め合ったら、犯人の思い通りです」


ひより先輩は、静かに目を伏せた。


青柳先輩も黙った。


長い沈黙だった。


その沈黙を破ったのは、三枝先輩だった。


「……感情の話は大事だけど、今は証拠の話もさせて」


いつもの会計らしい、少し硬い声だった。


でも、それが逆にありがたかった。

沈み込んでいた空気に、現実の線が一本引かれた気がした。


三枝先輩は、ステージ脇の音響卓を指さした。


「さっきから気になっていたの。あのパソコン、電源が入ったままなのに、誰も触っていない」


ぼくは音響卓へ向かった。


パソコンの画面には、音声編集ソフトが開いていた。

公開告白アナウンステストの音源。

さっき体育館に流されたものだ。


そして、その隣に、もう一つファイルがあった。


hiyori_soudan_test


ひより相談テスト。


背筋が冷えた。


「これ……」


ひより先輩がつぶやく。


ぼくはファイルの詳細を開いた。


作成時刻。

今日の十六時四十二分。


作成者名。

生徒会共用アカウント。


また共用アカウント。


でも、今度はもう一つ、見落とせない情報があった。


保存場所が、文化祭実行委員の共有フォルダではない。


生徒会副会長用バックアップ。


「副会長用……」


三枝先輩が小さく言った。


黒崎悠真先輩。


その名前が、全員の頭に浮かんだのがわかった。


でも、ぼくはすぐに首を振った。


「待ってください。これだけで黒崎先輩とは決められません」


「どうして?」


青柳先輩が聞いた。


「これまでの犯人は、誰かを犯人に見せる証拠を置いてきました。三枝先輩のペン、相原さんの写真、青柳先輩のアカウント。今回も同じ可能性があります」


「じゃあ、黒崎くんも利用された?」


三枝先輩が言う。


「その可能性があります」


ぼくは画面を見つめた。


でも、胸の奥では嫌な予感が広がっていた。


黒崎先輩は、最初から冷静すぎた。

文化祭に関係するかと、すぐに聞いた。

共有フォルダにも詳しい。

生徒会室に残っていた時間もある。


怪しい。


怪しすぎる。


だからこそ、決めつけてはいけない。


「音源、再生しますか?」


三枝先輩が聞いた。


ひより先輩は、少しだけ迷った。


それから、うなずいた。


「聞く」


ぼくは再生ボタンを押した。


スピーカーからノイズが流れる。


そして、加工された声が聞こえた。


「一ノ瀬ひよりさん。あなたは一年前、相談者の秘密を守れませんでした」


ひより先輩の肩が、小さく震えた。


「それでもあなたは、恋愛相談室を続けました」


青柳先輩が唇を噛む。


「では、今度はあなたが相談してください」


声は、少し笑っているようにも聞こえた。


「秘密を守れない人間は、誰に秘密を預ければいいのでしょうか」


音声はそこで途切れた。


体育館に、機械の小さな作動音だけが残った。


ひより先輩は、両手を強く握っていた。

爪が手のひらに食い込んでいるのが見える。


ぼくは、反射的に言った。


「先輩」


「大丈夫」


先輩はそう答えた。


でも、大丈夫な人の声ではなかった。


「大丈夫じゃないです」


ぼくは言ってから、自分でも少し驚いた。


ひより先輩も、目を丸くした。


「書記くん?」


「大丈夫じゃない時に、大丈夫って言わないでください」


体育館が静かだったから、その声は思ったよりはっきり響いた。


「先輩はいつも、相談に来た人にそう言ってるじゃないですか。無理に平気な顔をしなくていいって。だったら、先輩も同じです」


ひより先輩は、何か言おうとした。


でも、言えなかった。


その目に、初めて涙がにじんだ。


一粒だけ。

こぼれそうで、こぼれない涙。


それを見た瞬間、ぼくは胸が苦しくなった。


先輩は、強い人だと思っていた。

何でも笑って受け止められる人だと思っていた。


違った。


強いから受け止めているんじゃない。

傷ついても、受け止めることを選んでいただけだ。


「……悔しい」


ひより先輩が、かすれた声で言った。


「私、すごく悔しい」


青柳先輩が顔を上げる。


「一年前も、今も。誰かが誰かを好きだって気持ちを、こんなふうに道具にされるのが嫌。相談してくれた子の勇気を、罰みたいに使われるのが嫌」


先輩の声は震えていた。

でも、もう逃げていなかった。


「楓。私、あの時ちゃんと謝れてなかった」


青柳先輩の表情が揺れた。


「相談室を閉じたいって言ったあなたに、私は続けたいって言った。正しいと思ってた。でも、あなたが怖がってたことを、ちゃんと見てなかった」


「ひより……」


「ごめん」


短い言葉だった。


でも、その一言には、一年分の重さがあった。


青柳先輩の目から、涙が落ちた。


「私も、ごめん」


その声は、消えそうに小さかった。


「私、ひよりが悪いって思いたかった。そうしたら、自分が楽だったから。あの時、私も守れなかったのに」


二人は、しばらく何も言わなかった。


体育館のステージの上で、公開されるはずのなかった謝罪が、静かに交わされた。


犯人が見たかったものとは、たぶん違う。


怒り合う姿。

責め合う姿。

崩れていく相談室。


犯人はそれを望んでいたのかもしれない。


でも今、ここにあったのは、痛みを隠すのをやめた二人だった。


その時、パソコンから短い通知音が鳴った。


新しいファイルが共有フォルダに追加された。


ぼくは画面を見た。


ファイル名は、next_stage。


作成者は、また共用アカウント。


中身は画像ファイルだった。


開く。


そこに写っていたのは、旧進路指導室の机。

青い付箋。

そして、相談ノート。


ノートは、去年のページが開かれている。


星の印がついたページ。


その横に、黒いペンで一文が書き足されていた。


最初に秘密を破った人は、まだここにいる。


ぼくは画面を見つめた。


「まだここにいる……」


ひより先輩が、ゆっくり顔を上げた。


青柳先輩も、三枝先輩も、同じように息を飲んだ。


犯人は、過去を知っている。

相談室に入れる。

生徒会の共有環境を使える。

文化祭実行委員の動きも把握している。


そして今、旧進路指導室にいるか、少なくともそこに行ける。


ぼくは走り出した。


「旧進路指導室へ戻ります!」


ひより先輩も、すぐに後を追った。


体育館を出る直前、ぼくは一度だけ振り返った。


ステージの中央。

マイクスタンドの下。

さっきまで貼られていた青い付箋が、いつの間にか床に落ちていた。


そこに、裏面の文字が見えた。


小さく、手書きで。


黒崎くんは、知っている。


その文字を見た瞬間、ぼくの足が止まった。


ひより先輩が振り返る。


「書記くん?」


ぼくは付箋を拾った。


手の中で、紙がかすかに震えた。


犯人の罠か。

それとも、本当の手がかりか。


もう、わからない。


ただ一つだけ確かなことがある。


この事件は、白石さんの恋だけを狙ったものではない。


一年前から残っていた何かが、今、相談室を壊そうとしている。




第6話まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、ひよりと青柳が一年前の出来事について感情をぶつけ合う回でした。

犯人は、恋愛相談室に関わる人たちの罪悪感を利用しているようです。

次回は、旧進路指導室に戻り、「最初に秘密を破った人」と黒崎悠真の関係を追っていきます。


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