第38話 存在しない意思
御影音羽が提出した「校内放送内容訂正申請」。
橘圭吾が保管していた控えには、
訂正を希望する。
そう書かれていた。
しかし、現在の学校に残る同じ処理番号の書類には、
訂正を希望しない。
さらに、
本人意思確認済。
音羽本人は、そんな確認を受けたことはないという。
存在しない声の次に現れたのは――。
本人が選んでいない、「存在しない意思」だった。
二枚の書類を並べる。
一枚は、橘圭吾さんが数年前から保管していた控え。
もう一枚は、星ヶ丘高校の書庫に残っていた学校保管版。
処理番号。
同じ。
申請日。
同じ。
申請者。
御影音羽。
同じ。
でも。
希望する対応だけが違っていた。
橘さんの控え。
訂正を希望する。
学校保管版。
訂正を希望しない。
「……こうして並べると、気持ち悪いね」
一ノ瀬ひより先輩が言った。
「書類に対して気持ち悪いという感想は記録できません」
「記録しなくていいよ」
「では言わないでください」
「感想まで管理されるの?」
「相談中ではないので自由です」
「じゃあ言わせてよ」
「どうぞ」
「気持ち悪い」
「聞きました」
「書記くん、今日ちょっと冷たくない?」
「二枚の書類の方が気になるので」
「負けた……紙に」
ぼくは、二枚を見比べた。
もちろん。
原本へ直接触れてはいない。
学校保管版は、管理職の先生が書庫から取り出し、現在は透明な保護袋に入れられている。
橘さんの控えも、本人の了承を得て画像で共有されているだけだ。
「高槻くん」
佐伯先生が言う。
「確認したい点を整理してください」
「はい」
ぼくは記録用紙へ書く。
一。
橘さんの控えが、実際に当時提出された内容と同一か。
二。
学校保管版が、いつ作成されたものか。
三。
御影音羽さんの署名を誰が書いたのか。
四。
本人意思確認済、と記入した人物。
五。
桐生先生から音羽さんへ送られた手紙との関係。
「そして」
ひより先輩が言った。
「一番大事なのは」
「はい」
「音羽さんが、訂正を希望していたのか」
「それは、本人から確認済みです」
画面の向こう。
オンラインで参加している音羽さんが、うなずいた。
「希望していました」
声ははっきりしている。
「少なくとも、橘先輩に申請書を渡した時点では」
「そのあと、気持ちが変わった可能性は?」
佐伯先生が確認する。
音羽さんは少し考えた。
「全校へ訂正放送をするのは怖くなりました」
「はい」
「でも、訂正そのものをやめたいとは言っていません」
「学校記録へ残すことや、関係者への説明は?」
「してほしかったです」
「ありがとうございます」
本人の意思は。
今、ここで確認できる。
問題は。
数年前の学校記録が、なぜ逆になったのか。
佐伯先生は、桐生先生も呼んでいた。
ただし。
音羽さん本人に確認した上で。
音羽さんは、
同席して構いません。
と答えた。
桐生先生が会議室へ入る。
以前より。
ずっと小さく見えた。
「御影さん」
「はい」
「今日は……」
「謝罪から始めないでください」
桐生先生が言葉を止める。
「確認したいことがあります」
音羽さんは言った。
「はい」
「それに答えてください」
「……わかりました」
机の上の学校保管版。
処理欄。
担当者。
桐生。
その下。
本人意思確認済。
「これは」
佐伯先生が聞く。
「桐生先生の字ですか」
桐生先生は。
保護袋越しに書類を見る。
長い沈黙。
「……私です」
ひより先輩の表情が硬くなる。
「本人意思確認済、って」
「はい」
「音羽さんに確認してないんですよね」
「直接は……」
「直接は?」
ひより先輩の声が少し強くなる。
音羽さんが言った。
「一ノ瀬先輩」
「……ごめんなさい」
「大丈夫です」
音羽さんは桐生先生を見る。
「続きを聞きたいです」
桐生先生は。
一度、目を閉じた。
「私は、御影さん本人から確認していません」
「では、なぜ書いたんですか」
ぼくが聞く。
「当時の教頭から」
桐生先生が答えた。
「本人が訂正申請を取り下げた、と伝えられたからです」
「口頭ですか」
「最初は」
「最初は?」
「そのあと、この書類を渡されました」
学校保管版。
訂正を希望しない。
御影音羽。
本人のものではない署名。
「誰から?」
「教頭です」
「教頭先生は、誰から受け取ったと言っていましたか」
「……本人からだと」
音羽さんが首を横に振る。
「渡していません」
「はい」
桐生先生の声が小さくなる。
「今は、そう理解しています」
「当時は?」
「疑いませんでした」
「署名も?」
「はい」
「橘さんから、署名が違うと言われていましたよね」
オンライン画面。
橘圭吾さんが口を開いた。
「俺、言いました」
「覚えています」
桐生先生は答える。
「では、なぜ確認しなかったんですか」
橘さんの声は。
怒っているようで。
とても静かだった。
「当時の私は……」
桐生先生が止まる。
「また、それですか」
音羽さんが言った。
「当時は、で終わらせないでください」
「はい」
「何を考えたんですか」
桐生先生は。
自分の手を見る。
「……助かったと思いました」
誰も。
すぐには声を出せなかった。
「何から?」
音羽さんが聞く。
「御影さんが訂正を求めないのであれば」
「はい」
「私が無断で放送したことを、大きく扱わなくて済む」
音羽さんの目が少し細くなる。
「だから」
「署名が本物かどうかを」
桐生先生は言った。
「確かめようとしませんでした」
長い沈黙。
「偽物だと知っていたんですか」
ぼくが聞く。
「いいえ」
「では、偽物かもしれないと思った?」
さらに。
沈黙。
「……思いました」
ひより先輩が、息を飲んだ。
「でも確認しなかった」
「はい」
「本物だったら都合がよかったから?」
音羽さんが聞く。
「はい」
短い返事。
それだけだった。
「先生」
音羽さんは言った。
「それ、記録に残してください」
「はい」
「署名が本物か疑ったけど、確認しなかった」
「はい」
「本人が訂正を望まないことにした方が、自分に都合がよかったから」
「……はい」
桐生先生は。
今度こそ。
言い逃れなかった。
ぼくは、その内容を記録する。
ただし。
まだ一つ残っている。
「この書類を作った人は、桐生先生ではない」
ぼくは言う。
「少なくとも、先生の説明では」
「はい」
「当時の教頭が作ったとも、まだ決められない」
御影朔くんが、画面越しにぼくを見る。
「教頭が持ってきたんですよね」
「それは桐生先生の証言です」
「なら」
「持ってきた人と、作った人が同じとは限りません」
御影くんが。
少し顔をしかめる。
「また分けるんですね」
「必要なので」
「……はい」
最近。
御影くんは、この言葉に反論しなくなった。
むしろ。
自分でも使い始めている。
少しだけ。
困る。
佐伯先生が言った。
「書類自体について、学校の事務担当にも確認を依頼しています」
「何がわかりますか」
ひより先輩が聞く。
「用紙の様式、受付印、当時の書類管理方法などです」
受付印。
ぼくは学校保管版を見る。
右上。
小さな赤い印。
星ヶ丘高校 事務受付。
日付。
音羽さんが橘さんへ申請書を渡した翌日。
「橘さんの申請書にも受付印はありますか」
「ある」
橘さんが控えを拡大して見せる。
同じ場所。
同じ印。
ただし。
日付が違う。
橘さんの控え。
六月十七日。
学校保管版。
六月十八日。
「一日違う」
ひより先輩が言う。
「はい」
「同じ処理番号なのに?」
「はい」
「そんなことある?」
「通常の運用なら、確認が必要です」
「つまり?」
「ぼくに聞かないでください」
「いつもの流れなら説明してくれるかと」
「事務担当に聞きます」
ひより先輩が。
少し不満そうな顔をした。
でも。
その数分後。
事務担当の先生から返ってきた答えは。
ぼくたち全員を黙らせた。
同じ処理番号で。
受付日が異なる書類は。
通常、存在しない。
訂正や差し替えを行う場合。
旧書類を廃棄せず。
訂正履歴を残す。
少なくとも。
当時の校内規程にも。
そう書かれている。
「では」
ひより先輩が言う。
「学校保管版は、正式な差し替え手続きを通っていない?」
「その可能性があります」
事務担当の先生が答える。
「ただし、当時の運用が規程通りだったかは別途確認します」
また。
本来は。
という話になる。
ルールがあっても。
守られていたとは限らない。
「受付印は本物ですか」
ぼくが聞く。
「印影だけでは断定できません」
「当時、誰が押せましたか」
「事務室職員。それから、職員室に簡易受付印が一つ置かれていました」
「教師も押せた?」
「可能です」
「生徒は?」
「本来は使用できません」
本来は。
ひより先輩と。
目が合う。
もう何度目かわからない。
「書記くん」
「言わないでください」
「まだ何も」
「本来は、ですよね」
「……成長したね」
「嫌な成長です」
さらに。
書類の紙にも違いが見つかった。
橘さんの控えの元となった申請書は。
当時、生徒会室で使われていた再生紙。
学校保管版は。
職員室のコピー用紙。
用紙の厚みが違う。
「つまり」
鳴海くんが言う。
「元の申請書へ書き足したのではない」
「はい」
ぼくは答える。
「別の紙に、もう一度作り直した可能性が高い」
「内容ごと」
「はい」
存在しない意思。
ただチェック欄を変えただけではない。
一枚の書類そのものが。
本人の希望とは違う形で作られた。
「署名は」
御影くんが言う。
「誰かが姉ちゃんの字をまねした」
「可能性はあります」
「誰が姉ちゃんの字を知っていた?」
「御影くん」
ひより先輩が止める。
「……はい」
「今、一人ずつ疑い始めない」
「わかってます」
そう答える御影くんの声は。
少し苦しそうだった。
以前なら。
誰が書いた。
誰が悪い。
そこへ一直線に進んでいた。
今は。
止まろうとしている。
音羽さんが言った。
「私の字を見た人は、たくさんいます」
「クラスの人」
「放送委員」
「先生」
「橘先輩」
「家族」
「だから、字だけでは決められません」
御影くんは。
姉を見る。
「……うん」
「朔」
「何」
「今、我慢した?」
「してる」
音羽さんが。
少し笑った。
「えらいね」
「子供みたいに言うなよ」
「弟だから」
「そういう意味じゃない」
ほんの一瞬。
普通の姉弟だった。
その時。
橘さんが言った。
「一つ、確認してほしいことがあります」
「何ですか」
ぼくが聞く。
「取り下げ書類の文章」
学校保管版。
下部には。
短い文章が印刷されている。
私は、校内放送内容について学校から説明を受け、訂正を希望しません。
「これ」
橘さんが言う。
「どこかで見たことがある」
全員が画面を見る。
「どこで?」
ひより先輩が聞く。
「少し待って」
橘さんが、昔の保存データを探し始める。
生徒会長時代の資料。
自宅に残していたデータの中から。
一つのファイルを開く。
放課後相談窓口 試行案。
第2版。
「これです」
相談を終了する場合の確認書。
本人が希望した場合。
相談の終了を記録するために。
橘さん自身が作った文章。
私は相談内容について説明を受け、これ以上の対応を希望しません。
学校保管版。
私は校内放送内容について学校から説明を受け、訂正を希望しません。
「似てる」
ひより先輩が言う。
「はい」
ぼくも答える。
完全に同じではない。
でも。
文の構造が近い。
「この試行案は、誰が見られましたか」
ぼくが聞く。
橘さんが答える。
「生徒会役員」
「ほかには?」
「担当の先生」
「学校へ提出しましたか」
「一度」
「誰へ?」
「当時の生徒会担当」
「名前は?」
学校側が記録を確認する。
数年前。
生徒会担当教員。
桐生先生ではない。
佐伯先生でもない。
当時の教頭でもない。
名前。
藤崎俊介。
「今も学校に?」
ひより先輩が聞く。
管理職の先生が答える。
「います」
現在。
進路指導部長。
「藤崎先生……」
ひより先輩がつぶやく。
知っている名前だった。
三年生の進路相談。
推薦書類。
大学説明会。
多くの生徒が世話になる先生。
「でも」
ぼくは言う。
「試行案を見たことと、偽の書類を作ったことは別です」
「わかってる」
ひより先輩が答える。
「まだ誰も決めない」
今回は。
ぼくより先に言った。
「成長しましたね」
「書記くんに言われると腹立つな」
佐伯先生が、藤崎先生への確認は管理職を通すと言った。
ただし。
その前に。
過去の生徒会資料。
職員会議記録。
申請書の作成データ。
保存されている範囲を保全する。
本人へ直接、
あなたが作ったんですか。
とは聞かない。
先に記録を確保する。
御影くんが。
静かに言った。
「証拠を消されるかもしれないから」
「その可能性も考えます」
佐伯先生が答える。
「でも」
御影くんが続ける。
「疑ってるから隠れて調べるんじゃない」
佐伯先生が、彼を見る。
「学校として必要な記録を保全する」
「はい」
「……そういうことですね」
「そうです」
御影くんは。
少し考えて。
「僕、一年前なら勝手に藤崎先生のパソコン見に行ってました」
ひより先輩が即座に言う。
「絶対やめてね」
「今はやりません」
「今後も」
「はい」
「本当に?」
「……たぶん」
「朔くん」
音羽さんの声。
「やりません」
即答だった。
姉は強い。
学校側の確認が進んだ。
藤崎先生本人にはまだ知らせず。
当時の生徒会担当資料が保管されている書庫を確認する。
そこに。
放課後相談窓口 試行案。
第1版。
第2版。
第3版。
橘さんが提出した資料が残っていた。
そして。
第2版の後ろに。
見覚えのある書類が挟まれていた。
校内放送内容訂正申請 取り下げ確認書。
「……同じ」
ひより先輩が言う。
学校保管版と。
ほぼ同じ形式。
ただし。
こちらは空欄。
署名も。
チェックもない。
「誰が作成した様式ですか」
ぼくが聞く。
用紙の下。
非常に小さな文字。
作成者情報。
FUJISAKI。
藤崎。
「……」
誰も。
すぐには口を開かなかった。
御影くんも。
止まっている。
「作った書式がある」
ぼくは言った。
「でも」
御影くんが続ける。
「音羽の名前を書いた人が、藤崎先生だとはまだ決まらない」
「はい」
自分で言えた。
「じゃあ……何を確認する?」
御影くんが聞く。
「なぜこの書式を作ったのか」
ぼくは答えた。
「いつ作ったのか」
「誰へ渡したのか」
「学校保管版の申請書と同じファイルから印刷されたのか」
「それから」
ひより先輩が言う。
「音羽さん本人に確認したか」
「はい」
いつも。
最後はそこへ戻る。
本人。
御影音羽さん。
音羽さんは画面越しに。
空欄の書類を見ていた。
「この紙」
「覚えがありますか」
ぼくが聞く。
「……あります」
「どこで?」
「学校を辞める前日」
全員の空気が変わった。
「橘先輩と会ったあと」
音羽さんは言う。
「進路指導室へ呼ばれました」
「誰に?」
長い沈黙。
「藤崎先生です」
当時。
生徒会担当。
そして。
進路指導担当でもあった教師。
「何を話しましたか」
佐伯先生が聞く。
音羽さんは。
思い出すように、ゆっくり言った。
「学校を辞めたあと、どうするつもりか」
「はい」
「転校するのか」
「はい」
「これ以上、学校と争うつもりがあるのか」
ひより先輩の顔が硬くなる。
「争う?」
「そう言われました」
「訂正を求めることを?」
音羽さんはうなずく。
「私は、争いたいわけじゃないって言いました」
「はい」
「ただ……違うことを違うと残してほしいだけですって」
「そのあと?」
「藤崎先生が、紙を出しました」
画面の中。
音羽さんの指が。
空欄の取り下げ確認書を指す。
「たぶん……これです」
御影くんが。
椅子から少し前へ出る。
「書いたの?」
「書いてない」
「本当に?」
「朔」
「……ごめん」
御影くんは。
すぐに引いた。
音羽さんは続ける。
「先生は」
「ここに署名すれば、もう学校から連絡しなくて済むと言いました」
「内容は?」
「詳しく説明されませんでした」
「署名した?」
「しませんでした」
「なぜ?」
音羽さんの表情が。
少しだけ変わった。
「橘先輩に」
画面の向こう。
橘さんが顔を上げる。
「わからない書類には、すぐ署名するなって言われてたから」
橘さんが。
小さく笑った。
「言った」
「覚えてたんですね」
「そこは」
音羽さんも。
ほんの少しだけ笑った。
「それで、藤崎先生に持ち帰って考えたいと言いました」
「先生は?」
「だめだと言いました」
「理由は?」
「学校の内部書類だから」
「その場で署名するように?」
「はい」
「断った?」
「はい」
「そのあとは?」
音羽さんの顔から。
笑みが消える。
「先生が言いました」
少し。
間が空く。
「では、あなたがこれ以上の対応を望んでいないことは、こちらで確認しておきます」
会議室が。
静まり返った。
「それ……」
ひより先輩が言う。
「どういう意味?」
「私にも、わかりませんでした」
音羽さんは答える。
「でも、その次の日から学校へ来なかった」
「はい」
「その後」
「桐生先生から手紙が届いた」
訂正を希望しないと書いてくれて、ありがとう。
音羽さんは。
書いていない。
署名もしていない。
でも。
学校には。
署名された取り下げ書が残っている。
「先生」
音羽さんが言った。
「藤崎先生に確認してください」
「はい」
「でも」
「はい」
「私が、あの先生が偽造したと言ったことにはしないでください」
佐伯先生が、少し驚く。
「まだ、確認できていないから?」
「はい」
御影くんが。
姉を見る。
音羽さんは続けた。
「私、ずっと」
「自分の声なのに、自分の言葉じゃないものに苦しめられました」
「だから」
「今度は私が、誰かに言っていないことを言わせたくありません」
御影くんは。
しばらく姉を見ていた。
「……姉ちゃん」
「何?」
「変わったね」
「そう?」
「昔なら、もっと怒ってた」
音羽さんは。
少し考える。
「今も怒ってるよ」
「見えない」
「ものすごく怒ってる」
「……そっか」
「でも」
音羽さんは言った。
「怒ってるから、間違えたくない」
その言葉に。
ひより先輩が。
小さくうなずいた。
翌日。
藤崎俊介先生への正式な聞き取りが行われることになった。
本人へは。
御影音羽さんの過去の申請書類について確認したい。
それだけが伝えられた。
御影くん。
ひより先輩。
ぼく。
生徒は同席しない。
まず、教職員と管理職で確認する。
本人が望めば。
その後。
音羽さんとの話し合いの場を設ける。
その日の相談番号零は。
そこで終了する予定だった。
ぼくが記録用紙を閉じようとした時。
鳴海くんが言った。
「待ってください」
「どうしました」
「空欄の取り下げ確認書」
ノートパソコンへ画像を表示する。
「作成日時の記録が残っています」
「いつですか」
「御影音羽先輩が藤崎先生と会った日の……翌日」
ぼくは手を止める。
「翌日?」
「はい」
音羽さんが実際に見たという書類は。
会った時点では。
まだ電子ファイルとして作成されていない。
「じゃあ」
ひより先輩が言う。
「音羽さんが見た紙と、これ……別物?」
「可能性があります」
鳴海くんが答える。
さらに。
ファイルの更新履歴。
作成。
午前八時十二分。
更新。
午前八時四十七分。
印刷。
午前八時五十一分。
その日。
御影音羽さんは。
すでに学校を欠席していた。
そして。
印刷から六分後。
学校保管版の受付印。
午前八時五十七分。
たった四十五分ほどで。
電子書類が作られ。
御影音羽という署名が入り。
本人意思確認済となり。
正式な学校記録になっている。
本人が。
学校にいない時間に。
「……存在しない意思」
ひより先輩がつぶやいた。
ぼくは。
学校保管版を見る。
音声なら。
切り貼りされた場所を探せる。
写真なら。
撮影位置や加工跡を確認できる。
でも。
紙に書かれた意思は。
一度正式な記録になれば。
本人が本当にそう言ったように残り続ける。
何年も。
「書記くん」
「はい」
「この書類」
「はい」
「誰かが作ったんだよね」
「はい」
「でも……」
先輩は。
学校保管版を見た。
「作った人だけじゃなくて」
「はい」
「受け取った人」
「はい」
「確認済って書いた人」
「はい」
「そのまま保管した学校」
ぼくはうなずく。
「一人だけで、ここまで正式な記録にはできません」
御影音羽さんの意思を消したのは。
一本のペンだけではなかった。
疑わなかった人。
確認しなかった人。
都合のいい書類を受け取った人。
そして。
記録を正しいものとして残した学校。
存在しない意思は。
誰か一人が作った偽物ではなく。
何人もの「確認しなかった」が積み重なって。
本物の記録になっていた。
第38話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、学校に残されていた「訂正を希望しない」という書類について、さらに確認を進めました。
桐生先生が書いた、
本人意思確認済。
しかし桐生先生自身は、音羽本人へ確認していませんでした。
署名が本物ではない可能性を感じながらも、
訂正を希望しない方が自分に都合がよかった。
そのため、確認しなかったと認めます。
さらに、学校保管版とは別に、当時の生徒会担当・藤崎俊介先生が作った「取り下げ確認書」の様式が発見されました。
音羽本人も、退学前日に藤崎先生から似た書類への署名を求められたことを思い出します。
しかし、音羽は署名していません。
そして新たな矛盾。
学校に残る取り下げ確認書の電子データが作られたのは、音羽が藤崎先生と会った翌日。
すでに音羽が学校へ来ていない時間でした。
本人がいない間に作られた書類。
本人が書いていない署名。
本人へ確認していない「本人意思確認済」。
存在しない声から始まった事件は、ついに「存在しない意思」へ。
次回は、当時の生徒会担当・藤崎俊介先生への確認が始まります。
しかし――。
音羽の意思を消した責任は、本当に一人の教師だけにあるのでしょうか。




