第37話 相談室ができる前
御影音羽が学校を辞める前日。
彼女が校門前で会っていた人物は、教師ではなかった。
当時の星ヶ丘高校、生徒会長。
その写真を見つけた御影朔は、新たな資料とともに問いを残す。
なぜ、生徒会長は音羽と会っていたのか。
そして調査を進めた先で見つかったのは――。
現在の放課後相談室ができるより、ずっと前に作られようとしていた「相談室」の記録だった。
「当時の星ヶ丘高校生徒会長……」
一ノ瀬ひより先輩は、パソコンに表示された写真を見つめていた。
校門前。
御影音羽さん。
その向かいに、一人の男子生徒。
写真は遠くから撮られていて、表情まではわからない。
ただ。
胸元の名札と、生徒会役員用の腕章は確認できる。
「名前は?」
ひより先輩が聞く。
「生徒名簿を生徒が直接確認することはできません」
ぼくは答えた。
「またそれ?」
「必要なので」
「まだ何も言ってないよ」
「言われる前に答えました」
「最近、先回りするようになったよね」
隣で鳴海律くんが小さく言った。
「一ノ瀬先輩の扱いに慣れたんだと思います」
「鳴海くん?」
「事実です」
「一年生二人に雑に扱われてない?」
「先輩の日頃の積み重ねです」
「書記くんまで」
少しだけ。
いつもの空気が戻る。
でも。
机の上には、古いカセットテープがある。
御影音羽さんの事件。
佐伯先生が果たせなかった二つの約束。
そして。
退学前日に音羽さんと会っていた生徒会長。
何も軽くはなっていない。
佐伯先生は、現在進められている学校側の調査について、自分が当事者の一人であることを申告した。
そのため。
過去の学校対応に関する確認については、佐伯先生一人では判断しない。
管理職と別の教員も加わることになった。
佐伯先生自身が提案したらしい。
「自分が確認される側なら、自分だけで記録を扱うべきではありません」
先生は、そう言った。
だから今回。
数年前の生徒会記録を調べる作業も、学校側の立ち会いで行われる。
しばらくして。
当時の生徒会長の名前が確認された。
橘圭吾。
当時、三年一組。
生徒会長。
卒業後は県外の大学へ進学している。
「橘圭吾……」
ひより先輩が名前を繰り返す。
「聞いたことありますか」
ぼくが聞く。
「あるような……ないような」
「どちらですか」
「生徒会室の歴代会長写真で見たかも」
「あそこに写真が?」
「あるよ」
「知りませんでした」
「書記くんなのに?」
「過去の会長の顔を覚える業務はありません」
「必要じゃないんだ」
「今、必要になりました」
鳴海くんがぼくを見る。
「便利ですね、その言葉」
「鳴海くんには言われたくありません」
橘圭吾さんへの連絡は、学校から行われた。
御影音羽さん本人にも確認する。
橘さんへ連絡を取ってよいか。
自分の過去の話を伝えてよい範囲はどこまでか。
音羽さんから返ってきた答えは。
橘先輩なら、話して大丈夫です。
その一文に続いて。
できれば、私も聞きたいです。
だから。
翌日の放課後。
臨時相談場所になっている会議室の机に、ノートパソコンが一台置かれた。
画面の向こう。
二十代前半の男性が映っている。
少し長めの黒髪。
細い眼鏡。
白いシャツ。
写真に写っていた高校生より、大人になっている。
でも。
目元は同じだった。
「橘圭吾です」
落ち着いた声。
「久しぶりですね、音羽さん」
別の端末から参加している御影音羽さんが答えた。
「……お久しぶりです」
「元気でしたか、とは聞かない方がいいかな」
「そうですね」
「わかりました」
それ以上。
無理に距離を縮めようとはしなかった。
ひより先輩が、小さな声でぼくへ言う。
「何か、話し方が書記くんっぽい」
「どこがですか」
「余計なところまで踏み込まない感じ」
「褒めていますか」
「半分」
「残り半分は?」
「面倒くさい」
「相談を続けます」
画面の向こうで。
橘さんが少し笑った。
「君が高槻くん?」
「はい」
「当時の俺より、ずっと書記らしいね」
「当時の橘さんは?」
「書記仕事は副会長に押しつけてた」
「元会長」
音羽さんの声が少し呆れる。
「昔からそうでしたね」
「覚えてた?」
「嫌なところは」
「それは光栄です」
ほんの短い会話。
でも。
音羽さんの声が、これまでより少し柔らかかった。
二人は。
確かに知り合いだった。
管理職の先生が、話を始める。
「橘さん。本日は、御影音羽さんが退学する前日に、あなたが校門付近で会っていた件について確認したいと思います」
橘さんはうなずく。
「写真を見ました」
「覚えていますか」
「覚えています」
即答だった。
「何を話していたんですか」
橘さんは。
音羽さんを見る。
「俺から話していい?」
音羽さんが少し驚いた顔をする。
それから。
「はい」
と答えた。
「音羽さんが学校を辞めると聞いて」
橘さんは言った。
「止めに行った……わけではありません」
ひより先輩が少し反応する。
「止めなかったんですか」
「止めてほしいと言われていなかったから」
「……」
「俺が聞きに行ったのは、一つです」
橘さんは音羽さんを見る。
「学校に残したいことはあるか」
音羽さんが、目を伏せる。
「あの時……そう聞かれました」
「はい」
「私は」
少し考えてから。
音羽さん自身が続けた。
「訂正したいって言いました」
御影朔くんの事件を追う中で。
何度も出てきた言葉。
訂正。
私は告白していない。
あの音声は編集した練習データだった。
それを。
学校として残してほしい。
「でも」
音羽さんは言う。
「全校放送をもう一度流すのは……その時は怖くなっていました」
「最初は希望していた?」
ぼくが確認する。
「はい」
「途中で変わった?」
「はい」
「訂正そのものをやめたかった?」
音羽さんは首を横に振った。
「違います」
はっきりした答えだった。
「全校放送以外の方法にしたかった」
「例えば?」
「学校の記録に残す」
「関係した生徒や先生には、本当のことを伝える」
「あと……」
音羽さんは少し迷った。
「相手の男の子にも、私が告白したわけじゃないって正式に伝えてほしかった」
「なるほど」
ぼくは記録する。
訂正を希望しなくなった、ではない。
訂正方法を変えたかった。
これは。
かなり違う。
「橘さんは、それを聞いて?」
ひより先輩が尋ねる。
「申請書を作りました」
「申請書?」
橘さんは、画面の外から一枚の紙を取り出した。
透明なファイルに入っている。
古い書類。
上部には。
校内放送内容訂正申請。
「まだ持ってるんですか」
音羽さんが驚く。
「コピーです」
橘さんは答える。
「原本は学校へ提出しました」
「どうしてコピーを?」
「生徒会として提出した書類は、控えを残す決まりだったから」
ぼくは、少し身を乗り出す。
「当時の生徒会規定ですか」
「そう」
「残っていますか」
「たぶん、学校にも」
現在の生徒会書類に。
そんな申請用紙はない。
「誰が作った様式ですか」
「俺です」
「橘さんが?」
「正式な学校書式じゃない」
橘さんは少し苦笑する。
「音羽さんの件で、必要になったから作った」
申請内容。
校内放送で事実と異なる音声が放送されたため、学校側による記録訂正を求める。
希望する対応。
・全校への再放送は現時点では希望しない。
・放送内容が本人の実際の発言ではなかったことを学校記録へ残す。
・関係生徒への説明を希望する。
・今後、本人の許可なく音声を使用しない。
そして。
一番下。
申請者。
御影音羽。
「これは……」
音羽さんが画面を見る。
「私が書いたものです」
「間違いありませんか」
「はい」
「署名も?」
「私です」
橘さんが言う。
「提出したのは、音羽さんが学校を辞める前日」
写真が撮られた日。
校門で会ったあと。
橘さんは申請書を持って職員室へ向かった。
「誰へ提出しました?」
ぼくが聞く。
「当時の教頭」
会議室が少し静かになる。
音羽さんの件を。
訂正しないと判断した人物。
「受け取った?」
「受け取りました」
「返事は?」
「翌日」
音羽さんが学校へ来なくなった日。
教頭から。
対応不要。
そう言われた。
「理由は?」
ひより先輩が聞く。
橘さんの表情が硬くなる。
「本人から、訂正を希望しないと申し出があった」
「……え?」
音羽さんが言った。
「私は言ってません」
「そうだよね」
橘さんは答える。
「だから俺も、その場でそう言った」
『昨日、本人から直接聞きました』
『訂正は希望しています』
すると。
当時の教頭は。
一枚の書類を見せた。
「どんな書類ですか」
ぼくが聞く。
橘さんは。
少し間を置いた。
「音羽さんが訂正申請を取り下げる、と書かれた書類」
御影朔くんが画面の向こうで顔を上げる。
今日は。
学校と保護者の許可を得て。
相談番号零の関係者として同席している。
「姉ちゃんが?」
「書類上は」
橘さんは答える。
「署名もあった」
音羽さんの顔が硬くなる。
「私は……書いてません」
「俺も、そう思った」
「どうして?」
「署名が違った」
音羽さんが息を止める。
橘さんは続ける。
「音羽さんの字は、前日に見ていたから」
申請書の署名。
御影音羽。
橘さんは、その場で本人が書くところを見ている。
しかし。
翌日見せられた取り下げ書。
そこにあった署名は。
似ている。
でも。
違った。
「確認させてほしいと言いました」
橘さんは言う。
「でも、原本は見せてもらえなかった」
「見せてもらったんじゃ?」
「遠くから」
「コピーは?」
「もらえませんでした」
「写真は?」
「撮影禁止だと言われた」
ひより先輩が。
小さくつぶやく。
「それで……終わった?」
「終わらせませんでした」
橘さんの声が少し変わった。
「生徒会で、別の方法を考えた」
「何を?」
「生徒が、先生を通さなくても相談できる場所」
ぼくは。
ペンを止めた。
ひより先輩も。
橘さんを見る。
「先生を通さない?」
「正確には、最初の入口を生徒にする」
橘さんは説明する。
「先生へ直接言えないこともある」
「音羽さんみたいに、先生自身が関係者の場合もある」
「だから」
生徒が最初に話を聞く。
必要なら、本人へ説明した上で先生へつなぐ。
記録は最小限。
勝手に公開しない。
本人の代わりに答えを決めない。
ぼくとひより先輩は。
顔を見合わせた。
今の。
放課後相談室に近い。
「名前は?」
ひより先輩が聞く。
橘さんは少し笑った。
「放課後相談窓口」
「……」
「そのままだね」
「当時はネーミングセンスがなかった」
「今もでは?」
音羽さんが言う。
「ひどいな」
でも。
その目は、少し懐かしそうだった。
「どこでやる予定だったんですか」
ぼくが聞く。
「空いていた進路指導室」
誰も。
すぐには言葉を出せなかった。
現在。
放課後相談室として使っている。
旧進路指導室。
そこは。
偶然選ばれた部屋ではなかった。
数年前。
音羽さんの事件をきっかけに。
生徒が相談できる場所として、一度使われようとしていた。
「実施されたんですか」
「されてない」
橘さんは答える。
「学校から許可が出なかった」
「理由は?」
「生徒が他の生徒の個人情報を扱うのは危険」
「教師を通さない相談窓口は認められない」
「問題が起きた時に責任を取れない」
理由だけを見れば。
理解できないものではない。
実際。
現在の放課後相談室も。
同じ問題と何度も向き合っている。
秘密。
記録。
先生へつなぐ範囲。
生徒だけで抱え込まないルール。
「学校が全部間違っていたわけではないんですね」
ぼくが言う。
「そう思う」
橘さんはうなずく。
「当時の案は、かなり雑だった」
「相談内容を生徒会で共有する案も入ってたし」
「今考えれば危ない」
「でも」
橘さんの表情が少し曇る。
「却下されたあと、改善案を出す機会はなかった」
「一度駄目で、終わった」
音羽さんが静かに言う。
「私も、もう学校を辞めてたから」
橘さんは。
学校へ残った。
そして。
卒業までの数か月。
放課後相談窓口の案を、一人で直し続けた。
相談内容を全員で共有しない。
匿名番号を使う。
教師へつなぐ条件を事前に決める。
本人へ説明する。
相談員も一人で抱えない。
その案は。
正式には採用されなかった。
「書類はどうしたんですか」
ぼくが聞く。
「旧進路指導室の資料棚に残した」
ひより先輩が。
目を見開く。
「……私、その部屋を使い始めた時」
「何か見た?」
「古いファイルがあった」
「どんな?」
「相談……何とかって」
先輩は眉を寄せる。
「でも、ほとんど空だったから」
「捨てた?」
「捨ててない」
「どこへ?」
「生徒会室の古い資料棚に移したと思う」
ぼくは立ち上がりかけた。
「今から確認を」
「高槻くん」
管理職の先生に止められる。
「先生立ち会いで」
「……はい」
ひより先輩が小さく笑う。
「書記くん、今、完全に一人で行こうとしたね」
「必要な資料だったので」
「私には一人で行くなって言うのに」
「資料棚と屋上を同列にしないでください」
「でもルールは?」
「……先生を待ちます」
「よろしい」
なぜ。
ぼくが注意されているのだろう。
画面の向こうで橘さんが笑っていた。
「いい相談室になったみたいだね」
ひより先輩が答える。
「失敗しながらですけど」
「その方が信用できる」
「どうして?」
「最初から完璧だと思ってる場所の方が怖い」
少し。
わかる気がした。
その日のうちに。
古い生徒会資料が確認された。
段ボール箱。
平成、令和の行事資料。
予算申請。
生徒総会。
文化祭。
その下。
薄い青色のファイル。
放課後相談窓口 試行案。
作成者。
生徒会長 橘圭吾。
ページをめくる。
目的。
生徒が問題を一人で抱え込まず、必要な支援へつながるための最初の相談場所を作る。
相談員は答えを決めない。
相談者本人の意思を確認する。
安全・規則違反等に関わる場合は、事前説明のうえ教職員へつなぐ。
現在の放課後相談室と。
完全に同じではない。
でも。
考え方は近かった。
「先輩」
ぼくは言う。
「一ノ瀬先輩が作った相談室より前に」
「うん」
「同じことを考えた人がいた」
ひより先輩は、少し複雑そうに笑う。
「私、名探偵どころか二番煎じだった?」
「目的が違います」
「最初は恋愛相談室だったもんね」
「はい」
「それはそれで恥ずかしいな……」
「今さらです」
「書記くん?」
ファイルの最後。
試行相談記録。
一枚だけ。
相談者名は。
空白。
相談番号。
0。
ぼくの手が止まる。
「零……」
ひより先輩も気づいた。
相談番号零。
御影朔くんが、自分へつけた番号。
でも。
それより数年前から。
この番号は存在していた。
記録内容。
校内放送で、本人の意思と異なる内容が流された。
本人は訂正を希望。
学校側の正式な対応は未確定。
相談継続不能。
理由。
相談者退学のため。
「……音羽さん」
ひより先輩が、画面越しに呼ぶ。
音羽さんは。
しばらく何も言わなかった。
「これ、知っていましたか」
「いいえ」
「橘さんは?」
橘さんがうなずく。
「俺が作った」
御影朔くんの表情が変わる。
「じゃあ……」
「朔くん」
橘さんが言う。
「君が使っていた相談番号零は、ここから取ったんだろう?」
長い沈黙。
そして。
御影くんがうなずいた。
「はい」
「いつ見つけた?」
ぼくが聞く。
「去年の文化祭です」
旧進路指導室。
機材撤去。
その時。
御影くんは偶然、古いファイルを見つけた。
自分の姉。
相談番号0。
相談継続不能。
「姉の相談が……途中で捨てられたように見えました」
御影くんは言う。
「だから」
「自分で続けようと思った?」
「はい」
「相談番号零を名乗って」
「はい」
ひより先輩は。
ファイルの文字を見つめた。
「朔くん」
「はい」
「これは、音羽さんの番号だった」
「はい」
「でも」
先輩は。
ゆっくり言った。
「今の相談番号零は、御影くんのものだよ」
御影くんが顔を上げる。
「お姉さんの続きを、あなたが代わりにやらなくていい」
「……」
「音羽さんの相談が途中だったことは、事実」
「でも、続きをどうするか決めるのは音羽さん」
音羽さんが、静かにうなずく。
「私は」
少し考えてから。
「今は、あの時の相談を再開したいとは思っていません」
御影くんの顔が揺れる。
でも。
口を挟まない。
「学校の記録は確認したい」
「訂正するかも、自分で決めたい」
「でも……私はもう、当時の相談者として戻りたいわけじゃない」
「はい」
御影くんが答える。
苦しそうだった。
それでも。
受け止めた。
ひより先輩が言う。
「だから相談番号零は」
御影くんを見る。
「今は、あなたの相談」
御影くんは。
小さく息を吐いた。
「……わかりました」
ファイルには。
もう一枚。
紙が挟まっていた。
橘さんが作った申請書の控え。
御影音羽さんが。
自分で署名したもの。
校内放送内容訂正申請。
その横に。
学校側の処理番号が書かれている。
ぼくは、現在の学校記録と照合した。
同じ処理番号。
同じ日付。
同じ申請者。
でも。
保管されている内容が違う。
「……おかしいです」
ぼくが言う。
「何が?」
ひより先輩が覗き込む。
学校側に残っている書類。
処理番号、同一。
タイトル。
校内放送内容訂正申請。
申請者。
御影音羽。
しかし。
希望する対応。
訂正を希望しない。
橘さんの控え。
訂正を希望する。
学校保管版。
訂正を希望しない。
同じ番号。
同じ日。
同じ生徒。
二つの申請書。
「音羽さん」
ぼくは確認する。
「この学校保管版を見たことは?」
画面の向こうで。
音羽さんの顔色が変わった。
「ありません」
「このチェックは?」
訂正を希望しない。
「つけてません」
「署名は?」
画面を拡大する。
御影音羽。
一見。
本人の字に似ている。
音羽さんは。
しばらく見つめた。
「……違います」
御影くんが立ち上がりかける。
「誰が」
「待ってください」
ぼくは止めた。
「まだ誰が作ったかはわかりません」
「でも偽物だろ!」
「本人が、自分の署名ではないと言っています」
「だから」
「その事実と、作成者が誰かは別です」
御影くんは。
拳を握った。
それから。
ゆっくり座り直す。
「……はい」
少しずつ。
彼も、止まれるようになっている。
橘さんが。
画面の向こうから言った。
「高槻くん」
「はい」
「裏面を見て」
学校保管版。
二ページ目。
処理欄。
担当者。
そこには。
手書きの名字がある。
桐生。
その下。
確認。
当時の教頭。
そして。
さらに小さな文字。
本人意思確認済。
「音羽さん」
ひより先輩が。
かすれた声で聞く。
「先生たちから、この書類について確認されたことは?」
音羽さんは。
首を横に振った。
「ありません」
「一度も?」
「ありません」
つまり。
少なくとも音羽さん本人の記憶では。
本人の意思を確認していない。
それなのに。
学校の記録には。
本人意思確認済。
と残っている。
橘さんが、小さく言った。
「俺があの時見せられたのも……たぶん、それだ」
学校は。
訂正をしなかっただけではない可能性が出てきた。
訂正を希望した生徒が。
希望しなかったことになっている。
「書記くん」
ひより先輩が言う。
「これって……」
「まだ決めません」
ぼくは答えた。
「書類がいつ作られたのか」
「誰が書いたのか」
「原本なのか」
「あとから差し替えられたのか」
「確認が必要です」
「うん」
でも。
手が震えていた。
ぼく自身。
怒っている。
記録は。
本人の言葉を守るためにある。
それがもし。
本人の意思を消すために使われていたなら。
御影朔くんが、記録へ執着するようになった理由が。
少しだけ。
わかってしまう。
だからこそ。
記録だけで決めてはいけない。
本人へ聞く。
別の記録と比べる。
確認する。
その時。
音羽さんが言った。
「高槻くん」
「はい」
「一つ、思い出しました」
「何をですか」
音羽さんの顔が。
少し青ざめている。
「学校を辞めたあと」
「はい」
「一度だけ、桐生先生から手紙が来ました」
全員が黙る。
「どんな内容ですか」
音羽さんは。
ゆっくり答えた。
「訂正を希望しないと書いてくれて、ありがとうって」
御影朔くんの顔が歪む。
「姉ちゃんは書いてないんだよな」
「書いてない」
「じゃあ」
「朔」
音羽さんが止める。
「まだ決めない」
御影くんが。
姉を見る。
音羽さんは震えていた。
それでも。
自分で言った。
「……確認する」
御影くんは。
しばらく黙って。
「うん」
と答えた。
相談室ができる前。
一人の生徒が。
自分の言葉を訂正したいと願った。
その願いは。
記録の上で、反対の意味へ変わっていた。
そして今。
数年後の放課後相談室で。
ぼくたちは。
声ではなく。
一枚の紙に作られた「存在しない意思」と向き合おうとしていた。
第37話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、御影音羽が退学する前日に会っていた、当時の生徒会長・橘圭吾が登場しました。
橘は音羽を学校へ引き止めるのではなく、
学校に残したいことはあるか。
と本人へ確認していました。
音羽が望んだのは、事件そのものを消すことではありません。
自分が告白したという誤った記録を訂正すること。
ただし、再び全校放送で注目を集めるのではなく、学校記録や関係者への説明という形を希望していました。
そして橘は、この事件をきっかけに、教師へ直接話しづらい生徒が最初に相談できる「放課後相談窓口」を提案していました。
場所は、旧進路指導室。
現在の放課後相談室と同じ場所です。
さらに、古い資料から見つかった「相談番号0」。
それはもともと、御影音羽の未完了の相談記録でした。
御影朔は、その記録を見つけ、自分を「相談番号零」と名乗っていました。
しかし、一ノ瀬ひよりは伝えます。
お姉さんの続きを、あなたが代わりにやらなくていい。
現在の相談番号零は、御影朔自身の相談です。
そして最後。
橘が保管していた訂正申請の控えと、現在学校に残る申請書には、まったく逆の内容が書かれていました。
橘の控え――訂正を希望する。
学校の記録――訂正を希望しない。
しかも学校側の書類には、
本人意思確認済。
と記録されています。
音羽本人は、そんな確認を受けていません。
さらに音羽は思い出します。
退学後、桐生先生から届いた手紙。
訂正を希望しないと書いてくれて、ありがとう。
次回は、誰が音羽の意思を「希望しない」に変えたのか。
声の偽造から始まった事件は、今度は学校記録の偽造疑惑へ進んでいきます。




