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第32話 相談番号零

屋上には、誰もいなかった。


青柳楓の鞄だけが残され、本人のスマートフォンは放課後相談室の古いロッカーから見つかった。


そして電話をかけてきた人物は、自分を「相談者」と名乗った。


ずっと相談室のそばにいたのに、一度も相談者として見てもらえなかった人は、どうすればいいですか。


一年前の写真には、一ノ瀬ひより、水瀬灯里、青柳楓の背後に立つ、四人目の生徒が写っていた。



「放課後相談室は、放課後だけ名探偵になる」


加工された声が、耳の奥に残っていた。


「でも……名探偵は、自分の隣にいる相談者には気づかない」


通話は、そこで切れた。


青柳楓先輩のスマートフォンには、通話時間だけが表示されている。


発信元は、水瀬灯里さんの電話番号。


けれど、話していたのは灯里さんではない。


番号を偽装したのか。

灯里さんの端末を一時的に利用したのか。


今のぼくたちには、まだ判断できない。


「……楓は無事なんだよね」


一ノ瀬ひより先輩が言った。


誰に確認するでもない、小さな声だった。


電話の相手は、安全だと言った。


けれど、それを信じる理由はない。


「青柳先輩本人の確認が取れるまでは、無事だとは判断できません」


ぼくが答えると、ひより先輩は唇を結んだ。


「うん……そうだよね」


佐伯先生は、青柳先輩のスマートフォンを机へ置いた。


「この電話は、学校で保管します。これ以上、こちらから操作はしません」


すでに学校は、青柳先輩の保護者へ連絡している。


屋上への呼び出し。

鞄の発見。

本人と連絡が取れないこと。

不審な音声。

スマートフォンが別の場所で見つかったこと。


単なる生徒同士のいたずらではない。


先生は、管理職と警察への相談も進めていた。


放課後相談室の生徒だけで探し回る段階ではない。


「青柳さんを見つけても、生徒だけで接触しないでください」


佐伯先生が言った。


「相手が近くにいる可能性もあります」


「わかりました」


ぼくは答えた。


ひより先輩も、少し遅れてうなずく。


「……はい」


相談室の机には、一枚の相談記録用紙が置かれている。


相談番号、零。


相談内容。


放課後相談室を終わらせたいです。


でも、一ノ瀬ひよりは終わらせてくれません。


希望する対応。


一ノ瀬ひよりに、すべてを思い出してもらう。


その裏面には、一年前の文化祭で撮られた写真。


旧進路指導室の前。


一ノ瀬ひより先輩。

水瀬灯里さん。

青柳楓先輩。


そして、三人の後ろに立つ四人目。


顔は、ドアの影に隠れている。


手には、小型の音声レコーダー。


録音中であることを示す赤いランプが、小さく光っていた。


「この写真の元データを確認できますか」


ぼくが聞くと、佐伯先生がうなずいた。


「学校の記録写真であれば、文化祭実行委員会か広報担当に残っている可能性があります」


「写真を撮った人物も確認したいです」


「そうですね。ただし、写真に写っている生徒の特定を、生徒間で広く呼びかけることはしません」


「はい」


写真を全校へ見せれば、早く名前がわかるかもしれない。


でも、そうすれば四人目の人物だけでなく、灯里さんの過去まで再び広がる。


写真を見た生徒が、勝手な推測を始める可能性もある。


誰かを探すために、別の誰かの秘密を公開してはいけない。


「三枝先輩」


ぼくは確認担当の三枝莉子先輩を見る。


「相談室へ入った人物が、ほかに何か残していないか確認できますか」


「できるわ。ただし、先生の立ち会いでね」


三枝先輩は室内を見回した。


机。

椅子。

書類棚。

古いロッカー。

鍵付きの保管箱。


「箱は開けられていないように見える」


「はい。鍵はぼくと佐伯先生が持っています」


「相談記録が盗まれた可能性は低い」


「でも、相談者の名前は知られていました」


ひより先輩が言った。


白石すず。

早川琴音。

朝倉澪。

成瀬冬馬。


どの生徒が相談室へ来たのか。

どんな言葉を口にしたのか。


電話の相手は知っている。


「相談記録を読まなくても、相談室への出入りを見ていれば、ある程度はわかります」


黒崎悠真先輩が言った。


「部活動や委員会の出来事と結びつけることもできる」


「でも、成瀬くんが『戻ってこいと言わないでください』と話したことまで知っていました」


ひより先輩が答える。


「あれは、放課後相談室の中で話した言葉です」


部屋の空気が重くなる。


成瀬くんの言葉は、校内放送や公開記録には残っていない。


ぼくの相談記録にも、本人の希望として文章は残っている。


しかし、保管箱は開けられていない。


なら、可能性は限られる。


「盗聴……?」


ひより先輩が、周囲を見回した。


「まだ決められません」


ぼくは答えた。


「部屋の外で聞かれていた可能性もあります。誰かが関係者から聞いた可能性もある」


「でも、確認は必要ね」


三枝先輩が言う。


佐伯先生は、学校の情報担当と設備担当にも相談すると答えた。


ぼくたちが勝手に壁や机を壊して探すわけにはいかない。


「それまで、この部屋は使用停止にします」


先生の言葉に、ひより先輩の表情が揺れた。


「相談室を……閉めるんですか」


「一時的にです」


「でも、相談に来る人がいたら」


「別の場所を用意します」


佐伯先生は、はっきり答えた。


「安全が確認できていない部屋で相談を受けることはできません」


ひより先輩は、相談番号零の用紙を見た。


放課後相談室を終わらせたいです。


相手の望み通り、部屋を閉める。


そう感じたのかもしれない。


「部屋を使わないことと、相談室を終わらせることは違います」


ぼくが言う。


ひより先輩が顔を上げる。


「場所が変わっても、相談は受けられます」


「……うん」


「この部屋を守ることが目的ではありません」


「相談する人を守ることが目的」


「はい」


先輩は、小さく息を吐いた。


「書記くん、時々ちゃんとしたこと言うよね」


「時々ではありません」


「今は、そういうことにしておく」


少しだけ、いつもの声が戻る。


その時、廊下から足音が近づいてきた。


放送委員長の久世綾音先輩と、鳴海律くんだった。


「通常放送のネットワーク切断、完了」


久世先輩が報告する。


「緊急放送回線は使えます。通常の自動放送は、顧問の先生が確認するまで停止」


鳴海くんは、銀色のノートパソコンを持っていた。


「青柳先輩のスマホへの着信について、学校側から通信記録の確認手続きを進めています」


「発信元はわかりそう?」


ひより先輩が聞く。


「すぐには無理です」


鳴海くんは、はっきり答えた。


「表示されていた番号と、実際の発信元が同じとは限りません」


「電話の相手は、灯里さんの番号を知っていた」


ぼくは言った。


「水瀬さんの音声データを持ち出した人物なら、連絡先も知っていた可能性があります」


「学校の記録から?」


「それは確認が必要です」


久世先輩は、机の上の古い写真を見る。


「この写真……拡大できる?」


「元データではありません」


ぼくが答える。


「印刷された写真を、相談用紙の裏に複写したものです」


「それでも、名札の形くらいは確認できるかもしれない」


佐伯先生の許可を受け、鳴海くんは写真を撮影した。


画像の明るさと角度を調整する。


顔を作り出すような加工はしない。


写っている情報を、見やすくするだけだ。


画面に、四人目の人物が拡大される。


髪は耳にかかるほどの長さ。

制服は男子用に見える。


胸元の名札。


文字は半分以上、影に隠れている。


けれど、最初の一文字だけが見えた。


御。


「御……?」


ひより先輩がつぶやく。


星ヶ丘高校で、名字が「御」から始まる生徒。


多くはないはずだ。


「生徒名簿で検索できますか」


ぼくが聞くと、佐伯先生は首を横に振った。


「生徒が名簿全体を閲覧することはできません。こちらで確認します」


「現在の生徒だけではなく、一年前の在籍者も」


「わかりました」


佐伯先生が職員室へ連絡する。


ぼくは、写真の人物が持っている音声レコーダーを見た。


黒い長方形。

側面に銀色の線。

上部に二つの小さなマイク。


どこかで見た気がする。


「久世先輩」


「何?」


「放送委員会で、この型のレコーダーを使っていますか」


久世先輩が画面へ顔を近づける。


「似たものは使っていた」


「今も?」


「今の機材ではない。二年前まで、インタビュー用に使っていた機種」


「文化祭実行委員会へ貸し出したことは?」


「ある」


久世先輩は、少し考える。


「去年の文化祭では、開会式のコメント収録と、来場者インタビュー用に三台貸し出した」


「貸出記録は残っていますか」


「確認する」


久世先輩が、放送委員会の記録データを開いた。


文化祭機材貸出表。


一年前の日付。


レコーダー一号。

文化祭本部。


レコーダー二号。

体育館進行。


レコーダー三号。

校内インタビュー担当。


返却者の欄。


一号、青柳楓。


二号、久世綾音。


三号。


御影朔。


その名前が画面へ現れた。


放送室にいる全員が、黙った。


「みかげ……さく」


ひより先輩が、ゆっくり名前を読む。


御影朔。


三年四組。


一年前は文化祭実行委員会の記録補助。

放送委員会には所属していない。


機材に詳しいため、文化祭期間だけ音声記録を担当していた。


「知ってる?」


ひより先輩が久世先輩へ聞く。


久世先輩は、すぐに答えなかった。


「顔は知っている」


「どんな人?」


「静かな人。必要なこと以外は、ほとんど話さなかった」


「音声編集は?」


鳴海くんが聞く。


「できる」


久世先輩は答えた。


「去年の文化祭記録映像で、音声編集を担当していた」


御影朔。


写真の中の四人目。


複数の声をつなぎ合わせる技術を持つ人物。


文化祭の音声記録へアクセスできた人物。


「今も学校にいるんですよね」


ぼくが聞く。


佐伯先生が、職員室からの連絡を確認する。


「在籍しています」


「今日の出席は?」


先生の表情が変わった。


「欠席です」


ひより先輩が、目を見開く。


「理由は?」


「保護者から、体調不良の連絡があります」


また、欠席している生徒。


けれど、朝倉澪さんや成瀬冬馬くんの時とは違う。


欠席していることだけで、何かを決めることはできない。


「保護者へ連絡を」


佐伯先生が言う。


すぐに職員室を通して、確認が始まった。


数分後。


返ってきた答えは、予想していなかったものだった。


「御影くんは、自宅にいるそうです」


「本人と話せましたか」


ぼくが聞く。


「保護者の方が、部屋にいることを確認しています。朝から外出していないとのことです」


「では、電話の相手は御影くんではない?」


ひより先輩が言う。


「まだ決められません」


黒崎先輩が答えた。


「自宅から操作している可能性もある。保護者が本人の行動をすべて確認しているとは限らない」


「でも、青柳先輩は学校内にいる可能性が高い」


ぼくは言った。


昇降口から出た記録はない。

鞄は屋上階段。

スマートフォンは放課後相談室。


御影朔くんが自宅にいるなら、学校内で青柳先輩の荷物を動かした協力者がいる。


あるいは。


「楓が、自分で置いた」


ひより先輩がつぶやいた。


電話の相手は言っていた。


青柳楓は、自分で選びました。


「青柳先輩は、鞄を階段へ置き、スマートフォンを相談室へ隠した」


ぼくは言った。


「誰かに命令されたのかもしれない。あるいは、自分の目的があった」


「楓が、御影くんに協力してる?」


「協力なのか、脅されているのか、まだわかりません」


灯里さんは言っていた。


青柳先輩は、音声を作った人ではない。


でも、その人を知っている。


たぶん、ずっと脅されている。


「御影朔くんと、青柳先輩はどんな関係だったんでしょう」


ぼくが聞く。


文化祭実行委員会の記録を確認する。


青柳楓。

文化祭実行委員長。


御影朔。

記録補助。


役割だけを見れば、委員長と担当者。


しかし、去年の活動日誌には、二人の名前が何度も同じ日に書かれていた。


放送素材整理。

インタビュー確認。

旧進路指導室の機材撤去。

文化祭記録映像の編集。


「旧進路指導室」


ひより先輩が反応する。


去年、恋愛相談室として使っていた部屋。


御影くんは、文化祭後の機材撤去で入っていた。


「相談室のそばにいた、ではありません」


ぼくは言った。


「実際に、中へ入ったことがある」


相談記録へ触れたのか。


会話を聞いたのか。


部屋に録音機器を置いたのか。


可能性はいくつもある。


「でも……」


ひより先輩が、写真の御影朔くんを見る。


「私、この人を覚えてない」


その言葉は、ひどく小さかった。


「何度も近くにいたはずなのに」


文化祭の記録担当。

旧進路指導室の機材撤去。

写真にも写っている。


それでも、ひより先輩の記憶には残っていない。


電話の相手の言葉が戻ってくる。


ずっと相談室のそばにいたのに、一度も相談者として見てもらえなかった人は、どうすればいいですか。


「ひより先輩」


「……うん」


「覚えていないことを、今ここで責めないでください」


「でも」


「御影くんが相談したかったことを、先輩が知る機会はあったんですか」


ひより先輩は答えられない。


「声をかけられて、断った記憶があるなら別です。でも、近くにいた全員が相談したい人だと気づくことはできません」


「……そうだね」


「相手が傷ついたことと、先輩がすべて悪いことは同じではありません」


ひより先輩は、少しだけ苦しそうに笑った。


「書記くん、先に言われそうなことを全部止めるね」


「必要なので」


「その言葉、相手にも使われてたよ」


「使用をやめる予定はありません」


「強い」


その時。


青柳先輩のスマートフォンが、再び音を鳴らした。


電話ではない。


メッセージの受信音。


佐伯先生が画面を確認する。


送信者。


御影朔。


全員の表情が変わる。


「本人のアカウント?」


鳴海くんが聞く。


「表示上は」


メッセージは一文だけだった。


楓先輩を探さないでください。


続けて、もう一件届く。


本人が、そう望んでいます。


「本人の言葉かどうか確認できません」


ぼくは言った。


「御影くんのアカウントも、誰かに使われている可能性があります」


久世先輩がうなずく。


「声と同じ。名前が表示されているだけでは、本人の意思だと決められない」


佐伯先生は、返信しなかった。


学校と警察へ、そのまま画面を共有する。


さらに三件目。


一ノ瀬ひより先輩へ。


相談番号零を受けるなら、旧放送準備室へ来てください。


ただし。


今度は、一人で来いとは書かれていなかった。


先生と、高槻湊を連れてきてください。


ぼくの名前がある。


ひより先輩が、ぼくを見る。


「相手は、書記くんが止めることも考えてる」


「はい」


「だから、最初から連れてこいって」


「指示に従うかどうかは、先生と判断します」


「行く気?」


「青柳先輩の確認が必要です」


「危険かもしれない」


「だから先生と行きます」


さっき、立場が逆だった。


ひより先輩が一人で屋上へ行こうとし、ぼくが止めた。


今度は、ぼくが前へ出ようとしている。


ひより先輩は、じっとぼくを見る。


「書記くん」


「はい」


「必要だからって、怖くないふりしなくていいよ」


ぼくは、すぐには答えられなかった。


怖い。


相手は、ぼくたちの会話を知っている。

行動を予測している。

学校の記録へ入り、声を作り変え、複数のアカウントを利用している。


そして、青柳楓先輩がどこにいるかを知っている。


「……怖いです」


ぼくは答えた。


「うん」


「でも、確認は必要です」


「それはわかる」


ひより先輩は言った。


「だから、一緒に行く」


「はい」


今度は、止めなかった。


一人ではない。


先生もいる。

警察にも連絡する。

場所を確認し、逃げ道も確保する。


相手の指定通りではなく、こちらの安全手順で動く。


佐伯先生が、旧放送準備室の位置を確認した。


旧校舎一階。

現在は放送機器の保管倉庫。

出入口は一つ。

小さな換気窓が一つ。


鍵は職員室管理。


しかし、鍵の貸出記録には、今日使用した記録がない。


「記録がないことは、入れないことを意味しません」


黒崎先輩が言った。


「はい」


本来は入れない。


その言葉を、もう信じすぎない。


学校の警備担当と教員が先に旧校舎へ向かう。


ぼくたちは、安全確認が取れるまで相談室で待つことになった。


待つ時間は長かった。


時計の秒針。

廊下の足音。

先生の電話。


誰も無駄な話をしなかった。


ひより先輩は、御影朔くんの写真を見ている。


「朔くん……」


初めて、名字ではなく名前で呼んだ。


相手がそれを聞けば、喜ぶのだろうか。


それとも。


今さらだと言うのだろうか。


十分後。


佐伯先生のスマートフォンへ連絡が入った。


旧放送準備室の前に、警備担当と教員が到着。


ドアは施錠されている。


室内から音はしない。


窓からは、中を確認できない。


「鍵を開けます」


電話の向こうから報告がある。


ぼくたちは息を止める。


金属音。


ドアが開く音。


そして。


「青柳さんがいます」


先生の声が聞こえた。


ひより先輩が立ち上がる。


「楓は?」


「意識があります。けがも確認されていません」


その言葉で、部屋の全員が息を吐いた。


ひより先輩は机へ手をつき、そのまま少しうつむいた。


「よかった……」


青柳先輩は、旧放送準備室の椅子へ座っていた。


拘束されてはいない。


自分で部屋に入り、内側から鍵をかけていた。


「本人が、話したいと言っています」


佐伯先生が電話の内容を伝える。


「ただし……一ノ瀬さんたちが来るまで、何も話さないそうです」


「御影くんは?」


ぼくが聞く。


「室内にはいません」


「パソコンや音声機器は?」


「古い再生機器と、封筒が一つあります」


「危険物の確認は?」


「進めています」


安全確認が終わるまで、さらに待つ。


その間に、御影朔くんの保護者から新しい連絡が入った。


本人の部屋を確認したところ、御影くんはいなかった。


布団の中には、体の形になるよう毛布が置かれていた。


窓が少し開いている。


朝から自宅にいると思っていたのは、保護者の思い込みだった。


御影朔くんは、学校を欠席していることになっている。


しかし、今どこにいるかはわからない。


「学校内にいる可能性もあります」


ぼくは言った。


「はい」


佐伯先生が答える。


「警察と教職員が確認します。生徒だけで捜索はしません」


安全確認完了の連絡が入ったのは、それから十五分後だった。


ぼくとひより先輩は、佐伯先生、三枝先輩、男性教諭とともに旧校舎へ向かった。


黒崎先輩と久世先輩は、それぞれ生徒会室と放送室の管理へ残る。


旧校舎の廊下は、現在の校舎より天井が低い。


照明も古く、少し黄色い。


壁には、以前使われていた教室名の札が残っている。


旧放送準備室。


ドアの前には、警備担当の職員が立っていた。


中へ入る。


狭い部屋だった。


棚には、古いマイクやケーブル。

カセットデッキ。

使われなくなった放送機器。


中央の椅子に、青柳楓先輩が座っていた。


制服に乱れはない。

けがも見えない。


でも、顔色は悪かった。


「楓」


ひより先輩が呼ぶ。


青柳先輩が顔を上げる。


「ひより……」


「無事?」


「うん」


ひより先輩は駆け寄ろうとした。


けれど、途中で止まった。


先生の安全確認。

相手が何を望んでいるか。

勝手に抱きしめていいか。


「近くに行ってもいい?」


ひより先輩が聞く。


青柳先輩の目に涙が浮かんだ。


「……うん」


ひより先輩は、ゆっくり近づいた。


青柳先輩の前でしゃがむ。


すぐには触れない。


「怖かった?」


「怖かった」


「ごめん」


「ひよりが謝ることじゃない」


青柳先輩は、両手で顔を覆った。


「私が、自分でここへ来たの」


電話の相手が言っていた通りだった。


青柳楓は、自分で選びました。


「御影くんに言われたんですか」


ぼくが聞く。


青柳先輩は、手を下ろした。


そして、ぼくを見る。


「朔くんの名前……わかったんだね」


「はい」


「写真を見たの?」


「文化祭の機材貸出記録も確認しました」


青柳先輩は、少し苦しそうに目を閉じた。


「やっぱり、高槻くんは記録から見つけるんだ」


「青柳先輩」


「うん」


「御影朔くんは、どこにいますか」


青柳先輩は、すぐには答えなかった。


「……わからない」


「今日、会いましたか」


「会ってない」


「連絡は?」


「来た」


「どんな内容ですか」


佐伯先生が言う。


「無理に今すべて話す必要はありません。ただし、御影くんやほかの生徒の安全に関わる内容は、先生へ伝えてください」


青柳先輩はうなずいた。


「今日の昼休み、音声ファイルが届きました」


「誰の声?」


ひより先輩が聞く。


「私の声」


「つなぎ合わされた声?」


「うん」


青柳先輩は、自分の膝を見つめる。


「私が言っていない言葉になってた」


「何て?」


長い沈黙。


「私が全部やりました」


ひより先輩の表情が固まる。


「放送室のファイルを作ったのも、黒崎くんのアカウントを使ったのも、灯里さんの声を持ち出したのも、相談者のことを調べたのも」


「全部、楓の声で?」


「うん」


「それを公開すると言われた?」


「違う」


青柳先輩は首を横に振った。


「もう一つ、音声があった」


「もう一つ?」


「ひよりの声」


先輩の肩が揺れる。


「私の?」


「一年前の音声」


青柳先輩の声が震える。


「ひよりが、灯里さんの相談について話している声」


部屋の空気が冷たくなる。


「そんな音声……」


ひより先輩が言いかけ、止まった。


一年前の恋愛相談室。


正式なルールはなかった。

誰が聞いているか、どこまで声が漏れているかも確認していなかった。


「誰と話している音声ですか」


ぼくが聞く。


青柳先輩は、ひより先輩を見た。


「私と」


「楓と?」


「うん」


「私たちが、旧進路指導室で話してた時の音声」


青柳先輩は、涙をこらえながら続けた。


「灯里さんが誰を好きなのか。公開告白をどう止めるか。先生に言うかどうか」


ひより先輩の顔から血の気が引く。


「それを、朔くんが録音してた?」


「たぶん」


「なぜ?」


「朔くんは、文化祭記録のために、いろんな場所の音を録ってた」


「相談室の中まで?」


「私が許可した」


青柳先輩の言葉に、全員が黙った。


「……楓が?」


ひより先輩が、かすれた声で聞く。


「文化祭の記録映像に、準備中の音を使いたいって言われた」


「相談中の声を?」


「相談の内容までは録らないって言われた。部屋の雰囲気とか、紙をめくる音とか、ドアを開ける音だけだって」


「それで、録音機を置かせた?」


「うん」


青柳先輩の涙が落ちた。


「でも、私は途中で止めなかった」


「相談の話を始めた時に?」


「録音機があることを思い出した。でも……朔くんなら大丈夫だと思った」


「どうして?」


「私の幼なじみだから」


御影朔と青柳楓。


文化祭委員長と記録補助だけではなかった。


二人は、幼い頃からの知り合いだった。


「朔くんは、昔から人の声を録るのが好きだった」


青柳先輩は言った。


「忘れないためだって言ってた」


「何を忘れたくなかったんですか」


ぼくが聞く。


青柳先輩は、古い放送機器の棚を見る。


「お姉さんの声」


新しい人物。


「御影くんのお姉さん?」


「三つ上。星ヶ丘高校の生徒だった」


「今は?」


青柳先輩は、答える前に息を吸った。


「高校二年の時に、学校を辞めた」


ひより先輩が、青柳先輩を見る。


「理由は?」


「校内放送で、告白の音声を流されたから」


部屋の中から、音が消えた。


一年前の水瀬灯里さんより前。


公開告白。

無断で使われた声。

学校を去った生徒。


「朔くんのお姉さんも……」


ひより先輩がつぶやく。


「同じようなことがあったの?」


「完全に同じじゃない」


青柳先輩は首を横に振る。


「でも、朔くんには同じに見えたんだと思う」


放課後相談室は、灯里さんを守れなかった。


でも、そのずっと前にも、学校では声を勝手に使われた生徒がいた。


誰にも相談できず、学校を去った人。


「御影くんは、お姉さんの相談を誰かにしたんですか」


ぼくが聞く。


「ひよりに、しようとした」


青柳先輩の言葉に、ひより先輩の顔が止まる。


「私に?」


「一年前、文化祭の準備中」


「……覚えてない」


「朔くんは、旧進路指導室の前で何度も待ってた」


「何て言ったの?」


「声を勝手に使われた人の相談も受けますかって」


ひより先輩は、口元を押さえた。


「私……何て答えたの」


青柳先輩は、すぐには言わなかった。


「その日は、灯里さんのことで急いでた」


「うん」


「ひよりは言った」


青柳先輩の声が震える。


「今は恋愛相談で手いっぱいだから、放送のことなら放送委員か先生に相談してって」


ひより先輩が、目を閉じる。


相談を断った。


悪意があったわけではない。


その時、別の相談に追われていた。

放送の問題なら、担当者へ話した方がいいと思った。


でも、御影朔くんには。


自分も。

姉も。

相談者として見てもらえなかったと感じられた。


「そのあと、朔くんはどうしたの?」


「何もしなかった」


青柳先輩が言う。


「少なくとも、私にはそう見えた」


「でも、録音を残していた」


「うん」


「灯里さんの声も、私たちの会話も」


「うん」


青柳先輩は、机の上の白い封筒を見た。


旧放送準備室で見つかった封筒。


表には、相談番号零。


佐伯先生が手袋をつけ、封筒を開いた。


中には、小さな記録媒体と、一枚の紙。


紙には、御影朔という名前が印刷されていた。


その下。


相談内容。


姉の声を、元に戻したいです。


ひより先輩の目から、涙が落ちた。


「元に戻す……?」


青柳先輩が、小さく首を振る。


「声は、元には戻らない」


一度切り取られた声。

意味を変えられた声。

人前へ流された声。


元の音声が残っていても、聞いた人の記憶までは消せない。


「だから、朔くんは集め始めた」


青柳先輩は言った。


「勝手に使われた声。届かなかった声。消された声」


「白石さんや早川さんたちを?」


「うん」


「相談室が救った人たちを集めて」


ひより先輩が続ける。


「私に、姉を救えなかったことを見せようとした」


「たぶん」


「でも、それで相談者たちの声を勝手に使った」


「うん」


「お姉さんと同じことをしてる」


青柳先輩は、うつむいた。


「何度言っても、聞かなかった」


「楓は、いつから知ってたの?」


「最初の白い封筒が届いた時から」


第一の事件。


白石すずさんと藤原海斗くんへ届いた、偽の失恋届。


ひより先輩が顔を上げる。


「朔くんが作ったの?」


「違う」


青柳先輩は、はっきり答えた。


「失恋届を作ったのは宮野千紗先輩。朔くんは、それを知っていた」


「どうして?」


「千紗先輩へ、過去の文化祭音声を渡したから」


宮野千紗先輩は、水瀬灯里さんを忘れさせないために、失恋届を使って騒ぎを起こした。


その背後で、御影朔くんが音声を渡していた。


直接事件を起こしたわけではない。


けれど、起こることを知りながら、止めなかった。


「朔くんは、ずっと見てた」


青柳先輩は言った。


「相談室が誰を助けて、誰を傷つけるのか」


「楓は、それを知ってて黙ってた?」


ひより先輩の声が震える。


青柳先輩は、逃げずにうなずいた。


「うん」


「どうして」


「朔くんを守りたかった」


「今までの人と同じだね」


ひより先輩の声が、少し厳しくなる。


「守りたいって言って、本人のしたことを隠した」


「わかってる」


「相談者たちが傷つくかもしれないのに」


「わかってる!」


青柳先輩の声が、古い部屋へ響いた。


「わかってたけど……言えなかった」


涙が次々に落ちる。


「朔くんは、お姉さんが学校を辞めたあと、ほとんど話さなくなった。録音した声だけを何度も聞いてた」


「私が止めないと、本当に誰かを傷つけるって思った」


「でも、先生に言ったら、朔くんまで学校に来られなくなると思った」


「だから、私がそばにいれば止められるって……」


ひより先輩は、青柳先輩を見ていた。


怒っている。

悲しんでいる。


でも、責めるためだけには近づかなかった。


「止められた?」


青柳先輩は、首を横に振った。


「止められなかった」


短い答えだった。


「今日、ここへ来たのは?」


ぼくが聞く。


「朔くんから言われました」


青柳先輩は説明した。


旧放送準備室へ行けば、これまで集めた音声をすべて返す。


灯里さんの音声も。

ひより先輩の音声も。

相談者たちの素材も。


ただし、青柳先輩は一人で来ること。


スマートフォンを相談室へ置くこと。

鞄を屋上階段へ置くこと。


「屋上へ注意を向けるため」


ぼくが言う。


「うん」


「それが罠だとわかっていた?」


「わかってた」


「それでも来た」


「朔くんを止められる最後の機会だと思った」


また、一人で抱えた。


青柳先輩は、御影朔くんを守ろうとした。

相談者たちの音声を取り戻そうとした。

ひより先輩を呼び出しから遠ざけようとした。


その結果、自分自身が消えたように見える状況を作った。


「ここへ来たあと、御影くんと会いましたか」


「会ってない」


「では、誰が鍵を?」


「ドアは開いていました。入ったら、机の上に封筒があった」


「それから?」


「スピーカーから朔くんの声が流れた」


「加工された声?」


「違う」


青柳先輩は答えた。


「本人の声」


「何と言っていましたか」


「相談番号零を、ひよりに渡してほしいって」


「それだけ?」


「それから……」


青柳先輩は、机の上の古い再生機器を見る。


「午後七時になったら、最後の音声を流すって」


全員が時計を見る。


午後六時四十八分。


あと十二分。


「止められますか」


ひより先輩が聞く。


鳴海くんは、この部屋にはいない。


古い機器は、校内ネットワークへ接続されていないように見える。


佐伯先生が、設備担当へ連絡する。


「触らないでください」


青柳先輩が言った。


「どうして?」


「朔くんは、機器を止めたら別の場所から放送するって言ってた」


「本当かどうかは?」


「わからない」


御影朔くんの言葉を信じる理由はない。


でも、無視することもできない。


「最後の音声には何が入っているんですか」


ぼくが聞く。


青柳先輩は、白い顔で答えた。


「御影朔くんのお姉さんの声」


午後六時五十九分。


機器の小さな表示が点灯した。


全員が、再生機器を見る。


カセットでもない。

CDでもない。


古いデジタルレコーダー。


表示されたファイル名。


相談番号零。


御影音羽。


御影朔くんの姉。


一年前よりも前に、校内放送で声を勝手に流され、学校を辞めた生徒。


午後七時。


再生が始まる。


最初に、明るい女子生徒の声。


「朔、また録ってるの?」


少し離れた場所から、少年の声が答える。


「残したいから」


「私の声なんか残して、どうするの」


「忘れない」


「忘れていいよ」


女子生徒が笑う。


「人の声って、ずっと覚えてると疲れるよ」


短い雑音。


場面が切り替わる。


次の音声では、御影音羽さんの声が震えていた。


「私、そんなこと言ってない」


誰かへ訴えている。


「好きだなんて、放送で言ってない」


「録音を切って、つなげられたの」


遠くで、誰かが笑っている。


音羽さんの声は続く。


「私の声なのに、私の言葉じゃない」


ひより先輩が、唇を強く結ぶ。


存在しない声。


現在起きていることと、同じだった。


最後に、さらに別の録音。


静かな部屋。


御影音羽さんが、弟へ話している。


「朔」


少年の呼吸音。


「私の声を、取り戻そうとしなくていいから」


部屋の中が静まり返る。


「元に戻らないものを、無理に元へ戻そうとすると、もっと壊れることがある」


「でも」


少年の声が聞こえる。


「姉ちゃんは、何も言ってないのに」


「うん」


「みんな、姉ちゃんが言ったって」


「うん」


「違うって証明する」


「証明しても、聞きたくない人は聞かないよ」


「じゃあ、どうすればいいの」


長い沈黙。


「私の声を使わないで」


音羽さんは言った。


「私を助けるためでも、使わないで」


御影朔くんが、今していることを。


姉は、はっきり拒んでいた。


音声は、そこで終わらなかった。


最後に、現在の御影朔くんの声が入っていた。


加工されていない。


静かな、低い声。


「一ノ瀬先輩」


ひより先輩が、息を止める。


「姉は、こう言いました」


「でも、僕は納得できませんでした」


「声を奪った人たちは、何も失っていない」


「姉は学校を失った。友達を失った。自分の声まで嫌いになった」


「なのに、忘れていいと言った」


「それは、許したからではありません」


「諦めただけです」


御影くんの声は、震えていた。


「僕は……姉のように諦めたくなかった」


ひより先輩が、再生機器へ一歩近づく。


「朔くん」


声は届かない。


これは録音だ。


「だから、相談室を見ていました」


「人の気持ちは本人が決める、と言いながら、何度も本人より先に動く相談室を」


「秘密を守ると言いながら、秘密を漏らした相談室を」


「それでも、誰かを助けた相談室を」


「僕は、知りたかった」


「姉が相談していたら、助かったのか」


音声の中の御影朔くんが、息を吸う。


「でも……一ノ瀬先輩は、僕の相談を受けませんでした」


ひより先輩の涙が落ちた。


「だから、もう一度相談します」


「姉の声を、元に戻したいです」


「どうすればいいですか」


音声が途切れる。


部屋には、古い機器の動作音だけが残る。


相談番号零。


それは、犯行声明ではなかった。


少なくとも御影朔くんにとっては。


何年も前から、誰にも受け取られなかった相談だった。


ひより先輩は、再生機器の前に立ったまま言った。


「元には戻せない」


誰に聞かせるでもなく。


御影朔くんがどこかで聞いていると信じるように。


「でも、あなたがしていることも止める」


ひより先輩の声は震えていた。


「お姉さんの声も、灯里さんの声も、みんなの声も」


「あなたの痛みを伝えるための道具にはさせない」


青柳先輩が泣きながら顔を上げる。


「ひより……」


「それでも」


ひより先輩は続けた。


「相談は受ける」


ぼくは、先輩を見る。


「御影朔くん」


ひより先輩は、ゆっくり呼びかけた。


「今度は、あなたの言葉で話して」


「誰かの声を切ってつながないで」


「お姉さんの声を借りないで」


「私の声も使わないで」


「あなた自身の声で、相談に来て」


音声機器の表示が消えた。


その直後。


部屋の天井近くにある、古い壁付けスピーカーから雑音が鳴った。


誰も操作していない。


一度。


二度。


そして。


「……やっと」


少年の声が流れた。


録音ではない。


息遣いがある。

部屋の雑音が連続している。


生の声。


「やっと、名前を呼んでくれましたね」


御影朔。


どこかで、この部屋の音を聞いている。


「朔くん」


ひより先輩が、スピーカーを見上げる。


「どこにいるの?」


短い沈黙。


「相談室の、すぐそばです」


全員が部屋の外を見る。


旧放送準備室のドアは開いている。


廊下には誰もいない。


「でも、今日は行きません」


御影くんは言った。


「どうして?」


「一ノ瀬先輩は、まだ僕の相談を聞く準備ができていないから」


ひより先輩が、唇を噛む。


「勝手に決めないで」


その言葉に。


スピーカーの向こうで、御影朔くんが小さく笑った。


「……そうでした」


「それを決めるのは、先輩でしたね」


「朔くん」


「次は、相談室で会いましょう」


「待って」


「相談番号零」


御影くんの声が静かに告げる。


「次回が、本当の相談です」


通信が切れた。


壁付けスピーカーから、何も聞こえなくなる。


御影朔くんは見つからなかった。


けれど、初めて。


加工されていない本人の声で、ぼくたちへ話しかけた。


そして。


放課後相談室へ来ると告げた。


それが約束なのか。

次の罠なのか。


まだ、わからない。


ただ、相談番号零は。


今度こそ、相談者本人の言葉で始まろうとしていた。



第32話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、写真に写っていた四人目の人物が、三年生の御影朔であることが明らかになりました。


御影朔は、文化祭の音声記録を担当していた生徒で、青柳楓の幼なじみでした。


さらに、御影には星ヶ丘高校を辞めた姉・御影音羽がいます。

音羽は、過去に自分の声を切り貼りされ、告白したかのような校内放送を流されていました。


私の声なのに、私の言葉じゃない。


御影朔は、姉の声を取り戻すため、放課後相談室を長く見続けていました。

しかし、姉本人は過去の録音で、はっきりと伝えていました。


私を助けるためでも、私の声を使わないで。


青柳楓は御影を守り、自分一人で止めようとして旧放送準備室へ向かっていました。

彼女の無事は確認されましたが、御影朔本人の居場所は、まだわかっていません。


最後に御影は、加工されていない自分自身の声で告げます。


次は、相談室で会いましょう。


相談番号零。

次回が、本当の相談です。


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