第29話 存在しない声
放送室の記録データに残されていた、誰にも流されなかった音声。
私がいなくなったら、この放送を流してください。
音声を持ち込んだ放送委員は、その声の生徒を知らないという。
しかし、声が誰のものかわからないのではなかった。
その声の生徒は、最初から存在していなかった。
私がいなくなったら、この放送を流してください。
女子生徒の声が途切れると、旧進路指導室は静かになった。
再生機器から聞こえる、小さな作動音。
窓の外から届く運動部の掛け声。
廊下を歩く生徒の足音。
どれも、さっきまでと同じだった。
なのに、一度その声を聞いたあとでは、校舎全体が少し違って見えた。
私がいなくなったら。
その言葉は、これから何かをする人の言葉にも聞こえる。
すでに何かが起きたあとに残された言葉にも聞こえる。
あるいは、誰かに見つけてもらうことを期待した、助けを求める言葉かもしれない。
机の向こうに座る女子生徒は、音声レコーダーを見つめていた。
制服の胸元には、放送委員会の名札。
久世綾音。
三年二組。
放送委員長。
ぼくは名前を見て、ようやく気づいた。
毎朝、校内放送で時間割の変更や行事予定を読み上げている声。
昼休みには、委員会からのお知らせや部活動紹介を担当することもある。
学校で顔を知らない生徒はいても、久世綾音先輩の声を聞いたことがない生徒は、たぶんほとんどいない。
星ヶ丘高校の声。
生徒たちの間で、そう呼ばれている人物だった。
「久世先輩ですね」
ぼくが言うと、彼女は片方の眉を上げた。
「名前より先に、声で気づいてほしかったけど」
「すみません」
「冗談よ」
久世先輩は、ほとんど表情を変えずに言った。
冗談に聞こえない。
「綾音はいつもこうだから」
一ノ瀬ひより先輩が小声で言う。
「知り合いですか」
「生徒会のお知らせで、何度か放送室へ行ったことがあるの」
久世先輩は、ひより先輩を見る。
「一ノ瀬さんは、原稿にないことを本番で足すから苦手」
「一回だけだよ」
「三回」
「そんなに?」
「文化祭の協力お願いが一回。落とし物のお知らせで一回。恋愛相談室の宣伝で一回」
「最後は覚えてる」
「一番忘れてほしいものだけ覚えているのね」
声は冷静なのに、会話のテンポは速い。
ひより先輩とは別の意味で、目が離せない人物だった。
「久世先輩」
ぼくは音声レコーダーを見た。
「このデータが見つかった経緯を、最初から確認してもいいですか」
「もちろん。そのために来たから」
久世先輩は姿勢を正した。
放送時の声と同じだった。
言葉の区切りが明確で、一音ずつ聞き取りやすい。
「昨日の昼休み、通常通り音楽放送を行った。実際に校内へ流れたのは、十二分間のピアノ曲。放送事故はなし」
「この音声は流れていない?」
「流れていない」
「では、どこに残っていたんですか」
「放送室の送出記録」
久世先輩は、机の上に小さなメモ帳を置いた。
そこには、簡単な図が描かれている。
音源用パソコン。
ミキサー。
校内スピーカー。
記録装置。
「星ヶ丘高校の放送室では、実際に校内へ流した音だけでなく、放送前に確認した音も記録される」
「放送前の確認?」
ひより先輩が聞く。
「音量や再生位置を確かめるために、放送委員だけがヘッドホンで聞く音。正式にはモニター音声。校内スピーカーには出ない」
久世先輩は、音声レコーダーを指で軽く叩いた。
「この声は、送出音声には入っていなかった。でも、モニター側の記録に十八秒だけ残っていた」
「誰かが放送前に再生した」
ぼくが言う。
「そう考えるのが自然」
「再生した時刻は?」
「昨日の午後零時四十六分十二秒」
昼休みの放送が始まる少し前。
「その時、放送室には誰がいましたか」
「私と、二年の担当者が一人」
「その人の名前は?」
久世先輩は少しだけ間を置いた。
「今の段階では、必要になったら先生を通して確認して」
自分から相談へ来ていながら、関係者の名前は簡単に出さない。
放課後相談室の説明をする前から、彼女は個人情報の線を引いていた。
「わかりました」
「ただし、その二年生は音源パソコンに触っていない。私も触っていない」
「では、誰が再生したんですか」
「わからない」
久世先輩は答えた。
「再生履歴には、委員長用アカウントが残っていた」
「久世先輩のアカウント?」
「そう」
「ログインした覚えは?」
「ない」
ひより先輩が腕を組む。
「パスワードを誰かに知られてる?」
「その可能性はある。でも、私のパスワードは先週変更したばかり」
「なぜ変更したんですか」
ぼくが聞くと、久世先輩の表情がわずかに硬くなった。
「放送原稿が一つ消えたから」
「消えた?」
「文化祭後、放送委員会で反省会をした。その議事録を校内共有フォルダへ保存していたけれど、翌日なくなっていた」
「誰かが削除した?」
「操作履歴上は、私が削除したことになっていた」
また、久世先輩のアカウント。
「その時は、操作ミスだと思った?」
「思わなかった」
久世先輩は即答した。
「私は保存場所を間違えることはあっても、完成済みの原稿を消すことはない」
「言い切りますね」
「放送では、消した音は戻らないから」
久世先輩は、少しだけ目を細めた。
「言葉も同じ。だから、消す時は確認する」
その考えは、ぼくと少し似ていた。
紙は残る。
記録は必要だ。
後から確認できる形にする。
ただ、久世先輩にとっては、それが音なのだろう。
「先生には相談しましたか」
「放送委員会の顧問には伝えた。パスワードも変更した。共有パソコンの確認もした。でも、それ以上は何も出なかった」
「それが、昨日また使われた」
「そう」
ぼくは記録用紙に書いた。
相談番号三。
放送委員会。
委員長アカウントの不正使用疑い。
モニター記録に残された不明音声。
「音声ファイルそのものは、どこにありましたか」
「通常の音楽フォルダではなく、予備素材の中」
「ファイル名は?」
久世先輩はメモを見た。
「『予備一』」
「それだけ?」
「それだけ」
「作成日時は?」
「昨日の前日。午後六時四十三分」
一昨日の放課後。
「放送室は開いていましたか」
「午後六時まで」
「では、閉室後に作成された?」
「記録上は」
「校内のパソコンの時刻がずれている可能性は?」
「確認した。ずれていない」
閉室後に作成された音声。
委員長アカウントで保存され、翌日の昼休みに再生された。
「久世先輩は、一昨日の午後六時四十三分にどこにいましたか」
「職員室横の会議室」
「証明できますか」
「放送委員会の顧問と、生徒会の黒崎副会長がいた」
黒崎悠真先輩。
放課後相談室の先生連絡担当。
「黒崎先輩が?」
ひより先輩が聞く。
「文化祭後の校内放送の記録について、生徒会へ報告していた」
つまり久世先輩には、アカウントが使われた時刻の証人がいる。
本人が放送室のパソコンを操作した可能性は低い。
「閉室後、放送室へ入る方法は?」
「鍵が必要」
「鍵を持っている人は?」
「放送委員長。副委員長。顧問。職員室の予備鍵」
「久世先輩の鍵は?」
「持っていた」
「副委員長は?」
「その日は部活動」
「顧問は会議室」
「予備鍵の貸出記録は?」
「ない」
鍵の記録だけを見るなら、誰も入っていない。
それでもファイルは作られた。
「遠隔操作はできますか」
ぼくが聞く。
「通常はできない」
「通常は?」
「放送室の保守点検用に、校内ネットワークから接続できる設定はある。ただし、管理者用の認証が必要」
「生徒が使えますか」
「本来は使えない」
本来は。
最近、この言葉をよく聞く。
本来は、本人確認をする。
本来は、他人の印鑑を使えない。
本来は、共有写真を勝手に削除しない。
本来は、部活動のパソコンを持ち出さない。
仕組みがあることと、守られていることは違う。
「書記くん」
ひより先輩が言った。
「またパソコンの顔してる」
「どんな顔ですか」
「紙の時より、少し不満そう」
「紙は手元で確認できます」
「パソコンに厳しい」
「必要なので」
久世先輩が、ぼくたちを交互に見た。
「いつも、その会話をしているの?」
「だいたい」
ひより先輩が答える。
「相談中にも?」
「必要に応じて」
ぼくが言う。
久世先輩は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
初めて、冗談ではなく笑ったように見えた。
「もう一つ確認したいです」
ぼくは音声レコーダーへ視線を戻した。
「この声が誰かわからないと言いましたね」
「ええ」
「放送委員長なら、生徒の声を聞く機会は多いのでは?」
「全校生徒の声を覚えているわけではない」
「似ている人もいない?」
「いる」
意外な答えだった。
「誰ですか」
「一人ではない」
久世先輩は、再生ボタンを押した。
もう一度、音声が流れる。
私がいなくなったら、この放送を流してください。
「最初の『私が』は、私に似ている」
ひより先輩が、久世先輩を見る。
「綾音の声?」
「完全には同じではない。でも、母音の置き方が似ている」
久世先輩は続ける。
「『いなくなったら』は、別の誰かに似ている。最後の『流してください』も、また違う声に聞こえる」
ぼくは、音声を頭の中で分けて聞こうとした。
一度聞いただけでは、一人の女子生徒が話しているように思える。
声の高さも、大きな差はない。
でも、意識して聞くと、言葉の境目に微かな違和感がある。
私が。
いなくなったら。
この放送を。
流してください。
「編集されている?」
ぼくが言う。
「可能性は考えた」
「確認は?」
久世先輩は少しだけ顔をしかめた。
「放送委員会にも、音の編集に詳しい生徒はいる。でも、この音声を委員会内で広げたくなかった」
「誰かの助けを求める声かもしれないから?」
「それもある」
「ほかには?」
「委員会の中に作った人がいる可能性もある」
久世先輩は、はっきり言った。
自分の委員会を疑っている。
だからこそ、委員会内での確認を避け、放課後相談室へ持ち込んだ。
「ただし、一人だけ呼んでいる」
「呼んでいる?」
その時、ドアが二回ノックされた。
一度目と二度目の間が、妙に短い。
久世先輩が時計を見る。
「時間通り」
ひより先輩がドアを開ける。
廊下に立っていたのは、一年生の男子生徒だった。
細身。
少し長めの黒髪。
片耳に、大きなヘッドホンをかけている。
制服のネクタイは少し緩み、片手には銀色のノートパソコンを抱えていた。
眠そうな目で、部屋の中を見る。
「委員長」
声は低く、平坦だった。
「相談室へ音声を持ち出したんですね」
「持ち出していない。複製を持ってきた」
「言い換えただけです」
「入って」
男子生徒は、ひより先輩へ軽く頭を下げた。
「放送委員会一年、鳴海律です」
「一ノ瀬ひよりです」
「知っています」
「有名?」
「校内放送で原稿にない発言をする人として」
ひより先輩の表情が止まった。
「綾音、後輩に何を教えてるの」
「事実だけ」
久世先輩は淡々と答えた。
鳴海律くん。
放送委員会の音響担当。
入学して半年ほどなのに、文化祭の音響トラブルを三件解決し、古い放送機器の設定まで把握しているらしい。
「鳴海くんには、音声の分析だけを頼んだ」
久世先輩が言う。
「関係者名や、発見場所の詳細は伝えていない」
鳴海くんは、机の端へノートパソコンを置いた。
「音声ファイルをお願いします」
久世先輩が、小型の記録媒体を渡す。
鳴海くんは、ぼくたちへ確認した。
「再生と解析をしてもいいですか」
ひより先輩が佐伯先生へ連絡し、音声データを扱うことへの許可を得る。
放送委員会顧問にも、久世先輩から連絡した。
先生の了承が確認できてから、鳴海くんは作業を始めた。
勝手に進めない。
一年生なのに、その部分は徹底している。
ノートパソコンの画面に、音声の波形が表示された。
青い山と谷が、横に伸びている。
「一度、そのまま流します」
音声が再生される。
私がいなくなったら、この放送を流してください。
鳴海くんは、画面を見たまま言った。
「一人ではありません」
「もうわかるの?」
ひより先輩が聞く。
「呼吸がないので」
「呼吸?」
「普通にこの長さを話すなら、どこかで息の音が入る。息を消す処理をすることもできますが、その場合は周囲の雑音も一緒に変わります」
鳴海くんは、波形の一部を拡大した。
「ここ」
私が。
いなくなったら。
言葉と言葉の間。
ほとんど無音に聞こえるが、拡大された波形には細い揺れがある。
「『私が』の後ろには空調の低い音がある。『いなくなったら』の前では消えている」
次の場所。
「『この放送を』では、遠くに椅子を引く音がある。『流してください』では、時計の秒針」
「別々の場所で録音された?」
ぼくが聞く。
「少なくとも、同じ時間に一続きで録音された音ではありません」
鳴海くんは、平然と答えた。
「四つ以上の音源をつないでいます」
久世先輩の表情が硬くなる。
「四人の声?」
「まだわかりません。一人の別々の録音かもしれない」
「声の高さを調整している?」
「少し」
鳴海くんは音声処理を解除するように、いくつか設定を変えた。
「全体を同じ高さに近づけています。速度も一部変更している」
加工を一つずつ外す。
最初の「私が」が、少し低くなる。
「いなくなったら」は、元の音よりわずかに速い。
「この放送を」は、少し高い。
「流してください」は、抑揚が戻る。
四つの断片。
それぞれ別の声に聞こえ始めた。
「存在しない声です」
鳴海くんが言った。
その言葉に、部屋の全員が彼を見る。
「誰の声かわからないんじゃない」
鳴海くんは、画面上の四つの区間へ線を引いた。
「この一続きの声を持つ生徒は、最初からいません」
私がいなくなったら、この放送を流してください。
一人の遺言のように聞こえた言葉。
でも、それは複数の声をつないで作られたものだった。
「では、助けを求めている生徒はいない?」
ひより先輩が聞く。
「それもまだわかりません」
鳴海くんは答えた。
「誰かが、複数の生徒の声を使って、この文章を作った。それ自体に目的があるはずです」
「元の音声を特定できますか」
ぼくが聞く。
「校内放送の記録が元なら」
鳴海くんは久世先輩を見る。
「アーカイブへのアクセス許可が必要です」
「顧問へ確認する」
久世先輩は、すぐに連絡した。
放送委員会には、過去三年分の校内放送記録が保存されている。
行事案内。
委員会報告。
部活動紹介。
文化祭のインタビュー。
生徒会からのお知らせ。
全校へ流された声だけでなく、放送前の練習音声や未使用素材も一部残っている。
個人の声を扱うため、鳴海くんが一人で検索することはできない。
顧問の先生の立ち会いが必要になる。
「放送室へ移動しましょう」
久世先輩が言った。
「この部屋では、アーカイブへ接続できない」
「相談記録は?」
三枝先輩がいないため、ぼくが写真を撮るのではなく、必要な項目だけ記録用紙へ書いた。
音声は複数素材の編集である可能性が高い。
元音声の特定を、教員立ち会いで行う。
関係者の個人名は、特定後に必要範囲で記録する。
放送室は、特別棟の三階にあった。
厚い防音扉。
小さな赤いランプ。
ガラスの向こうには、放送卓とマイク。
久世先輩が鍵を開ける。
「今、鍵を使ったのは私」
「記録します」
ぼくが言うと、彼女は一度だけうなずいた。
「高槻くん、放送委員に向いてる」
「勧誘はお断りします」
「まだしていない」
「先に断りました」
「書記くん、綾音と会話の相性よくない?」
ひより先輩が言う。
「どちらも細かいので」
「一ノ瀬さんほどではない」
久世先輩は放送室へ入った。
「私が細かくないみたいな言い方やめて」
少しだけ軽いやり取りを挟みながらも、全員の緊張は消えていなかった。
放送委員会顧問の先生が合流した。
鳴海くんは許可を受け、過去の音声記録を検索する。
まず、「私が」。
学校内で何百回も使われている言葉だ。
人が耳で聞いて探すのは難しい。
鳴海くんは、音声の特徴を抽出し、似た波形を検索する。
数分後。
「候補、十二件」
一件ずつ再生する。
委員会紹介。
生徒会演説。
部活動勧誘。
文化祭の注意事項。
六件目で、久世先輩が手を上げた。
「止めて」
鳴海くんが再生を止める。
流れていたのは、去年の文化祭前日の放送。
久世先輩自身の声だった。
私が、明日の開会式進行を担当します。
「『私が』は、委員長」
鳴海くんが断片を並べる。
最初の二音が一致する。
「本当に綾音の声だったんだ」
ひより先輩が言う。
「似ていると思った」
久世先輩は、嬉しそうではなかった。
自分の声を無断で切り取り、別の文章へ使われている。
顔写真を勝手に加工されるのと同じように、声を奪われる感覚があるのだろう。
「次は『この放送を』」
候補を探す。
これも、放送委員の原稿で使われやすい言葉だった。
四件目。
生徒会からの文化祭ルール説明。
スピーカーから流れた声に、ひより先輩が固まった。
この放送を聞いている皆さんへ、文化祭実行委員会からのお知らせです。
「私だ」
ひより先輩が言った。
一年前。
文化祭実行委員として、校内放送を担当した時の音声。
鳴海くんが音を照合する。
「一致」
「私の声も使われてるの?」
「はい」
久世綾音先輩。
一ノ瀬ひより先輩。
複数の生徒の声をつないで作られた音声。
その中に、相談室の中心にいるひより先輩の声が含まれている。
偶然とは思いにくくなった。
「残りは」
ぼくは画面を見る。
いなくなったら。
流してください。
鳴海くんが検索を続ける。
「『流してください』の候補、三件」
一件目。
放送委員の機材説明。
二件目。
体育祭の放送練習。
三件目。
去年の文化祭実行委員インタビュー。
女子生徒の声が流れた。
この曲を、最後まで流してください。
その声を聞いた瞬間、一ノ瀬ひより先輩の顔から色が消えた。
「止めて」
久世先輩ではない。
ひより先輩が言った。
鳴海くんが再生を止める。
「一ノ瀬さん?」
久世先輩が呼ぶ。
ひより先輩は、パソコンの画面を見つめていた。
画面には、音声ファイルの名前が表示されている。
文化祭実行委員インタビュー。
未使用素材。
収録者名。
水瀬灯里。
第一の事件。
一年前の文化祭。
公開告白をめぐる噂によって学校を離れた生徒。
ひより先輩が、今も守れなかったと思い続けている人。
「灯里さんの声です」
ひより先輩は言った。
声が震えていた。
久世先輩がファイル名を確認する。
「水瀬灯里……」
「知っているんですか」
鳴海くんが聞く。
「知ってる」
ひより先輩は、短く答えた。
ぼくは、画面の文字を見た。
水瀬灯里。
宮野千紗先輩が、忘れられたくないと願った名前。
倉橋怜くんが、文化祭の映像で公開しようとした名前。
ぼくたちが体育館の照明を落として守った名前。
その声が、別の文章を作るために使われている。
「未使用素材なのに、どうして残っているんですか」
ぼくが聞く。
久世先輩は、顧問の先生を見る。
先生は困惑していた。
「文化祭記録を整理した際に、保存対象から外したはずです」
「削除した?」
「そのはずです」
「でも残っている」
鳴海くんは、ファイルの保存場所を確認する。
「通常の文化祭フォルダではありません」
「どこ?」
「非表示フォルダ」
画面に、階層が表示される。
放送記録。
未整理素材。
旧相談室。
その名前を見た瞬間、ぼくとひより先輩は同時に顔を上げた。
「旧相談室?」
ひより先輩が言う。
以前の恋愛相談室。
放課後相談室へ名前を変える前の場所。
放送委員会の記録フォルダに、その名前がある。
鳴海くんがフォルダを開く。
中には、音声ファイルが複数入っていた。
水瀬灯里。
白石すず。
早川琴音。
朝倉澪。
成瀬冬馬。
これまで放課後相談室が関わってきた生徒たちの名前。
「どうして」
ひより先輩の声がかすれる。
白石すずさんの文化祭ステージ上の声。
早川琴音さんの合唱部演奏。
朝倉澪さんの文化祭読書紹介インタビュー。
成瀬冬馬くんの試合動画に残った声。
学校行事や部活動の記録から集められた音声。
相談室での会話を録音したものではない。
それでも、相談室へ来た生徒たちの声だけが、同じフォルダへ集められている。
誰かが、放課後相談室を見ている。
誰が相談に来たかを知っている。
そして、その人物たちの声を学校の記録から集めている。
「このフォルダを作ったアカウントは?」
ぼくが聞く。
鳴海くんが操作履歴を開く。
「委員長用アカウント」
また、久世先輩のアカウント。
「作成日時は?」
「三日前」
男子バスケットボール部の写真事件が進行していた時期。
「私は作っていない」
久世先輩は、はっきり言った。
「信じます」
ひより先輩が答える。
「証拠もあります。久世先輩のアカウントが使われた時間、本人は別の場所にいた」
ぼくは、フォルダの中を見る。
それぞれの名前の横に、番号がついている。
一。
二。
三。
四。
五。
水瀬灯里だけは、番号がない。
代わりに、零。
「水瀬さんが零」
ぼくがつぶやく。
「最初の人という意味でしょうか」
「最初の相談者?」
久世先輩が聞く。
ひより先輩は首を横に振った。
「灯里さんは、相談者になれなかった」
その言葉が、放送室に落ちた。
助けを求める前に、噂が広がった。
気持ちを聞かれる前に、周囲が答えを決めた。
相談室が守れなかった人。
だから零なのか。
鳴海くんが、フォルダの最下部を見た。
「まだファイルがあります」
「誰の?」
ひより先輩が聞く。
音声ファイルではなかった。
放送予約データ。
次の月曜日。
昼休み。
午後零時四十五分。
校内放送への自動送出予約。
ファイル名。
06 一ノ瀬ひより 最後の相談。
ひより先輩の顔から、完全に笑みが消えた。
「私の名前」
ぼくは、画面を見つめた。
予約はまだ有効になっている。
再生時間、二分四十八秒。
「止められますか」
ぼくが聞く。
「止められます」
鳴海くんが答える。
「でも、先に中身を確認した方がいい」
久世先輩は顧問の先生を見る。
先生がうなずいた。
「校内へ流れない状態で確認してください」
鳴海くんは、自動送出を無効にする。
それから、スピーカーではなく、ヘッドホン出力へ切り替えた。
「誰が聞きますか」
ひより先輩が手を上げる。
「私が聞く」
「先輩」
ぼくは止めかけた。
ひより先輩がこちらを見る。
怖くないはずがない。
自分の名前がついた、最後の相談という音声。
それでも先輩は言った。
「私の名前がついてる。まず私が聞く」
「一人では聞かせません」
ぼくは答えた。
「書記くん」
「相談室の担当者も、一人で抱え込まないルールです」
ひより先輩は、少しだけ目を見開いた。
それから、弱く笑った。
「覚えてたんだ」
「忘れません」
ヘッドホンを二つ接続する。
ひより先輩と、ぼく。
久世先輩と鳴海くん、顧問の先生は、波形と再生時間だけを確認する。
再生ボタンが押された。
最初は、無音だった。
次に、古い校内放送の開始音。
そして。
一ノ瀬ひより先輩の声が流れた。
ただし、今ここにいるひより先輩が話しているのではない。
過去の放送記録から切り取られ、つなぎ合わされた声。
放課後相談室へようこそ。
その次に、水瀬灯里さんの声。
私の相談を、覚えていますか。
ひより先輩の手が震えた。
さらに、別の女子生徒の声。
助けてください。
別の声。
助けないでください。
白石すずさん。
私の気持ちは、私が決めます。
早川琴音さん。
歌いたいのに、声が出ないんです。
朝倉澪さん。
まだ、選べません。
成瀬冬馬くん。
戻ってこいと言わないでください。
これまでの相談者たちの言葉が、短くつながれている。
学校行事や先生との面談記録に残った音声。
すべて、本来は別の場面で話された言葉。
それが一つの放送へ組み直されていた。
最後に、知らない声が流れた。
低く加工され、性別もわからない。
一ノ瀬ひより。
次は、あなたが相談する番です。
音声は、そこで終わった。
ヘッドホンを外しても、しばらく誰も話せなかった。
「書記くん」
ひより先輩が言った。
声は震えている。
「はい」
「これ、私たちのことをずっと見てた人が作ったんだよね」
「そうだと思います」
「相談者が誰だったかも、何を言ったかも」
「すべてではありません。使われているのは、公開された記録や学校側に残った音声です」
「でも、選び方を知ってる」
その通りだった。
どの言葉が、本人にとって一番重かったか。
どの一文を使えば、ひより先輩の心へ届くか。
作成者は知っている。
少なくとも、相談室で何が起きていたかを近くで見ていた。
久世先輩が、放送予約画面を閉じた。
「このデータは先生が保全する。放送委員会だけの問題ではない」
「生徒指導と生徒会にも共有します」
顧問の先生が答える。
「関係する生徒の音声が無断で使用されています。本人への説明も必要になります」
ひより先輩は、まだ画面を見ていた。
06 一ノ瀬ひより 最後の相談。
「最後って、どういう意味だと思う?」
「相談室を終わらせるという意味かもしれません」
ぼくは答えた。
「また私が失敗するってこと?」
「決めつけないでください」
「でも」
「音声を作った人の答えを、先輩が先に信じる必要はありません」
ひより先輩は、ぼくを見る。
「一ノ瀬ひよりの最後の相談と書いたのは、その人物です」
ぼくは画面を指した。
「先輩が最後にするかどうかを決めたわけではありません」
ひより先輩は、少し黙った。
それから、息を吐いた。
「そうだね」
久世先輩が、腕を組む。
「相談室の人は、相談者にはまともなことを言うのね」
「相談者には?」
ひより先輩が聞く。
「普段は原稿にないことを言うのに」
「そこへ戻る?」
「緊張を下げるため」
「綾音なりの気遣い?」
「違う」
「今の間は気遣いだったよ」
久世先輩は答えなかった。
鳴海くんは、音声ファイルの詳細を確認していた。
「もう一つあります」
その言葉で、全員が彼を見る。
「予約データを作った端末」
「放送室のパソコンではない?」
ぼくが聞く。
「違います」
「どこ?」
鳴海くんは、接続元の記録を画面に表示した。
端末名。
SC―01。
「何の端末ですか」
久世先輩の表情が変わった。
「生徒会室の共用パソコン」
ひより先輩が息を止めた。
放課後相談室と最も近い場所。
三枝莉子先輩。
黒崎悠真先輩。
青柳楓先輩。
ぼく。
ひより先輩。
生徒会関係者が使用する端末。
音声を作った人物は、放送委員会だけではない。
生徒会室の中にも入っていた。
あるいは。
生徒会の中にいる。
画面の端に、最終更新者の名前が表示された。
委員長用アカウントではない。
生徒会共用アカウントでもない。
個人名。
黒崎悠真。
放課後相談室の先生連絡担当。
第一の事件で、灯里さんを守るために、相談内容の一部を先生へ伝えた人物。
ひより先輩の顔が、ゆっくりと強張った。
「黒崎くん?」
ぼくは画面を見た。
名前が記録されているからといって、本人が操作したとは限らない。
久世先輩のアカウントも、誰かに使われていた。
それでも。
次の確認先が決まった。
放課後相談室へ届いた相談番号三。
存在しない声は、過去の相談者たちの声をつなぎ合わせて作られていた。
そして、その声は、一ノ瀬ひより先輩へ向けられていた。
次は、あなたが相談する番です。
第29話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、放送室に残されていた謎の音声を調べました。
新たに登場したのは、校内で「星ヶ丘高校の声」として知られる放送委員長・久世綾音と、音響分析を得意とする一年生・鳴海律です。
調査の結果、「私がいなくなったら、この放送を流してください」という声は、一人の生徒のものではありませんでした。
久世綾音、一ノ瀬ひより、そして水瀬灯里。
複数の生徒の過去の音声を切り取り、つなぎ合わせて作られた「存在しない声」でした。
さらに、放送室の非表示フォルダには、これまで放課後相談室が関わってきた生徒たちの音声が集められていました。
そして次の月曜日に予約されていた放送。
06 一ノ瀬ひより 最後の相談。
作成に使われた端末は、生徒会室の共用パソコン。
最終更新者として記録されていた名前は、黒崎悠真でした。
次回は、黒崎悠真への確認と、放課後相談室を見続けている人物の正体へ近づいていきます。




