第28話 戻ってこいと言わないで
七枚目の写真を送り続けていたのは、三年生マネージャーの大橋だった。
しかし、写真は成瀬冬馬本人が望んだものではない。
脅迫も、藤堂への非難も、孤立した姿の公開も、成瀬は頼んでいなかった。
成瀬が本当に話したかったのは、写真のことではない。
けがをしていると言えなかったこと。
そして、「戻ってこい」という言葉が怖かった理由だった。
翌日の放課後。
旧進路指導室のドアには、いつもの案内文が貼られていた。
放課後相談室。
うまく話せなくても、大丈夫です。
その一文を、成瀬冬馬くんはしばらく見つめていた。
右手首には、昨日と同じ黒いサポーターが巻かれている。
制服姿で、スポーツバッグは持っていない。
男子バスケットボール部員だった頃なら、放課後に体育館へ向かっていたはずだ。
けれど今日は、旧進路指導室の前に立っている。
「入ってもいいですか」
「うん」
一ノ瀬ひより先輩が答えた。
「待ってたよ」
成瀬くんは、小さく頭を下げて部屋へ入った。
相談室には、ぼくとひより先輩、佐伯先生がいた。
男子バスケットボール部の関係者は、まだ呼んでいない。
成瀬くんが、最初は少人数で話したいと希望したからだ。
机には、相談番号二の新しい記録用紙が置かれている。
相談者は佐久間亮くんとして始まった。
けれど、今この部屋にいる成瀬くんも、相談者として扱う必要がある。
ぼくは、別の用紙を一枚用意した。
相談番号二―二。
同じ出来事に関係していても、本人の相談は本人のものとして分ける。
誰かの言葉の付属品にしないためだ。
「最初に説明するね」
ひより先輩が言った。
「ここで話したことは、原則として外には出さない。ただ、部活動中のけがや安全管理、脅迫写真の件は先生へ共有が必要になる」
「はい」
「昨日の時点で、写真については先生と保護者の方へ説明済み。今日話す内容も、どこまで誰に伝えるかは、できるだけ成瀬くんと確認しながら進める」
「はい」
「途中でやめてもいいし、答えたくないことは答えなくていい」
成瀬くんは、案内文をもう一度見た。
「わかりました」
席に着く。
成瀬くんは、サポーターを巻いた右手を机の下へ隠した。
それを見て、ひより先輩が聞いた。
「手首、まだ痛い?」
「普段はあまり痛くないです」
「ボールを持つと?」
「強くひねると痛みます。医者には、もう少し休んだ方がいいと言われました」
「バスケは?」
成瀬くんは、少しだけ目を伏せた。
「今はしてません」
今は。
辞めたから、もうしないとは言わなかった。
「昨日、けがをしていると言えなかった時から戻れなくなったって言ったよね」
ひより先輩が静かに切り出す。
「そのことを話したい?」
成瀬くんは、しばらく黙っていた。
窓の外から、体育館のホイッスルが聞こえる。
別の部活だろうか。
短い笛の音。
床を走る靴の音。
成瀬くんの右手が、左手首ではなく、無意識に右手首へ触れた。
「最初は、大したことないと思ってました」
やがて、彼は話し始めた。
「練習中に転んで、手をついただけでした。少し痛かったけど、動かせたから」
「誰かには言った?」
「真琴には」
高瀬真琴さん。
同じ中学出身のバスケットボール部マネージャー。
「テーピングしてくれって頼みました」
「どうして高瀬さんだけに?」
成瀬くんは、少し困ったように笑った。
「真琴なら、ばれないように巻いてくれると思ったからです」
「ばれたくなかった?」
「はい」
「誰に?」
「先生にも、部員にも」
「試合に出られなくなるから?」
成瀬くんはうなずいた。
「次の練習試合で、ポイントガードを外されたくなかった」
ポイントガード。
コートの中でボールを運び、味方へ指示を出し、攻撃の形を決める役割。
迷ってはいけない。
状況を読み、すぐに判断することを求められる。
「ずっと、佐久間と一緒に試合へ出るのが目標でした」
成瀬くんは言った。
「中学の時から、俺がパスして、亮が決める。その形で勝ちたいって話してました」
佐久間亮くん。
親友だと思っていた相手。
「高校へ入って、やっと一緒に先発へ入れたんです。だから、手首が痛いくらいで外されたくなかった」
「高瀬さんは止めなかった?」
「止めました」
成瀬くんは、すぐに答えた。
「病院へ行った方がいい。先生に言うって」
「でも、言わないでほしいと頼んだ」
「はい」
「それで高瀬さんは、試合当日の朝に先生へ話した」
成瀬くんの表情が少し曇る。
「余計なことをされたと思いました」
「今も?」
ひより先輩が聞く。
成瀬くんは答えなかった。
「昨日、真琴が先生に伝えていたって聞きました」
「知らなかった?」
「先生から確認された時、俺は大丈夫だと言いました。真琴が先に言っていたとは知りませんでした」
榊先生は、けがの可能性を知っていた。
けれど、成瀬くん本人が出場できると言ったため、その言葉を優先した。
止めるべきだったのか。
本人の意思を尊重すべきだったのか。
少なくとも、高校生の「大丈夫」だけで判断していい問題ではなかった。
「試合中、痛みは?」
ぼくが聞く。
「ありました」
「いつから強くなった?」
「前半の途中です。パスを出した時に、ずきっとして」
「交代を申し出なかった?」
「言えませんでした」
「どうして?」
成瀬くんは、自分の右手を見た。
「ポイントガードが痛いから交代してほしいなんて言ったら、迷惑をかけると思いました」
「藤堂くんが控えにいた」
「いました」
「任せられなかった?」
「違います」
成瀬くんは首を横に振った。
「藤堂ならできると思ってました。でも、自分から降りたくなかった」
それは、藤堂くんを信じていなかったのではない。
自分の場所を手放すのが怖かったのだ。
「試合の最後」
成瀬くんの声が少し低くなる。
「残り十秒で、俺がボールを持ってました」
昨日まで何度も聞いた場面。
一点差。
残り十秒。
佐久間くんがゴール下。
成瀬くんがパスを出すか、自分でシュートするかを迷った。
「手首が痛くて、自分では打てないと思いました」
「だから、佐久間くんへパスした」
「はい。でも、痛くなかったら自分で行くべきだったのかって、一瞬考えました」
その一瞬が、判断の遅れになった。
残り一秒。
無理な体勢でシュートを受けた佐久間くんは外した。
試合は負けた。
「亮に言われました」
成瀬くんは、笑わなかった。
「迷うくらいなら、最初から試合に出るなって」
その言葉は、何度聞いても鋭かった。
ただ、成瀬くんにとっては、試合で負けた責任を責められただけではない。
手首が痛いこと。
それを隠したこと。
交代できなかったこと。
全部を見抜かれたように感じたのかもしれない。
「その時、言い返したかった?」
ひより先輩が聞く。
「痛かったって?」
「それも」
成瀬くんは、少し考えた。
「言いたかったです」
「どうして言わなかった?」
「言ったら、もっと格好悪いと思ったから」
「けがを隠して試合に出て、判断が遅れた。そんなの、言い訳にしか聞こえないと思いました」
「実際には、言い訳ではなく事実だよ」
「でも、負けたあとに言ったら同じです」
成瀬くんの中では、事実を説明することと、言い訳をすることが同じになっていた。
痛いと言う。
交代したいと言う。
怖いと言う。
迷ったと言う。
それらはすべて、弱さを見せることだと思っていたのだろう。
「そのあと、病院へ行って一か月休むことになった」
「はい」
「部活には見学へ来ていた」
「はい」
「その時は、戻るつもりだった?」
成瀬くんは、少し迷ってからうなずいた。
「戻るつもりでした」
「藤堂くんへポイントガードを頼んだのは?」
「俺が休んでいる間、チームが止まるのは嫌だったからです」
「返さなくていい、とも言っていたね」
「はい」
「どういう意味?」
成瀬くんは、窓の外を見た。
「ポジションは、物じゃないから」
「物じゃない?」
「俺の名前が書いてある席じゃない。藤堂が試合で結果を出したら、藤堂が続ければいいと思いました」
「それでも、部活には戻るつもりだった」
「ポイントガードじゃなくても、戻れると思ってました」
ここに、送り主だった大橋先輩の誤解があった。
大橋先輩は、藤堂くんが成瀬くんの居場所を奪ったと思った。
でも、成瀬くんが失ったと感じていたのは、ポジションだけではない。
「名前が消えてた時」
成瀬くんは言った。
「けが人の場所にも、俺の名前がありませんでした」
ホワイトボードのメンバー表。
出場選手。
控え。
けが人。
成瀬冬馬の名札は、どこにもなかった。
「最初は、主将が貼り忘れたんだと思いました」
「武田先輩に聞かなかった?」
「亮に聞きました」
俺、もういないことになってるのか。
佐久間くんは答えた。
戻ってきたら、また名前を貼ればいい。
「亮は、悪気がなかったと思います」
成瀬くんは言った。
「でも、その時は、戻ってくるまで俺は部員じゃないって言われたように聞こえました」
「けがで休んでいる間は、いない人」
「はい」
名前が外された。
練習には参加できない。
試合にも出ない。
新しいポイントガードは決まった。
けれど、成瀬くんはまだ退部していなかった。
「そのあと、名札がごみ箱から見つかった」
「はい」
「誰が捨てたか、昨日わかった」
「大橋先輩です」
「どう思った?」
成瀬くんは、すぐには答えなかった。
「腹が立ちました」
静かな声だった。
「写真を送ったことにも?」
「はい」
「名札を捨てたことにも?」
「はい」
「自分のためにやったと言われたことにも?」
成瀬くんは、強くうなずいた。
「俺が消されたことを、みんなにわからせたかったって言われました」
「でも、俺の写真を勝手に使った」
「はい」
「俺が一人でいる写真を、全員に送ろうとした」
「はい」
「藤堂を、奪ったやつって決めた」
「はい」
「佐久間くんを脅した」
成瀬くんは、右手首を押さえた。
「俺のためじゃないです」
昨日と同じ言葉だった。
「たぶん、大橋先輩は、自分が名札を捨てたことを許せなかったんだと思います」
「それで、みんなも同じように悪いと証明したかった」
「はい」
成瀬くんは、ひより先輩を見た。
「俺は、消されたって感じました」
「うん」
「でも、誰か一人が消したわけじゃありません」
七枚目の写真。
誰か一人が消したんじゃない。
みんなで見ないふりをした。
私も。
「大橋先輩の書いたことは、全部間違いではないです」
成瀬くんは言った。
「先生も知っていた。真琴も知っていた。亮も、俺が少し痛いって言っていたのを知ってた。武田先輩は名札を外した。大橋先輩は写真を消した」
「でも、みんな同じ責任ではない」
ぼくが言うと、成瀬くんは、少し驚いたようにこちらを見た。
「はい」
「けがを隠した成瀬くん自身の判断。高瀬さんから報告を受けても、医療的な確認をせず出場させた榊先生の判断。試合後に言葉をぶつけた佐久間くん。退部前に名札を外した武田先輩。名札を捨て、写真を消した大橋先輩」
ぼくは、記録用紙に並べた項目を見る。
「一つの『みんなが悪い』でまとめると、誰が何を直すべきかがわからなくなります」
成瀬くんは、しばらく考えた。
「そうですね」
ひより先輩がぼくを見る。
「書記くん、今日はずいぶん書記っぽい」
「普段も書記です」
「知ってる」
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
成瀬くんも、ほんの少し口元を動かした。
「それで」
ひより先輩は話を戻す。
「成瀬くんは、今日どうしたい?」
成瀬くんの表情が、また硬くなった。
どうしたい。
この相談室で、何度も出てきた問い。
誰かを責めたいのか。
謝ってほしいのか。
部活へ戻りたいのか。
戻りたくないのか。
写真を消したいのか。
記録を残したいのか。
「昨日、関係する人と話したいって言ったよね」
「はい」
「全員と話す?」
成瀬くんは、少し考えた。
「話したいです」
「今?」
「はい」
「大橋先輩も?」
右手の指がわずかに動いた。
「今は、同じ部屋には入りたくないです」
「わかった」
ひより先輩は、すぐに答えた。
「大橋先輩は別にする」
謝りたい側が、勝手に同席しない。
昨日から続いている原則だった。
佐伯先生が、関係者を呼びに行った。
しばらくして、相談室へ入ってきたのは四人だった。
佐久間亮くん。
藤堂くん。
高瀬真琴さん。
主将の武田先輩。
最後に、顧問の榊先生。
部屋は狭い。
全員が座ることはできないため、壁際から折り畳み椅子を追加した。
成瀬くんは、入口から最も遠い席に座っている。
隣にはひより先輩。
佐伯先生は、全員が見える場所に立った。
「この話し合いは、誰かに謝罪を強制する場ではありません」
佐伯先生が最初に言った。
「成瀬くんが、自分の経験と希望を話すための場です。途中で続けられなくなった場合は中止します」
全員がうなずいた。
佐久間くんは、成瀬くんを見ている。
けれど、成瀬くんの方から話すまで声をかけなかった。
「まず」
成瀬くんが口を開く。
「写真を送ったのは、俺じゃない」
佐久間くんがうなずく。
「昨日、わかった」
「でも、最初に俺だと思った」
「うん」
「理由は?」
佐久間くんは、視線を落とした。
「お前が、俺を恨んでると思ったから」
「何を?」
「試合のあとに言ったこと」
「それだけ?」
佐久間くんは答えられない。
「俺の名前が消えてた時、何もしなかったことも?」
「うん」
「戻ってこいって送っただけで、謝らなかったことも?」
「うん」
一つずつ確認される。
佐久間くんは、逃げなかった。
「俺、謝りたい」
成瀬くんは黙っている。
「でも、謝ったら許してほしいって聞こえるかもしれない」
佐久間くんは、自分の膝の上で拳を開いた。
「だから、まず言う」
成瀬くんが、彼を見る。
「試合のあと、迷うくらいなら出るなって言って、悪かった」
声が震えている。
「お前が手首を痛めてるの、少し知ってた。大丈夫だって言うから、そのままにした。でも、本当は試合前に聞くべきだった」
「何て?」
「本当に出られるのか。痛いなら、先生にちゃんと言った方がいいんじゃないかって」
佐久間くんは続ける。
「名前が消えた時も、戻ってきたら貼ればいいって言った。あれも悪かった」
「俺は、戻る場所があると思ってたから、簡単に言った」
「でも、お前がどう感じるかは考えてなかった」
佐久間くんは頭を下げた。
「ごめん」
長い沈黙。
成瀬くんは、すぐには答えない。
「今は、許せない」
その言葉で、佐久間くんの肩が揺れた。
「うん」
「試合のあとに言われたこと、今も思い出す」
「うん」
「でも、謝ってくれたことは聞いた」
「うん」
「それだけ」
「わかった」
許されなかった。
でも、佐久間くんは言い訳をしなかった。
少なくとも今は、それ以上を求めなかった。
次に、藤堂くんが口を開いた。
「俺からも話していいか」
「うん」
「ポイントガードのこと」
成瀬くんは少し笑った。
「藤堂には、昨日も言っただろ」
「でも、みんなの前では言ってない」
藤堂くんは、武田主将と佐久間くんを見る。
「成瀬から頼まれた。俺は、成瀬のポジションを奪ったんじゃない」
「成瀬が戻ってきても、俺が続けるかもしれない。それも成瀬はわかっていた」
武田先輩が、少し眉を寄せる。
「成瀬。本当にそうなのか」
「はい」
「戻った時、ポジションがなかったら」
「競争します」
成瀬くんは、まっすぐ答えた。
「ポイントガードじゃなくても、バスケ部員には戻れます」
その言葉に、武田先輩の顔がわずかに歪んだ。
自分が、ポジションと所属を同じものとして扱っていたと気づいたのかもしれない。
「俺が間違えた」
武田先輩は言った。
「次の試合に出られないから、名札を外した。けが人の場所へ移すべきだった」
「はい」
「退部前に、今いるメンバーから外した」
「はい」
「大橋に片づけておけと言ったのも俺だ。ごみ箱に捨てるとは思っていなかったが、引き出しへしまえばいいとも思っていた」
「はい」
「見える場所に残す必要はないと思った」
成瀬くんの視線が、少し下がる。
武田先輩は続けた。
「部を前へ進めることばかり考えた。けが人も部員だという当たり前のことを、忘れていた」
「ごめん」
成瀬くんは、しばらく黙った。
「名札は、戻さなくていいです」
武田先輩が驚く。
「戻さなくていい?」
「俺は退部したので、今のメンバー表にはいません」
「でも」
「過去の名簿には、残してください」
成瀬くんは言った。
「地区大会に出たこと。練習試合に出たこと。俺がポイントガードだったこと」
「なかったことにはしないでください」
「わかった」
武田先輩は、強くうなずいた。
現在の名簿へ戻すことと、過去の記録を残すことは違う。
成瀬くんは、その違いを自分で選んだ。
高瀬さんは、成瀬くんの名札を手にしていた。
昨日と同じ、小さな白い磁石。
「冬馬」
「うん」
「これ、どうする?」
成瀬くんは名札を見た。
「真琴に渡したものだから、真琴が決めていい」
「でも、冬馬の名前だよ」
「捨ててほしくないなら、持ってて」
高瀬さんの目に涙が浮かぶ。
「捨てない」
「うん」
「絶対」
「絶対じゃなくていい」
成瀬くんは、少しだけ笑った。
「いらなくなったら捨てていい」
「いらなくならない」
「重い」
「うるさい」
二人の間に、わずかに以前の空気が戻った。
でも、高瀬さんの表情はすぐに曇った。
「私も謝らないといけない」
「先生に言ったこと?」
「それも」
「それは謝らなくていい」
成瀬くんは、すぐに言った。
高瀬さんが目を見開く。
「でも、冬馬は怒って」
「その時は怒った。でも、真琴が先生に言わなかったら、もっとひどくなってたかもしれない」
「それでも先生が出した」
「それは先生の判断」
成瀬くんは、榊先生を見る。
「真琴の判断とは別です」
ぼくは、昨日自分が言ったことを思い出した。
みんなが悪いでまとめない。
誰が何をしたかを分ける。
成瀬くんは、自分でそれをしていた。
「真琴に謝ってほしいのは」
「うん」
「俺が辞めたあと、毎日みたいに連絡してきたこと」
高瀬さんが固まる。
「体調どう。学校来る。部活見に来る。名札持ってるよ。写真残してるよ」
成瀬くんは指を折るように並べた。
「心配してくれてたのはわかる。でも、返事をしないと、また来る」
「ごめん」
高瀬さんは、すぐに頭を下げた。
「冬馬が一人にならないようにしないとって」
「一人にしてほしい時もある」
「うん」
「これからは、返事がなかったら待って」
「わかった」
助けること。
声をかけること。
連絡すること。
それ自体が正しくても、相手が受け取れる量を超えれば負担になる。
最後に、成瀬くんは榊先生を見た。
部屋の空気が、また硬くなった。
「先生」
「はい」
榊先生は、顧問としてではなく、生徒の話を聞く大人として答えた。
「真琴から、俺が手首を痛めてるって聞いてたんですよね」
「聞いていた」
「俺が大丈夫って言ったから、出した」
「はい」
「今も、その判断でよかったと思いますか」
榊先生は、すぐに答えなかった。
「いいえ」
短い言葉だった。
「本人が出たいと言っても、医務室や保護者へ確認するべきだった。少なくとも、試合前に状態を詳しく確認し、出場時間を制限する判断が必要だった」
「でも、それをしなかった」
「はい」
「どうしてですか」
榊先生は、手を組んだ。
大きな手だった。
ボールを持つわけではない。
けれど、試合に出す選手を決める権限を持つ手。
「勝ちたかったからです」
部屋が静かになった。
「成瀬がポイントガードとして必要だった。本人が出られると言った言葉を、都合よく信じた」
榊先生は、成瀬くんから目をそらさなかった。
「指導者として、安全より試合を優先した。申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる。
成瀬くんは、先生を見ていた。
「先生に、迷うなって言われました」
「はい」
「俺が痛いと言うか迷ったことも、交代するか迷ったことも、全部悪いことみたいに思いました」
「そのように感じさせたのは、私の指導の問題です」
「ポイントガードは迷ったらだめなんですか」
榊先生は、少し考えた。
「試合中は、素早い判断が求められる」
「はい」
「しかし、自分の体調や安全について、迷わず我慢することを求めたつもりはありませんでした」
「でも、そうなってました」
「はい」
榊先生は認めた。
「今後、部活動では体調申告の方法を変えます」
榊先生は、佐伯先生と事前に話していたらしい。
けがや痛みがある場合、本人だけの判断で出場を決めない。
マネージャーや部員から報告があった場合も、顧問が保健室や保護者と連携する。
けが人の名前をメンバー表から外さず、活動制限中として区別する。
試合後の振り返りでは、個人一人へ敗因を集中させない。
退部時には、本人と面談し、写真や記録の扱いを確認する。
「ルールを作れば終わるわけではありません」
榊先生は言った。
「私自身の判断について、学校へ正式に報告します」
「そうしてください」
成瀬くんは言った。
その声には、怒りがあった。
でも、先生を罰したいだけではない。
同じことを繰り返してほしくないという意思があった。
話し合いは、そこで一度止まった。
ひより先輩が、成瀬くんへ聞く。
「今までの話を聞いて、もう一度確認するね」
「はい」
「成瀬くんは、バスケ部へ戻りたい?」
全員が成瀬くんを見る。
その視線に気づき、ひより先輩はすぐに言った。
「みんなは、答えを求める顔をしないで」
佐久間くんたちが、少し気まずそうに視線を下げた。
成瀬くんは、しばらく考えた。
「今は、戻りません」
佐久間くんの肩がわずかに動く。
高瀬さんも、名札を握る。
でも、誰も引き止めなかった。
「バスケが嫌いになった?」
ひより先輩が聞く。
「嫌いではありません」
「部活が嫌?」
「今は、怖いです」
成瀬くんは正直に言った。
「体育館に入ると、また痛くても言えない気がする。みんなが大丈夫かって聞いてくれても、大丈夫って答える気がする」
「だから、今は戻らない」
「はい」
「これから先は?」
「わかりません」
「うん」
「戻るかもしれないし、戻らないかもしれない」
「うん」
「でも」
成瀬くんは、佐久間くんを見た。
「戻ってこいって言わないでほしい」
佐久間くんの顔が、はっきりと痛んだ。
「戻ってこいって言われると、今の俺が間違ってるみたいに聞こえる」
「部活へ戻らない俺は、逃げてるって言われてる気がする」
「そんなつもりじゃ」
佐久間くんは言いかけ、止まった。
つもりではなく、どう聞こえたか。
今まで何度も問題になったことだった。
「じゃあ、何て言えばいい」
佐久間くんが聞く。
成瀬くんは少し考えた。
「何も言わなくていい」
「何も?」
「たまに、普通に連絡して」
「バスケのことじゃなくて?」
「うん」
「ゲームとか?」
「それでいい」
「昼飯とか?」
「それでもいい」
佐久間くんの目が赤くなる。
「わかった」
「戻るかどうかは、俺が決める」
「うん」
「戻らなくても、友達じゃなくなるわけじゃないだろ」
佐久間くんは、すぐに答えられなかった。
唇を噛み、下を向く。
そして、小さく言った。
「ならない」
成瀬くんは、それ以上何も言わなかった。
許したわけではない。
元通りになったわけでもない。
でも、部活へ戻ることと、友達でいることを分けた。
それは、二人に必要な新しい線だった。
話し合いが終わったあと、関係者は佐伯先生と榊先生に呼ばれ、今後の正式な対応について確認するため部屋を出た。
最後に残ったのは、成瀬くんと、ぼくとひより先輩。
成瀬くんは、机の上に置かれた相談番号二―二の用紙を見た。
「何を書いたんですか」
ぼくは、本人の希望欄を見せた。
・現在、男子バスケットボール部へ復帰する意思はない。
・将来の復帰については保留。
・本人の許可なく、七枚目の写真を共有しない。
・過去の部活動記録から、本人の在籍や参加を削除しない。
・友人や部員から、復帰を強く求めない。
・けがや体調を申告できる運用を整える。
成瀬くんは、一つずつ読んだ。
「合ってます」
「修正したいところは?」
「ありません」
「では、この内容を先生へ共有します」
「お願いします」
ひより先輩が聞いた。
「七枚目の写真は、どうする?」
成瀬くんは、少し考えた。
「昨日、一人で見たいって言いました」
「うん」
「見ました」
「どうだった?」
「格好悪かったです」
「そう?」
「一人で手首を押さえて、下を向いてました」
「うん」
「でも、消してほしくはないです」
成瀬くんは言った。
「みんなに配るのは嫌です。でも、俺がそうなっていた記録は残してほしい」
「学校で保管する?」
「はい」
「誰が見られるかも決めよう」
「俺と、必要な先生だけにしてください」
「わかった」
記録を残すことは、公開することと同じではない。
覚えておくことと、晒すことも違う。
大橋先輩は、その境界を越えてしまった。
だから今度は、本人が線を引いた。
成瀬くんは席を立った。
ドアの前で、ひより先輩を振り返る。
「一ノ瀬先輩」
「うん」
「相談って、問題を解決する場所だと思ってました」
「違った?」
「解決してないので」
ひより先輩は、少し笑った。
「そうだね」
「俺、部活に戻らないままだし、亮を許してないし、大橋先輩とも話してません」
「うん」
「でも、来る前よりは少し楽です」
ひより先輩はうなずいた。
「なら、今日はそれで十分だと思う」
「答えが出なくても?」
「出てるよ」
成瀬くんが首をかしげる。
「今は戻らない。戻ってこいと言われたくない。写真は勝手に広めないでほしい。過去の記録は消さないでほしい」
ひより先輩は指を折る。
「いっぱい決めた」
成瀬くんは、少し驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「本当ですね」
「気をつけて帰って」
「はい」
成瀬くんが帰ったあと、部屋が急に広く感じられた。
追加した折り畳み椅子が、まだいくつも残っている。
ぼくは一脚ずつ壁際へ戻した。
ひより先輩は机に座り、長く息を吐く。
「疲れた」
「はい」
「書記くんは?」
「疲れました」
「珍しく素直」
「必要なので」
「何が必要なの」
先輩は少し笑った。
ぼくは、相談番号二―二の最後に一文を加えた。
戻ってくることだけが、仲直りではない。
戻らないと決めた人の場所も、消してはいけない。
ひより先輩が、横からのぞき込む。
「詩みたい」
「消しますか」
「消さない」
いつものやりとり。
でも、今日は先輩が少しだけ黙った。
「書記くん」
「はい」
「私、前なら成瀬くんに、また戻れるといいねって言ってたかもしれない」
「今は言いませんでした」
「うん」
先輩は、ドアの案内文を見る。
あなたの代わりに勝手に決めることはしません。
「戻ることが正解だって、決めつけそうになってた」
「戻らないことが正解とも限りません」
「そうだね」
「成瀬くんが、その時に決めます」
「うん」
先輩は、少しだけ満足そうにうなずいた。
その時、ドアが一度だけノックされた。
ぼくとひより先輩が顔を見合わせる。
「今日は多いですね」
「正式再開したからね」
「相談番号三ですか」
「まだ決めない」
先輩が姿勢を正す。
「どうぞ」
ドアが開いた。
そこに立っていたのは、三年生の女子生徒だった。
制服の胸元には、放送委員の名札。
手には、小さな音声レコーダーを持っている。
彼女は部屋へ入ると、後ろを確認してからドアを閉めた。
「相談があります」
「うん」
「昨日の昼休み、校内放送で流れた音声についてです」
ぼくは、ひより先輩を見る。
昨日の昼休み。
ぼくは授業の資料を整理していて、校内放送をほとんど聞いていなかった。
ひより先輩も首をかしげている。
「何か変な放送があった?」
女子生徒は、音声レコーダーを机へ置いた。
「実際の放送では、普通の音楽が流れていました」
「でも?」
「放送室の記録データには、別の声が残っています」
彼女は再生ボタンを押した。
最初に、短い雑音。
次に、誰かが息を吸う音。
そして、女子生徒の声が流れた。
小さい。
震えている。
けれど、はっきり聞こえた。
私がいなくなったら、この放送を流してください。
そこで音声は途切れた。
放送委員の女子生徒は、青ざめた顔で言った。
「この声の生徒が、誰なのかわかりません」
窓の外で、放課後を知らせるチャイムが鳴った。
男子バスケットボール部の相談は、ひとまず区切りを迎えた。
そして放課後相談室には、誰にも流されなかった声が届いた。
第28話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、成瀬冬馬本人が放課後相談室を訪れ、けがをしていると言えなかった理由と、「戻ってこい」という言葉が怖かった理由を語りました。
佐久間、藤堂、高瀬、武田主将、榊先生は、それぞれ自分が行ったことについて成瀬と向き合います。
ただし、謝罪によってすぐに元通りになるわけではありません。
成瀬は、現在はバスケットボール部へ戻らないと決めました。
将来戻るかどうかは保留。
そして、「戻ってこい」と強く求めず、友人として普通に接してほしいと伝えます。
男子バスケットボール部編は、ここでひとまず区切りです。
次回からは、放送室の記録データに残されていた声。
私がいなくなったら、この放送を流してください。
誰にも流されなかった音声をめぐる、新しい相談が始まります。




