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第23話 助けられたくない理由

銀河鉄道の夜』に挟まれていた二枚のメモ。


助けてください。

助けないでください。


読書紹介カードを隠したのは図書委員長・白井悠花だった。

そして、本を返却棚へ戻した可能性がある人物として、朝倉澪の友人・水野遥の名前が浮かぶ。



翌朝、朝倉澪が学校へ来る。

翌朝の校舎は、文化祭の後片づけが終わったばかりで、少しだけ静かだった。


昨日まで壁に貼られていた飾りは外され、廊下にはわずかにテープの跡だけが残っている。

教室の前に積まれていた段ボールもなくなり、黒板にはいつもの時間割が書かれている。


学校は、何事もなかったように日常へ戻ろうとしていた。


でも、ぼくたちの中では、まだ終わっていないものがある。


助けてください。

助けないでください。


その二枚のメモが、頭の中に残っていた。


朝、登校してすぐ、ぼくは生徒会室へ向かった。

すでに一ノ瀬ひより先輩が来ていた。


先輩は机の上に昨日の記録用紙を広げ、腕を組んでいる。


「おはようございます」


「おはよう、書記くん」


声はいつも通りだった。

でも、目元には少し疲れがある。


「寝不足ですか」


「少しね」


「考えてました?」


「うん。助けてほしいのに、助けないでほしいって、どういうことかなって」


先輩は、記録用紙の端を指で軽く叩いた。


「考えすぎても本人に聞かないとわからないんだけど。でも、考えちゃう」


「朝倉さんは登校しているんでしょうか」


「佐伯先生から連絡が来てる」


ひより先輩はスマホを見せた。


佐伯先生からのメッセージだった。


朝倉澪さんは登校。

一時間目の前に担任と面談。

体調は大きな問題なし。

放課後、本人の希望があれば放課後相談室で話を聞く予定。


本人の希望があれば。


その一文を見て、少しだけ安心した。


呼び出すのではない。

押しつけるのでもない。

本人が話すかどうかを決める。


それが今の放課後相談室のやり方だ。


「白井先輩は?」


ぼくが聞くと、ひより先輩は少しだけ表情を曇らせた。


「朝から図書室には来てないみたい。佐伯先生と図書委員の先生が、昼休みに話すって」


「水野遥さんは?」


「登校してる。朝倉さんと同じクラス」


水野遥。


昨日、神谷先輩が名前を出した生徒。

朝倉さんと親しく、今朝、図書室の前で本を持っていたらしい人。


本を返却棚へ戻したのが彼女なら、二枚目のメモにも関わっている可能性がある。


助けないでください。


それを書いたのは、朝倉さん本人なのか。

それとも、水野さんなのか。


「まずは放課後まで待つしかありませんね」


ぼくが言うと、ひより先輩は小さくうなずいた。


「うん。追いかけない」


それは、先輩自身に言い聞かせるような言葉だった。


「気になるけど、追いかけない。本人が来るなら、ここで待つ」


「相談室らしくなってきましたね」


「でしょ」


先輩は少し笑った。


でも、その笑顔は長く続かなかった。


「でも、待つのも難しいね」


「はい」


「助けてって書いてあると、走りたくなる」


「助けないで、とも書いてあります」


「そこが難しい」


先輩は、窓の外を見た。


校庭では、文化祭の残り片づけをしている生徒が数人いた。

青いゴミ袋を運び、看板の骨組みを外している。


何かを始める時より、終わらせる時の方が静かだ。


一時間目。

二時間目。

三時間目。


授業中も、ぼくは何度か窓の外を見てしまった。


朝倉澪さんという生徒の顔を、ぼくはまだ知らない。

でも、昨日見た読書紹介カードの文章は覚えている。


誰かに正しいと言われる道ではなく、自分が本当に選びたい道を探すこと。


あれを書いた人は、どんな顔で学校に来ているのだろう。


助けてくださいと書いた人は。

助けないでくださいと書いた人は。


同じ人なのか。

違う人なのか。


昼休み、図書室の前を通ると、神谷陸先輩がカウンターにいた。

ぼくに気づくと、少しだけ頭を下げた。


図書室の中はいつも通り静かだった。

けれど、奥のボードには『銀河鉄道の夜』の紹介カードがまだ戻されていない。


空いた場所だけが、妙に目立っている。


放課後になった。


旧進路指導室、つまり放課後相談室で待っていると、最初に来たのは佐伯先生だった。


「朝倉さんは、話をする意思があるそうです」


先生はそう言った。


ひより先輩の肩が、少しだけ下がる。


「来てくれるんですか」


「はい。ただし、今日は無理に全部話させないでください」


「はい」


「本人は、水野遥さんも同席してほしいと言っています」


ぼくとひより先輩は顔を見合わせた。


水野さんも。


つまり、二枚のメモに水野さんが関わっている可能性はかなり高い。


「白井さんは?」


ひより先輩が聞く。


佐伯先生は首を横に振った。


「今日は同席させません。白井さんは白井さんで、先生と話をしています。謝罪も、朝倉さん本人の準備ができてからです」


その判断に、ぼくはうなずいた。


謝りたい側の都合で、相手の前に立たせない。


昨日、佐伯先生が言った言葉だ。


「朝倉さんと水野さんを呼びます」


先生が廊下へ出ていく。


しばらくして、二人の女子生徒が入ってきた。


一人は、肩より少し長い髪をまっすぐ下ろした生徒だった。

細いフレームの眼鏡をかけている。

制服はきちんとしているのに、どこか体が小さく見える。


手には、文庫本を一冊抱えていた。


もう一人は、短めの髪を耳にかけた生徒だった。

目つきは少し強い。

朝倉さんの少し前に立つようにして入ってきた。


守るような立ち位置。


この二人の関係が、それだけで少し見えた気がした。


佐伯先生が紹介する。


「二年三組の朝倉澪さん。こちらが同じクラスの水野遥さんです」


朝倉澪さんは、小さく頭を下げた。


「朝倉です」


声は小さいが、聞き取りにくくはない。

むしろ、一つひとつの音を丁寧に置くような声だった。


水野遥さんは、ぼくたちを見てから軽く頭を下げた。


「水野です」


その声には、少し警戒が混じっている。


ひより先輩は、椅子を指した。


「座って。無理に話さなくていいから」


朝倉さんは、水野さんをちらりと見る。

水野さんが小さくうなずく。

それから、二人は並んで座った。


この時点で、ぼくは思った。


朝倉さんは、一人で来るのが怖かったのだろう。

そして、水野さんはその怖さを知っている。


ひより先輩は、最初に案内文と同じ説明をした。


ここで話した内容は原則秘密にすること。

ただし、安全や重大な問題に関わる場合は先生へ相談すること。

話したくないことは話さなくていいこと。

今ここで答えを出す必要はないこと。


朝倉さんは、その説明を静かに聞いていた。


最後の一文で、少しだけ目が揺れた。


今ここで答えを出す必要はありません。


たぶん、今の彼女には必要な言葉だった。


「朝倉さん」


ひより先輩が言った。


「まず、体調は大丈夫?」


「はい。昨日よりは」


「昨日は学校に来られなかったんだよね」


「はい」


「その理由を、今話せる?」


朝倉さんは、文庫本を膝の上で握った。


少し沈黙があった。


水野さんが、隣でじっと待っている。

代わりに答えようとはしない。


「学校に来るのが、怖くなりました」


朝倉さんは言った。


その声は、少しだけ震えていた。


「図書室に行くのも、白井先輩に会うのも、クラスで進路の話をされるのも、全部怖くて」


「進路の話?」


ひより先輩が聞く。


朝倉さんは、小さくうなずいた。


「私は、文章を書くのが好きです。小説とか、紹介文とか、感想文とか。誰かに読んでもらえるのも、本当は嬉しいです」


本当は。


その言葉が引っかかった。


「でも、家では理系に進むと思われています。成績も、理系科目の方がいいから。先生にも、理系で考えているんだよねって言われます」


「朝倉さん自身は?」


ひより先輩が聞く。


朝倉さんは、すぐには答えなかった。


「わかりません」


「わからない?」


「文系に行きたいって言えば、家の人をがっかりさせる気がします。でも、理系に行くって言えば、自分が書きたいものを捨てる気がします」


朝倉さんは、本の表紙を指でなぞった。


「どちらかを選ぶと、どちらかを傷つける気がしました」


選ぶと、誰かが傷つく。


昨日のカード裏の言葉とつながった。


選ばなければ、誰も傷つかない。


ただし、その言葉を書いたのは白井先輩だった。

でも、朝倉さんの中にも同じ怖さがあったのかもしれない。


「読書紹介カードには、その気持ちを書いた?」


ぼくが聞くと、朝倉さんは少し驚いたようにこちらを見た。


そして、小さくうなずいた。


「はい」


「本の紹介というより、自分のことだった?」


「そうです」


朝倉さんは、恥ずかしそうに目を伏せた。


「『銀河鉄道の夜』を読むと、いつも思うんです。誰かのために生きることと、自分で選ぶことは、同じなのか違うのかって」


彼女の声は少しずつ落ち着いていく。


話し始めると、言葉は自然に出てくる人なのだと思った。


「紹介カードを書いた時、自分が本当は何を選びたいのか、少しだけ書いてしまいました。だから、あのカードが一位になった時、嬉しいより先に怖くなりました」


「どうして?」


「みんなに読まれたからです」


朝倉さんは、膝の上の本を握る。


「文章を褒められるのは嬉しいです。でも、あれは私の中身みたいなものだったから。みんなが『いい文章だね』って言うたびに、私の迷っているところを見られている気がしました」


ひより先輩は、黙って聞いていた。


「白井先輩は、気づいていたんだと思います」


朝倉さんは続けた。


「私が怖がっていることに。だから、カードを隠したんだと思います」


「白井先輩のしたことを、許せる?」


ひより先輩が聞いた。


朝倉さんは、首を横に振った。


「まだ、わかりません」


「うん」


「でも、白井先輩が私を嫌ってやったわけじゃないのは、わかります」


「それでも、嫌だった?」


「嫌でした」


朝倉さんは、はっきり言った。


「私の言葉を、勝手に隠されたから」


その声には、静かな怒りがあった。


強くはない。

けれど、ちゃんと怒っている。


それは、大事なことだと思った。


「二枚のメモについて聞いてもいい?」


ひより先輩が言った。


朝倉さんの肩が、少しだけ強張る。


水野さんも、姿勢を正した。


「はい」


「一枚目。助けてください。これは、朝倉さんが書いた?」


朝倉さんは、少し迷ってからうなずいた。


「書きました」


やはり。


「いつ?」


「一昨日の放課後です。紹介カードがなくなったあと、図書室で」


「どうして書いたの?」


朝倉さんは、目を伏せた。


「白井先輩に、明日もう一度話そうと言われました。カードのことも、図書だよりのことも、全校放送のことも。ちゃんと考えようって」


「それが怖かった?」


「はい」


「白井先輩が怖かった?」


朝倉さんは少し考えた。


「白井先輩だけじゃありません。先生も、クラスも、家も、全部です」


その言葉は、静かに重かった。


「みんな、私がちゃんと答えを出せると思っていました。白井先輩も、私なら自分で選べるって言いました。でも、私は選べませんでした」


朝倉さんの声が震える。


「だから、助けてくださいって書きました」


「誰に向けて?」


「わかりません」


「わからない?」


「はい。誰かに見つけてほしかった。でも、誰に見つけてほしいのかは、わかりませんでした」


ひより先輩は、小さくうなずいた。


「そのメモを折って、本に挟んだ?」


「はい。『銀河鉄道の夜』に挟みました。でも、そのあと怖くなって」


「怖く?」


「本当に誰かが見つけたら、私が困っていることが知られてしまうと思いました」


助けてほしい。

でも、知られたくない。


藤咲芽衣さんが昨日言った言葉を思い出す。


助けてほしいけど、助けられると、自分が弱いって認めるみたいで怖い時があります。


朝倉さんも、きっとその場所にいた。


「それで、本を持って帰った?」


ぼくが聞くと、朝倉さんは首を横に振った。


「持って帰るつもりでした。でも、図書室を出たあと、やっぱり怖くなって、途中で水野さんに渡しました」


水野遥さんが、そこで初めて口を開いた。


「私が受け取りました」


声は硬かった。


「澪が、これ預かってって言って。泣きそうな顔をしていたから、理由は聞きませんでした」


「水野さんは、本の中のメモを見ましたか」


ぼくが聞くと、水野さんは少し黙った。


そして、うなずいた。


「見ました」


「いつ?」


「その日の夜です。家で」


「勝手に見たんですか」


ぼくがそう聞くと、水野さんはまっすぐこちらを見た。


「はい」


その答えは、逃げていなかった。


「よくないことだとは思いました。でも、澪の様子がおかしかったから。何かあると思って、本を開きました」


「そこで、一枚目のメモを見つけた」


「はい」


「助けてください」


水野さんは、唇を噛んだ。


「見た時、頭が真っ白になりました」


隣の朝倉さんが、申し訳なさそうに水野さんを見る。


水野さんは、朝倉さんの方を見なかった。


「私は、澪を助けなきゃと思いました。でも、同時に、助けるって何をすればいいのかわかりませんでした」


「先生に言う選択肢は?」


ひより先輩が聞く。


「考えました」


「言わなかった理由は?」


水野さんの手が、膝の上で握られる。


「澪に嫌われると思ったからです」


その声は、思ったより弱かった。


「澪は、人に騒がれるのが嫌いです。大丈夫じゃない時でも、大丈夫って言うし、困っていても自分で考えるって言う。先生に言ったら、澪はたぶん、私に裏切られたと思う」


朝倉さんが小さく首を振った。


「遥、そんなこと」


「思うよ」


水野さんの声が少し強くなった。


「澪は思う。言わないだけで」


朝倉さんは、黙った。


二人の間には、長い付き合いがあるのだろう。

言葉の表面ではなく、その奥の癖まで知っている関係。


だからこそ、難しい。


「それで、二枚目を書いたんですか」


ぼくが聞くと、水野さんはうなずいた。


「はい」


ひより先輩が静かに確認する。


「助けないでください。これは、水野さんが書いた?」


「はい」


朝倉さんは、目を伏せた。


やはり、二枚目は朝倉さん本人ではなかった。


「どうして、その言葉を?」


ひより先輩が聞く。


水野さんは、苦しそうに答えた。


「誰かが一枚目を見つけたら、大ごとになると思ったからです」


「大ごとになると困る?」


「澪が困ります」


「本当に澪さんが困るから?」


水野さんは、ひより先輩を見る。


ひより先輩の目はやわらかい。

でも、逃げ道は作っていない。


水野さんは、しばらく黙った。


「私も困ります」


その声は小さかった。


「私が、澪の一番近くにいたのに、何も気づいていなかったって知られるのが怖かった」


朝倉さんが、はっとした顔をした。


「遥……」


「澪が助けてくださいって書くくらい追い詰められてたのに、私は隣で普通に話してた。図書室の手伝いも、進路の話も、全部聞いていたのに、ちゃんと止められなかった」


水野さんの目に涙が浮かぶ。


「だから、助けないでくださいって書きました」


「助けないでほしかったのは、朝倉さんではなく、水野さん自身?」


ぼくが言うと、水野さんは唇を噛んだ。


「そうかもしれません」


それは、苦い告白だった。


一枚目の助けてくださいは、朝倉澪さんの声。

二枚目の助けないでくださいは、水野遥さんの声。


朝倉さんを守るようでいて、同時に自分を守る言葉。


誰かの助けを止めることで、自分が気づけなかった事実から目をそらそうとした。


「本を返却棚に戻したのも、水野さん?」


ぼくが聞く。


水野さんは、うなずいた。


「今朝、図書室の前まで持っていきました。でも、開いていなかったので、一度持ち帰ろうとして……」


「神谷先輩に見られた」


「はい」


「そのあと?」


「昼休みに、こっそり返却棚へ置きました。メモは二枚とも入れたまま」


「どうして抜かなかったんですか」


水野さんは、そこで少しだけ顔を歪めた。


「抜けませんでした」


「抜けなかった?」


「一枚目を捨てたら、澪の助けてって気持ちを私が消すことになる気がしました。でも、二枚目を捨てたら、私が怖かったこともなかったことになる気がして」


水野さんは、涙をこらえながら言った。


「だから、両方入れたまま戻しました。誰かが見つけてくれることを、半分だけ期待していたのかもしれません」


助けてください。

助けないでください。


その矛盾は、一人の中だけにあったわけではなかった。


朝倉さんと水野さん。

二人の気持ちが、同じ本の中に挟まっていた。


助けてほしい朝倉さん。

助けが入ることを怖がった水野さん。

でも、二人とも本当は誰かに気づいてほしかった。


だから、本は返却棚に戻った。


「水野さん」


ひより先輩が言った。


「やったことは、ちゃんと確認しよう」


「はい」


「人の本を勝手に開いて、メモを見たこと。二枚目を書いて、本に挟んだこと。返却棚へこっそり戻したこと。それは、よくなかった」


「はい」


「でも、あなたが怖かったことも、ここでは聞いた」


水野さんの涙が落ちた。


「はい」


ひより先輩は、朝倉さんを見る。


「朝倉さん」


「はい」


「助けてくださいって書いたこと、後悔してる?」


朝倉さんは、少し考えた。


長い沈黙だった。


「昨日までは、後悔していました」


「今は?」


「まだ恥ずかしいです。怖いです。でも……」


朝倉さんは、水野さんを見た。


「書かなかったら、遥とも話せなかったと思います」


水野さんの顔が歪む。


「だから、今は、書いてよかったのかもしれません」


その声は、小さかったけれど、確かだった。


「白井先輩のことは?」


ひより先輩が聞く。


朝倉さんの表情が少し曇る。


「怒っています」


「うん」


「カードを隠されたことも、文章を黒く塗られたことも、嫌でした」


「うん」


「でも、白井先輩に会うのも怖いです」


「今すぐ会わなくていい」


ひより先輩は、すぐに言った。


「謝罪も説明も、朝倉さんが受け取れる状態になってからでいい。佐伯先生もそう言ってる」


朝倉さんは、少しだけ安心したようにうなずいた。


「はい」


「それで、朝倉さん自身は、どうしたい?」


その質問に、朝倉さんは固まった。


どうしたい。


それが、一番難しい問いなのだろう。


周りがどう思うか。

家族がどう期待するか。

先生がどう勧めるか。

白井先輩がどう見るか。

水野さんがどう心配するか。


それらを全部外したあとに残る、自分の気持ち。


朝倉さんは、しばらく何も言えなかった。


ひより先輩は待った。

水野さんも待った。

佐伯先生も、口を挟まなかった。


ぼくは記録用紙にペンを置いたまま、何も書かなかった。


この沈黙は、記録するためのものではなく、待つためのものだと思った。


やがて、朝倉さんは言った。


「カードを、戻したいです」


「読書紹介カード?」


「はい」


朝倉さんは、膝の上の本を見た。


「でも、黒く塗られたままではなくて、私の書いた言葉で」


ひより先輩はうなずいた。


「うん」


「それから、図書だよりに載せるかどうかは、少し考えたいです。全校放送は……今は嫌です」


「それを先生に伝えよう」


「はい」


「進路のことは?」


朝倉さんは、少しだけ表情をこわばらせた。


でも、逃げなかった。


「まだ決められません」


「うん」


「でも、文系に行きたいかもしれないって、担任の先生には言ってみます」


その言葉に、水野さんが小さく息を飲んだ。


「家には?」


「まだ怖い」


朝倉さんは正直に言った。


「だから、先生に相談してからにします」


佐伯先生が、静かにうなずいた。


「それでいいと思います。担任の先生とも連携します」


朝倉さんは、少しだけ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


その時、放課後相談室のドアがノックされた。


二回。


部屋の中の全員が、少しだけ緊張した。


佐伯先生がドアを開ける。


そこに立っていたのは、神谷陸先輩だった。


「すみません」


神谷先輩は、少し息を切らしていた。


「朝倉さん、いますか」


朝倉さんが顔を上げる。


「神谷先輩?」


神谷先輩は、手に一枚の写真を持っていた。


「これ、図書委員の共有フォルダに残っていました」


彼は、その写真を机の上に置いた。


文化祭の図書委員企画。

読書紹介カードの展示前で、数人の生徒が写っている。


その中央に、朝倉澪さんがいた。


少し困ったように笑っている。

隣には、水野遥さん。

少し離れた場所に、白井悠花先輩。

そして神谷先輩も端に写っている。


写真の下には、展示ボード。

『銀河鉄道の夜』のカードも写っている。


神谷先輩は言った。


「カードが一位になったあと、みんなで撮った写真です。朝倉さん、あまり写りたがらなかったけど……でも、これは残しておいた方がいいと思って」


朝倉さんは、写真を見つめた。


「私、こんな顔してたんですね」


「嫌でしたか」


神谷先輩が不安そうに聞く。


朝倉さんは、少し考えた。


「嫌じゃないです」


その答えに、神谷先輩はほっとしたようだった。


「よかった」


水野さんが写真を見て、少しだけ笑った。


「澪、すごく困ってる顔」


「遥も変な顔してる」


「してない」


二人の間に、ほんの少しだけ普通の会話が戻った。


その空気に、ぼくは少し安心した。


神谷先輩は、朝倉さんへ頭を下げた。


「昨日、カードがなくなった時、僕もちゃんと一緒に探せばよかった。朝倉さんが一人で探していたのに、委員の仕事が残ってるからって、カウンターに戻りました」


朝倉さんは、驚いたように神谷先輩を見た。


「神谷先輩は悪くないです」


「悪くないかもしれないけど、気にはしてた」


神谷先輩は、少し苦笑した。


「だから、言っておきたかった」


朝倉さんは、ゆっくりうなずいた。


「ありがとうございます」


佐伯先生が時計を見た。


「今日はここまでにしましょう。朝倉さん、水野さん、よく話してくれました」


二人は小さく頭を下げた。


朝倉さんは、席を立つ前に、ひより先輩へ向き直った。


「一ノ瀬先輩」


「うん」


「助けてくださいって書いても、よかったんでしょうか」


ひより先輩は、すぐには答えなかった。


簡単に「よかった」と言うのではなく、その言葉の重さを一度受け止めているようだった。


そして、言った。


「よかったと思う」


朝倉さんの目が揺れる。


「助けてって書くのは、弱いからじゃないよ。自分一人では持てないものを、誰かに少し見せるってことだと思う」


朝倉さんは、静かにうなずいた。


「ありがとうございます」


そのあと、朝倉さんと水野さん、神谷先輩は佐伯先生と一緒に職員室へ向かった。

読書紹介カードの扱い、白井先輩との話し合い、図書だよりへの掲載。

決めなければならないことは、まだ残っている。


でも、少なくとも朝倉さんの声は、少しだけ戻ってきた。


部屋に残ったぼくとひより先輩は、しばらく黙っていた。


机の上には、二枚のメモの記録がある。


助けてください。

助けないでください。


ひより先輩が、椅子に座ったまま小さく息を吐いた。


「同じ人じゃなかったね」


「はい」


「でも、どっちも本音だった」


「はい」


「難しいね」


「難しいです」


ぼくは記録用紙に今日の内容を整理した。


相談番号一。

図書室。

『銀河鉄道の夜』。

朝倉澪。

水野遥。

白井悠花。

神谷陸。

読書紹介カード。

進路の迷い。

助けを求めることへの怖さ。


そして最後に、一文を書いた。


助けてほしいと書いた人と、助けないでほしいと書いた人は違った。

けれど、どちらも誰かに気づいてほしかった。


ひより先輩が、それを読んで言った。


「今日も詩みたい」


「消しますか」


「消さない」


先輩は、少しだけ笑った。


その笑顔は、疲れていたけれど、どこか安心しているようにも見えた。


「書記くん」


「はい」


「放課後相談室、正式に始まったね」


「はい」


「思ったより、重いね」


「はい」


「でも、必要だね」


「はい」


「はいしか言わない」


「整理中です」


「便利」


そのやりとりに、少しだけいつもの空気が戻る。


窓の外には、放課後の光が残っていた。

文化祭が終わった校舎は静かで、でも完全に何もなくなったわけではない。


誰かが選べずにいる。

誰かが助けてと言えずにいる。

誰かが助けたいのに、どう助ければいいかわからずにいる。


そういう声は、きっとこれからも届く。


放課後相談室は、その全部を解決できる場所ではない。


でも、少なくとも最初の一枚を机の上に置ける場所にはなれる。


助けてください。


その言葉が届いた時、今度はちゃんと受け止められるように。


ぼくは、記録用紙を保管箱へしまった。


第23話まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、朝倉澪本人が登校し、「助けてください」のメモを書いた理由が明らかになりました。

一方で、「助けないでください」と書いたのは友人の水野遥でした。


朝倉は、自分の進路や文章が注目されることへの怖さから助けを求めました。

水野は、朝倉を守りたい気持ちと、自分が気づけなかったことを知られたくない気持ちから、助けを止めようとしてしまいました。


次回は、白井悠花との話し合い、そして朝倉の読書紹介カードをどう扱うかを描いていきます。


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