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第18話 三つの声

退部届は無効になった。

黄色い付箋を書いた三浦菜々も、自分の気持ちを打ち明けた。

残された問題は、文化祭のステージで誰が、どのように歌うのか。


早川琴音、篠原美月、三浦菜々。

三人の声は、もう一度重なるのか。

翌日の放課後、音楽室の空気はいつもより少し硬かった。


文化祭前の練習日。

本番まで、残された時間は少ない。


ピアノの前には顧問の先生。

その横に、部長の片桐玲奈先輩。

窓際には、早川琴音さん、篠原美月さん、三浦菜々さんが並んでいた。


三人の間には、微妙な距離があった。


近すぎない。

でも、離れきってもいない。


昨日までなら、同じ部員として自然に並んでいたのかもしれない。

けれど、今は違う。


退部届。

黄色い付箋。

ソロ担当。

言えなかった本音。


それらが、三人の間にまだ薄い壁のように残っている。


ぼくと一ノ瀬ひより先輩は、音楽室の後ろにいた。


本当なら、生徒会のぼくたちが合唱部の練習にずっと立ち会う必要はない。

けれど、顧問の先生から「今日だけ同席してほしい」と頼まれた。


理由は、たぶん一つではない。


相談を受けた立場として。

部員たちが感情的になった時に、少し距離を置いて見られる立場として。

そして、昨日の出来事をなかったことにしないために。


ひより先輩は、腕を組まず、机にもたれず、ただ静かに立っていた。


相談室で人の話を聞く時と同じ姿勢だった。


顧問の先生が、三人の前に立った。


「まず、昨日の件については、学校として正式に確認を進めます。退部届は無効です。早川さんは、合唱部員のままです」


早川さんは、小さくうなずいた。


その手は楽譜を握っている。

昨日より少し落ち着いているように見えるが、指先にはまだ力が入っていた。


先生は続けた。


「片桐さんがしたこと、三浦さんがしたこと、それから私自身の確認不足についても、別で対応します。ただ、今日は文化祭ステージについて話します」


片桐先輩が一歩前に出た。


昨日より、少しだけ表情がやわらかい。

でも、目元には疲れが残っていた。


「みんなに話があります」


部員たちが、静かに片桐先輩を見る。


「早川さんの退部届は、本人が出したものではありませんでした。私が、本人の意思を確認せずに手続きを進めました」


音楽室に、小さなざわめきが広がる。


片桐先輩は、逃げなかった。


「部長として、文化祭のステージを成功させたいと思っていました。でも、そのために早川さんの気持ちを勝手に決めました。してはいけないことでした」


早川さんが、目を伏せる。


篠原さんは、両手で楽譜を握っていた。

三浦さんは、泣きそうな顔で床を見ている。


片桐先輩は、深く頭を下げた。


「本当に、ごめんなさい」


誰もすぐには何も言わなかった。


謝罪は、場をきれいにする魔法ではない。

言えばすべてが戻るわけではない。


でも、言わなければ始まらないこともある。


しばらくして、顧問の先生が口を開いた。


「文化祭の三曲目について、変更案があります」


先生は、ピアノの上に置いた楽譜を三枚取り出した。


「もともとは早川さんのソロでした。その後、篠原さんに変更されていました。しかし、本人たちと話し合ったうえで、三人で歌う形に変更する案を考えています」


部員たちが顔を見合わせる。


「三人で?」


「ソロじゃなくなるの?」


「間に合うの?」


不安の声は当然だった。


本番は近い。

曲の構成を変えるには、時間が足りない。


でも、先生は落ち着いていた。


「全体の構成は大きく変えません。ソロ部分を三つに分けます。最初を篠原さん、次を三浦さん、最後を早川さん。そして、最後の二小節だけ三人で重ねる」


その説明を聞いて、ぼくは三人を見た。


篠原さんは、緊張した顔で楽譜を見ている。

三浦さんは、自分の名前が出た瞬間、肩を震わせた。

早川さんは、最後を自分が歌うと聞いて、唇を結んだ。


最後。


それは、たぶん一番怖い場所だ。


曲の印象が残る場所。

失敗したら、誰の耳にも残ってしまう場所。


ひより先輩が、小さく息を吸ったのがわかった。


でも、先輩は何も言わない。


これは、三人と合唱部が決めることだから。


「無理なら、別の形にします」


先生が言った。


「今ここで決めなくていい。ただ、試してみましょう」


その言葉に、早川さんが少しだけ顔を上げた。


今ここで決めなくていい。


それは、放課後相談室で何度も出てきた言葉だった。


でも今は、音楽室の中で先生が言っている。


相談室の外でも、その言葉が生き始めている。


三人は、楽譜を受け取った。


練習が始まった。


最初は、うまくいかなかった。


篠原さんの声は、いつもより少し硬かった。

正確に歌おうとしすぎて、音が前に進まない。


三浦さんは、声が小さかった。

音程は合っているのに、自分の声が聞こえた瞬間に引いてしまう。


早川さんは、最後の二小節の前で声が止まった。


喉に手を当てる。

息を吸う。

でも、音にならない。


音楽室に、空白が落ちた。


誰も責めなかった。


それでも、早川さんは自分を責めるように唇を噛んだ。


「すみません」


小さな声だった。


「また、出ませんでした」


三浦さんが何か言おうとした。

篠原さんも楽譜から顔を上げた。


でも、二人とも言葉を選べずに止まった。


無理しなくていい。

大丈夫。

次は出るよ。


たぶん、どれも間違いではない。

でも、今の早川さんには、そのどれも少し苦しいかもしれない。


ひより先輩が、ゆっくり手を上げた。


「先生、少しいいですか」


顧問の先生がうなずく。


ひより先輩は、三人の方へ近づいた。


「早川さん」


「はい」


「声を出そうとする時、誰を見てる?」


早川さんは戸惑った顔をした。


「誰を……?」


「先生? 部員? 客席? それとも、失敗した時の自分?」


早川さんは、少しだけ目を伏せた。


「たぶん……失敗した時の自分です」


「そっか」


ひより先輩はうなずいた。


「じゃあ、一回だけ、誰か一人に向けて歌ってみない?」


「誰か一人……」


「全員に届けようとしなくていい。音楽室全体に響かせようとしなくてもいい。まず、一人だけ」


早川さんは、楽譜を握った。


「でも、誰に」


ひより先輩は答えなかった。


それを選ぶのは早川さんだからだ。


早川さんは、少し迷ったあと、三浦さんを見た。


三浦さんが驚いたように目を開く。


「菜々に」


その言葉に、三浦さんの顔がくしゃりと歪んだ。


「私?」


早川さんは、小さくうなずいた。


「昨日、菜々が歌いたかったって言ってくれて、私、初めて気づいた。自分のことでいっぱいで、菜々の声をちゃんと聞いてなかった」


三浦さんは、涙をこらえるように唇を噛んだ。


「だから、まず菜々に聞いてほしい」


音楽室が静かになった。


顧問の先生が、ピアノの前に座る。


「では、最後の部分だけ」


ピアノの音が鳴った。


静かな前奏。

三浦さんが、自分のパートを小さく歌う。

その声はまだ細い。

けれど、昨日部室で一人で歌っていた時より、少しだけ前に出ていた。


次に、篠原さんが重ねる。

彼女の声は、少し震えていた。

でも、誰かの代わりではなく、自分の声として響いていた。


そして、早川さんの番。


早川さんは、三浦さんを見た。


息を吸う。


少し長い沈黙。


ぼくは思わず息を止めた。


声が出ないかもしれない。

また止まるかもしれない。

そうなった時、早川さんはさらに傷つくかもしれない。


でも、誰も急かさなかった。


誰も、代わりに決めなかった。


そして。


細い声が、音楽室に落ちた。


最初は本当に小さかった。

窓の外の風に消えてしまいそうな声だった。


でも、確かに音だった。


早川琴音さんの声だった。


三浦さんの目から、涙が落ちる。

篠原さんも、楽譜で口元を隠した。


早川さんの声は、途中で少し震えた。

けれど、止まらなかった。


最後の二小節。


三人の声が重なった。


完璧ではない。

声量もそろっていない。

三浦さんは少し遅れ、篠原さんは少し先に出て、早川さんの声はまだ弱い。


それでも、三つの声は確かに同じ場所にあった。


歌い終わった瞬間、音楽室は静まり返った。


拍手は起きなかった。


誰かが拍手をするには、少しだけ早すぎたのだと思う。

今の歌は、発表ではなかった。

評価するためのものでもなかった。


声が戻ってくる最初の一歩だった。


やがて、片桐先輩が小さく言った。


「もう一回、合わせよう」


その声は、部長の指示というより、お願いに近かった。


早川さんは涙を拭いて、うなずいた。


三浦さんも。

篠原さんも。


練習は、そこから少しずつ進んだ。


何度も止まった。

何度もやり直した。


早川さんの声は、出たり出なかったりした。

三浦さんの声は、まだ小さかった。

篠原さんは、二人を気にしすぎて何度か自分の音を外した。


でも、不思議と空気は悪くならなかった。


誰かが失敗すると、別の誰かが息を合わせ直す。

止まったら、最初の小節へ戻る。

声が出なければ、ハミングだけにする。

どうしても難しければ、三人で同じ音を伸ばす。


正解を一つに決めない練習だった。


それを見ながら、ぼくは思った。


これは、合唱というより、相談に似ている。


誰かが声を出せない時、他の人がその答えを決めるのではなく、戻ってくるまで待つ。

でも、放っておくわけでもない。

隣で音を鳴らし続ける。


その日の練習が終わる頃、三人の声は、まだ不安定だった。


でも、最初より少しだけ重なっていた。


文化祭当日。


星ヶ丘高校は、朝からいつもと違う顔をしていた。


校門にはアーチ。

廊下には飾り。

教室からは焼きそばやワッフルの匂い。

体育館からはマイクテストの音。


前章の事件があったせいで、後夜祭の運営はかなり厳しくなった。

ステージ企画の内容確認。

音源の事前チェック。

共有アカウントの使用禁止。

実行委員以外の音響卓操作禁止。


面倒なルールが増えた。


でも、誰も大きく文句は言わなかった。


少なくとも、ぼくの耳には入らなかった。


ひより先輩は、文化祭実行委員の受付を手伝いながら、時々体育館の方を見ていた。


「気になりますか」


ぼくが聞くと、先輩はすぐにうなずいた。


「かなり」


「見に行きますか」


「行く」


即答だった。


合唱部の出番は、午後一番だった。


体育館には、思ったより多くの生徒が集まっていた。

保護者もいる。

先生もいる。

前の方には合唱部の保護者らしき人たちが座っていた。


ステージ横には、早川さん、篠原さん、三浦さんがいた。


三人とも白いリボンをつけている。

表情は硬い。


早川さんは、何度も喉に手を当てていた。

三浦さんは、楽譜を持つ手が震えている。

篠原さんは、二人の間で何かを言いかけて、やめた。


その時、片桐先輩が三人に近づいた。


何を言っているのかは聞こえない。

でも、彼女は深く頭を下げた。


三人は、少し驚いた顔をした。

それから、ゆっくりうなずいた。


合唱部の発表が始まった。


一曲目。

二曲目。


全体合唱は、きれいにまとまっていた。

声もよく出ている。

練習を積んできたことがわかる。


そして、三曲目。


星の名前を呼ぶ。


ピアノの前奏が流れた瞬間、体育館の空気が少し変わった。


ぼくは、思わず手を握った。


ひより先輩も、隣で息を止めている。


曲の中盤。

三人が一歩前に出た。


最初は篠原さん。


彼女の声は、音楽室で聞いた時よりずっとやわらかかった。

上手に歌おうとする硬さが少し抜けている。

誰かの代わりではなく、自分の声で歌っているように聞こえた。


次に、三浦さん。


声は小さい。

でも、マイクに頼りきる小ささではなかった。

自分の声が客席に届くことを、怖がりながらも受け入れている小ささだった。


そして、早川さん。


彼女は、一瞬だけ目を閉じた。


また声が止まるのではないかと、ぼくは思った。


体育館が、少し遠くなる。


早川さんは目を開けた。


そして、三浦さんを見た。

篠原さんを見た。

最後に、客席ではなく、自分の手元の楽譜を見た。


息を吸う。


声が出た。


音楽室の時より、少しだけ強い声だった。


決して大きくはない。

でも、体育館の奥へまっすぐ伸びていく。


その瞬間、ひより先輩が小さく息を吐いた。


「出た」


声にならないくらい小さな声だった。


最後の二小節。


三人の声が重なった。


完璧ではなかった。


篠原さんの声が少し震えた。

三浦さんは一拍だけ遅れた。

早川さんの声は、最後の音で少し揺れた。


でも、それがよかった。


三つの声は、同じではなかった。

同じ強さでも、同じ形でもなかった。


それでも、重なった。


歌が終わった瞬間、体育館に短い沈黙が落ちた。


そして、拍手が起きた。


最初は前の方から。

それから、少しずつ広がっていく。


大きな歓声ではない。

けれど、あたたかい拍手だった。


早川さんは、ステージの上で泣きそうな顔をしていた。

三浦さんも、目を潤ませている。

篠原さんは、二人の手をそっと握った。


片桐先輩は、後ろで涙をこらえるように笑っていた。


顧問の先生は、眼鏡を外して目元を押さえている。


ひより先輩は、拍手しながら言った。


「よかったね」


「はい」


ぼくも拍手をしながら答えた。


「よかったです」


発表が終わったあと、三人はステージ裏で少しだけ話していた。


ぼくたちは遠くから見ていた。


篠原さんが何か言う。

三浦さんが首を横に振る。

早川さんが笑う。

それから、三人で泣きそうな顔になって、結局笑う。


何を話しているのかは聞こえない。


でも、全部を聞かなくてもいいと思った。


相談室は、すべての会話を預かる場所ではない。

誰かが自分たちで話せるようになったら、そこから先はその人たちのものだ。


文化祭が終わる少し前、早川さんたち三人が放課後相談室へ来た。


旧進路指導室には、まだ「再開準備中」の紙が貼られている。

でも、もう誰もそれを気にしていない。


三人は、少し緊張した顔で入ってきた。


「今日は、ありがとうございました」


早川さんが言った。


ひより先輩は首を横に振る。


「私たちは、少し話を聞いただけだよ」


「それが、助かりました」


篠原さんが言った。


三浦さんも、小さくうなずく。


「私、先生にちゃんと話しました。付箋のことも、コピーのことも」


「うん」


ひより先輩は、ただ聞いた。


「これから、しばらく部活で話し合いがあります。でも……歌うのは、続けたいです」


三浦さんの声はまだ小さい。

でも、前より少しだけ聞こえやすかった。


「私も」


篠原さんが言う。


「私も、続けたいです」


早川さんも言った。


ひより先輩は、嬉しそうに笑った。


「それは、いい報告だね」


早川さんは、少し迷ったあと、封筒を一つ机の上に置いた。


白い封筒。


ぼくは、一瞬だけ緊張した。


でも、表に書かれていた文字を見て、その緊張は解けた。


退部届ではありません。


中を開けると、一枚の紙が入っていた。


出演変更届


そこには、三人の名前が並んでいた。


早川琴音

篠原美月

三浦菜々


三曲目「星の名前を呼ぶ」

ソロ部分を三名による小アンサンブルへ変更。


本人確認済み。


その下に、三人の小さな署名があった。


ひより先輩は、その紙を見て、ゆっくり笑った。


「いい届だね」


「はい」


早川さんが、少し恥ずかしそうに笑う。


「今度は、自分たちで書きました」


その言葉が、今回の相談の答えだった。


誰かに決められた退部届ではなく。

誰かを刺す付箋でもなく。

自分たちで書いた、出演変更届。


ぼくは、その紙を見ながら思った。


学校にはたくさんの紙がある。

人の気持ちを処理してしまう紙もあれば、人の気持ちを残す紙もある。


大事なのは、そこに本当に本人の声があるかどうかだ。


三人が帰ったあと、ひより先輩は机に肘をつき、少しだけ脱力した。


「終わったね」


「合唱部の相談は、ひとまず」


「ひとまず、か」


「現実は続きますから」


「書記くん、最近本当に現実担当だね」


「必要なので」


「本日も出ました」


先輩は笑った。


その笑い声が、夕方の旧進路指導室にやわらかく響いた。


ぼくは、相談記録に最後の一文を書いた。


三人の声は、同じではなかった。

だから、重なった時に届いた。


ひより先輩が、それをのぞき込む。


「また詩みたい」


「消しますか」


「消さない」


先輩は、窓の外を見た。


文化祭の片づけが始まっている。

校庭には夕日が落ち、遠くからまだ少しだけ歌声が聞こえていた。


放課後相談室は、再開準備中のままだ。


けれど、もう十分に動いている。


恋ではない相談も。

言えなかった悩みも。

声にならない気持ちも。


この部屋には、少しずつ届き始めている。


その時、廊下から足音が聞こえた。


ぼくとひより先輩は、同時にドアの方を見る。


ノックが二回。


規則正しく。


ひより先輩が、少しだけ笑った。


「今日、文化祭なんだけどな」


「相談に休日はないんですかね」


「書記くん、それを言うなら放課後ね」


「文化祭後も放課後扱いでいいんですか」


「たぶん」


先輩は姿勢を正した。


「どうぞ」


ドアが開く。


そこに立っていたのは、見知らぬ一年生の男子生徒だった。


彼は、片手にスマホを握っていた。

顔は真っ青で、声は震えていた。


「あの……相談って、ここでいいですか」


ひより先輩は、やさしくうなずいた。


「うん。大丈夫」


男子生徒は、スマホの画面をこちらに向けた。


そこには、文化祭の写真が表示されていた。


クラス展示の前で笑う生徒たち。

その中に、一人だけ写っていない人物がいるらしい。


男子生徒は、震える声で言った。


「写真から、僕だけ消えてるんです」


ぼくは、思わずひより先輩を見た。


先輩も、こちらを見ていた。


文化祭は、まだ終わっていない。


放課後相談室に、次の謎が届いた。


第18話まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、合唱部編の区切りとして、早川琴音・篠原美月・三浦菜々の三人が文化祭ステージで歌う姿を描きました。


退部届ではなく、自分たちで書いた「出演変更届」。

誰かに決められるのではなく、自分たちの声で選ぶことが、今回の答えになりました。


そして最後に、新しい相談が届きます。

文化祭の写真から、自分だけが消えている。

次回からは、写真にまつわる新しい謎へ入っていきます。

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