第17話 二番目の声
退部届を作ったのは、合唱部部長・片桐玲奈だった。
しかし、黄色い付箋を書いた人物は別にいる。
代わりに歌える人がいるなら、それでいいでしょう?
新たな付箋は、早川琴音ではなく、篠原美月を刺していた。
代わりに歌える人がいるなら、それでいいでしょう?
黄色い付箋に書かれたその一文を見た瞬間、篠原美月さんの顔が白くなった。
早川琴音さんを傷つける言葉ではない。
これは、篠原さんに向けられた言葉だった。
早川さんの代わりにソロを歌う人。
本当は自分も歌いたかった人。
友達が追い詰められていると知りながら、黙ってしまった人。
その弱いところを、正確に突いている。
音楽室には、もうほとんど人がいなかった。
椅子は片づけられ、ピアノのふたも閉まっている。
夕方の光が、譜面台の金属部分に細く反射していた。
さっきまで歌声が満ちていた場所なのに、今はひどく静かだった。
「これ……」
篠原さんの声が震えた。
「私に、ですよね」
誰もすぐには答えられなかった。
答えなくても、わかってしまう。
一ノ瀬ひより先輩は、付箋に触れず、少し離れた位置から見た。
「片桐さんじゃないんだよね」
片桐玲奈先輩は、はっきり首を横に振った。
「違います。私は書いていません」
「退部届のコピーを差し込んだのも?」
「違います」
その声には、さっきまでの強さはなかった。
でも、嘘をついている感じもしなかった。
片桐先輩は退部届を作った。
それは大きな間違いだ。
でも、黄色い付箋で早川さんや篠原さんをさらに追い詰めている人物は、別にいる。
顧問の先生が、険しい顔で付箋を見つめていた。
「これは、部内の誰かが書いた可能性が高いですね」
「はい」
ぼくはうなずいた。
「この付箋が貼られたのは、私たちが第二音楽準備室で話していた間です。音楽室に入れた人、そして早川さんと篠原さんの事情を知っている人に限られます」
「部員、ですか」
先生の声は重かった。
部活という場所は、不思議だと思う。
同じ目標へ向かって練習する。
同じ曲を歌う。
同じ舞台に立つ。
だから仲間に見える。
でも、その中には順位がある。
担当がある。
選ばれる人と、選ばれない人がいる。
ソロ。
伴奏。
部長。
副部長。
パートリーダー。
同じ歌を歌っているのに、全員が同じ場所に立っているわけではない。
「篠原さん」
ひより先輩が声をかけた。
「この付箋を書きそうな人に、心当たりはある?」
篠原さんは、すぐには答えなかった。
その目が、音楽室の出口へ向く。
誰かの名前が、頭に浮かんでいる。
でも、口にするのをためらっている。
「言いにくい?」
ひより先輩が聞く。
篠原さんは、小さくうなずいた。
「言ったら、その子を疑うことになります」
「うん」
「でも、言わなかったら、また同じことになりますよね」
篠原さんの声には、自分への怒りが混ざっていた。
早川さんの退部届の時、彼女は黙ってしまった。
変だと思ったのに。
自分が得をしたから。
だから、今度は同じことをしたくないのだろう。
篠原さんは、楽譜の束を胸に抱え直した。
「三浦菜々さんです」
新しい名前だった。
「三浦菜々さん?」
ひより先輩が繰り返す。
「二年生。同じアルトパートです。私と琴音と、三人でいることが多かったです」
「仲がよかったんですね」
ぼくが聞くと、篠原さんは少しだけ苦しそうに笑った。
「そう見えていたと思います」
「見えていた?」
「三人で一緒にいることは多かったです。でも、たぶん、三人とも少しずつ無理をしていました」
篠原さんは、音楽室の後ろに並ぶ譜面台を見つめた。
「琴音は、いつも中心でした。歌が上手で、先生にも期待されていて、文化祭のソロも最初から琴音。私は、その隣で二番目。菜々は、さらにその後ろでした」
二番目。
さらにその後ろ。
その言葉が、音楽室の床に落ちた。
「菜々は、声量が小さいんです。音程は悪くないけど、自信がなくて、いつも周りの声に隠れて歌っていました。先生にも、もっと声を出してと言われていて」
「今回のソロ候補には?」
篠原さんは首を横に振った。
「入っていません。最初から、琴音か私のどちらかでした」
その説明で、少し見えた気がした。
早川琴音さんは、選ばれた人。
篠原美月さんは、選ばれたかった人。
三浦菜々さんは、選ばれる候補にすら入れなかった人。
同じ合唱部で、同じ二年生で、同じように歌ってきたはずなのに。
「でも」
早川さんが、小さく言った。
「菜々は、そんなことしないと思います」
その声は弱かった。
でも、必死に誰かを守ろうとしている声だった。
「菜々は、いつも私を心配してくれました。声が出なくなった時も、無理しなくていいよって言ってくれて」
「その言葉は、優しかった?」
ひより先輩が聞いた。
早川さんは、すぐにうなずこうとして、途中で止まった。
「……優しかったです」
「でも?」
ひより先輩は、その止まった部分を逃さなかった。
早川さんは、喉に手を当てた。
「でも、時々、少し苦しくなりました」
「どうして?」
「無理しなくていいよって言われるたびに、もう歌わなくていいよって言われている気がして」
篠原さんが目を伏せた。
無理しなくていい。
優しい言葉だ。
でも、言われる状況によっては、降りていいよ、諦めていいよ、と聞こえることがある。
言った人が本当に優しさで言ったのか。
それとも、少しだけ別の気持ちを混ぜたのか。
それは、言葉だけではわからない。
「三浦さんは、今どこにいるかわかりますか」
ぼくが聞くと、篠原さんはスマホを見た。
「たぶん、部室です。片づけ当番だったので」
「部室へ行きましょう」
ひより先輩が言った。
先生も同行することになった。
付箋は先生が写真を撮り、証拠として保管した。
前の事件で何度も痛感したことだけれど、紙は小さい。
すぐになくなる。
誰かが捨てれば、それで終わってしまう。
だから、残す。
でも、必要以上に広げない。
それが今の相談室のやり方だった。
合唱部の部室は、音楽室から少し離れた特別棟の端にあった。
文化部の部室が並ぶ一角で、廊下には古いポスターや文化祭の予定表が貼られている。
近づくと、中から小さな物音がした。
楽譜をそろえる音。
椅子を引く音。
それから、微かな歌声。
とても小さな声だった。
誰かが一人で歌っている。
ぼくたちは、部室の前で立ち止まった。
その歌声は、さっき音楽室で聞いた三曲目と同じだった。
星の名前を呼ぶ。
文化祭で早川さんがソロを歌うはずだった曲。
けれど、その声は細かった。
音程は外れていない。
むしろ、とても丁寧に歌っている。
ただ、声が前に出てこない。
自分の声が誰かに届くことを怖がっているような歌い方だった。
篠原さんが、小さくつぶやく。
「菜々……」
歌声が止まった。
中で椅子が動く音がする。
ひより先輩がノックした。
「三浦さん、いる?」
少し間があった。
それから、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、小柄な女子生徒だった。
肩より少し長い髪を低い位置で結んでいる。
目が大きい。
けれど、その目はすぐに床へ落ちた。
「……はい」
声は小さい。
三浦菜々さん。
彼女は、篠原さんと早川さんを見て、明らかに顔をこわばらせた。
「どうしたの?」
ひより先輩は、できるだけやわらかい声で言った。
「少し話を聞かせてもらいたいの」
「私、何も知りません」
三浦さんは、すぐに答えた。
早すぎる。
ぼくは、またその反応を心の中に置いた。
「何についてか、まだ言ってないよ」
ひより先輩が言うと、三浦さんは唇を噛んだ。
部室の中には、楽譜が数冊置かれていた。
椅子の上には、黄色い付箋の束。
文房具入れの中には、黒いペン。
その光景を見て、篠原さんが息を飲んだ。
「菜々、その付箋……」
三浦さんは、とっさに机の上の付箋を隠すように手を伸ばした。
でも、もう遅かった。
ひより先輩は、すぐに責めなかった。
「入ってもいい?」
三浦さんは少し迷ってから、小さくうなずいた。
部室の中は狭かった。
壁には過去の文化祭写真や、コンクールの賞状が貼られている。
棚には合唱曲の楽譜が並んでいた。
その中に、三曲目の楽譜が一冊だけ開かれている。
星の名前を呼ぶ。
ソロ部分には、鉛筆でいくつも書き込みがあった。
息を吸う。
母音をつなぐ。
ここで前を見る。
怖がらない。
その最後に、小さくこう書かれていた。
私だって、歌える。
ぼくは、その一文を見た。
三浦さんは、慌てて楽譜を閉じた。
「見ないでください」
声が震えている。
「ごめん」
ひより先輩はすぐに言った。
「勝手に見られたくなかったよね」
三浦さんは驚いたように先輩を見た。
怒られると思っていたのかもしれない。
疑われると思っていたのかもしれない。
実際、疑う理由はある。
でも、ひより先輩は最初に謝った。
その一言で、三浦さんの表情が少し揺れた。
「三浦さん」
ひより先輩は静かに言った。
「黄色い付箋を書いたのは、あなた?」
三浦さんは、床を見た。
長い沈黙があった。
その間、早川さんも、篠原さんも、片桐先輩も、何も言わなかった。
やがて、三浦さんは小さくうなずいた。
「……はい」
篠原さんが目を閉じた。
早川さんは、楽譜を抱える手に力を入れる。
「声が出ない子に、ソロは無理。代わりに歌える人がいるなら、それでいいでしょう。この二つを書いたのは、三浦さん?」
ひより先輩が確認する。
三浦さんは、もう一度うなずいた。
「退部届のコピーを差し込んだのも?」
三浦さんは、少しだけ首を横に振った。
「コピーを取ったのは私です。でも、退部届を作ったのは私じゃありません」
「どこでコピーしたの?」
ぼくが聞く。
「音楽室前の職員用コピー機です。先生が退部届の原本をファイルに入れるところを見て、あとで……」
「ファイルを勝手に見た?」
三浦さんは、うつむいた。
「はい」
顧問の先生が、深く息を吐いた。
「私の管理が甘かったですね」
先生の声には、怒りだけではなく、自分への反省も混じっていた。
「どうしてコピーを差し込んだの?」
ひより先輩が聞く。
三浦さんは、何も答えなかった。
その代わり、目から涙が落ちた。
「私、最低です」
小さな声だった。
「琴音が傷つくってわかってました。美月が苦しくなるのもわかってました。でも、止まらなかった」
「どうして?」
三浦さんは、顔を上げた。
その目には、今まで隠していた感情があふれていた。
「私も歌いたかったからです」
その言葉は、叫びではなかった。
でも、ずっと喉の奥に詰まっていたものが、やっと出てきたような声だった。
「琴音は最初から上手でした。美月も、いつも二番目って言ってたけど、二番目になれるだけすごいじゃないですか」
篠原さんの顔が揺れる。
「私は、二番目にもなれなかった」
三浦さんは、涙を拭かずに続けた。
「先生にもっと声を出してって言われて、部長に自信を持ってって言われて、琴音には大丈夫だよって言われて、美月には一緒に頑張ろうって言われて」
声が震える。
「全部、優しい言葉でした。でも、私には、あなたは主役じゃないって聞こえました」
誰も、何も言えなかった。
三浦さんは、机の上の楽譜を握りしめた。
「琴音が声を出せなくなった時、心配しました。本当に。でも、少しだけ思ってしまったんです。もしかしたら、私にも順番が来るかもしれないって」
早川さんの顔が痛みに歪む。
「でも、実際に選ばれたのは美月でした」
三浦さんは篠原さんを見る。
「美月は、琴音のことを心配しながら、ソロを受け取りました。私、見ていました。苦しそうな顔をしていたけど、でも楽譜を受け取った。私には回ってこなかったソロを」
篠原さんは、震える声で言った。
「菜々……」
「わかってます。美月が悪いんじゃない。琴音が悪いわけでもない。片桐先輩が退部届を作ったことも、私は後で知っただけです」
「じゃあ、どうして付箋を」
ひより先輩が聞く。
三浦さんは、目を伏せた。
「誰かを悪者にしたかったんです」
その言葉は、前章でも聞いた気がした。
誰かが悪いと思いたい。
そうすれば、自分の痛みに名前がつく。
「琴音は声が出ないのに選ばれていた。美月は黙ってソロを受け取った。片桐先輩は勝手に退部届を出した。みんな、少しずつずるいと思いました」
三浦さんは、泣きながら笑った。
「でも一番ずるいのは、私でした」
誰も否定できなかった。
三浦さんがしたことは、確かに人を傷つけた。
付箋で早川さんを追い詰め、篠原さんの罪悪感を刺し、退部届のコピーで問題をさらに広げた。
でも、その根っこにあるものは、単純な悪意だけではなかった。
歌いたかった。
選ばれたかった。
見てほしかった。
その声が、どこにも届かなかった。
だから、誰かを傷つける形でしか出せなくなった。
ひより先輩は、三浦さんの前にしゃがんだ。
目線を合わせるために。
「三浦さん」
「はい」
「あなたが歌いたかったことは、ちゃんと聞いた」
三浦さんの目が揺れた。
「でも、付箋で誰かを傷つけたことは、別の話」
「……はい」
「早川さんにも、篠原さんにも、ちゃんと謝らないといけない」
「はい」
「そして、先生にも話す。勝手にファイルを見て、コピーを取ったことも」
三浦さんは、唇を震わせながらうなずいた。
「はい」
そこで、早川さんが一歩前に出た。
三浦さんは、びくっと肩を震わせる。
「菜々」
早川さんの声は、小さかった。
まだ完全には安定していない。
でも、さっきよりは少しだけ芯があった。
「私、あの付箋を見て、本当にもう歌えないと思った」
三浦さんの顔が歪む。
「ごめん」
「声が出ないこと、自分でもずっと責めてた。そこを言われたから、すごく苦しかった」
「ごめん、琴音」
「でも」
早川さんは、楽譜を胸に抱え直した。
「菜々が歌いたかったって、知らなかった」
三浦さんの涙が止まらない。
「言ってくれたらよかったのに、って簡単には言えない。私も言えなかったから」
その言葉は、早川さん自身にも向いているようだった。
歌いたい。
怖い。
声が出ない。
辞めたくない。
彼女も、それをずっと言えなかった。
篠原さんが、静かに口を開いた。
「私も、ごめん」
三浦さんが顔を上げる。
「私は、自分が二番目だって思っていたけど、菜々のことをちゃんと見てなかった。自分だけが悔しいみたいな顔をしてた」
「美月は悪くない」
「悪くない、だけでは済まないと思う」
篠原さんは、苦しそうに言った。
「菜々がどう思っているか、知ろうとしなかった。琴音が傷ついているのも、ちゃんと止められなかった。私は、黙って得をした」
三浦さんは、何かを言おうとして、言えなかった。
三人の間に、長い沈黙が落ちる。
仲直り、と呼ぶには早すぎる。
許す、という言葉も違う。
でも、少なくとも初めて、三人は本音を同じ部屋に置いた。
歌いたい。
怖い。
羨ましい。
悔しい。
ずるいと思った。
それでも、一緒に歌いたかった。
そういう、きれいではない気持ちも含めて。
片桐先輩は、その様子を見ていた。
部長としての顔ではなく、一人の先輩として、傷ついた後輩たちを見ている顔だった。
「私も、謝らなきゃいけない」
片桐先輩が言った。
「琴音だけじゃなく、美月にも、菜々にも」
三人が彼女を見る。
「部長として、ステージを成功させることばかり考えていた。誰がどんな気持ちで歌っているか、わかっているつもりだった。でも、何も見えていなかった」
片桐先輩は、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
その姿を見て、顧問の先生も小さく息を吐いた。
「私も同じです。部員一人ひとりの状態を見ていたつもりで、手続きにも、心にも、確認が足りませんでした」
部室の中は、誰かを責める場所ではなくなっていた。
もちろん、それぞれがしたことは消えない。
片桐先輩の退部届の件は、学校として正式に扱われる。
三浦さんが付箋を書き、コピーを差し込んだことも、先生に報告される。
篠原さんが黙っていたことも、早川さんを傷つけた事実として残る。
でも、ここで終わりではない。
それをどう受け止めて、次にどうするか。
たぶん、相談室が関われるのはそこからだ。
「先生」
ひより先輩が言った。
「文化祭のソロについては、どうなりますか」
先生は少し考えた。
「正直に言えば、時間はありません。ですが、今のまま誰か一人に決めるのは難しい」
「三人で歌うことはできますか」
ひより先輩の提案に、全員が彼女を見た。
「三人で?」
早川さんがつぶやく。
「ソロをやめて、三人の小アンサンブルにする。もちろん、曲の構成が変わるから簡単ではないと思う。でも、誰か一人を選ぶ形からは離れられる」
先生は、難しい顔をした。
「音楽的には可能です。ただ、練習時間が足りるかどうか」
「無理に本番へ出す必要はありません」
ひより先輩は言った。
「でも、選択肢として考えることはできると思います」
先生は三人を見た。
「早川さん、篠原さん、三浦さん。これは今ここで決めなくていい。ただ、明日、改めて話し合いましょう。三人で歌うか、別の形にするか、出演を辞退するか。どの選択肢も、あなたたちの意思を確認してから決めます」
早川さんは、小さくうなずいた。
篠原さんも。
三浦さんも、涙を拭きながらうなずいた。
今ここで答えを出す必要はない。
その言葉が、また一つ別の形で生きた気がした。
話し合いが終わったあと、ぼくとひより先輩は音楽棟を出た。
外はもう、ほとんど夕方から夜に変わりかけていた。
校庭には文化祭準備の明かりがぽつぽつ灯っている。
ひより先輩は、しばらく黙って歩いていた。
「先輩」
「なに?」
「今回、恋ではありませんでしたね」
「うん」
「でも、似てました」
「そうだね」
先輩は、空を見上げた。
「好きって、恋だけじゃないんだね」
「歌が好き、ですか」
「うん。歌が好き。認められたい。選ばれたい。一緒にいたい。そういう気持ちも、こじれると人を傷つける」
ぼくはうなずいた。
「でも、言葉にできれば、少し変わります」
「書記くん、相談員っぽいこと言うね」
「記録係です」
「まだ言う」
先輩は少し笑った。
その時、校舎の方から小さな歌声が聞こえた。
三曲目。
星の名前を呼ぶ。
誰が歌っているのかはわからない。
一人か、二人か、三人かもわからない。
声はまだ小さかった。
でも、さっき部室で聞いた声より、少しだけ前に出ている気がした。
ひより先輩は、足を止めてその歌を聞いた。
「届くといいね」
「誰にですか」
「まずは、自分に」
その答えが、妙に先輩らしかった。
ぼくたちは、放課後相談室へ戻った。
机の上には、まだ新しい記録用紙が置かれている。
名前欄のない、まっさらな紙。
ぼくはそこに、今日の相談内容を簡単に書いた。
合唱部。
退部届。
声が出ない。
ソロ担当。
本人の意思確認が必要。
そして最後に、一文だけ加えた。
誰かの声が出ない時、代わりに決めるのではなく、声が戻るまで待つこと。
ひより先輩が、それを読んでうなずいた。
「いい記録だね」
「ありがとうございます」
「でも、ちょっと詩みたい」
「消しますか」
「消さない」
先輩は、窓の外を見ながら言った。
「相談室には、そういう記録も必要だと思う」
その時、机の上に置いていた封筒が、窓から入った風で少し動いた。
恋ではありません。
でも、誰にも言えません。
その言葉は、もう少しだけ違って見えた。
恋ではなくても、人には誰にも言えない気持ちがある。
それを無理にステージへ上げるのではなく、まずは机の上に置ける場所。
放課後相談室は、きっとそういう場所になろうとしている。
まだ、うまくできるかはわからない。
でも、始まっている。
確かに、もう一度。
第17話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、黄色い付箋を書いていたのが三浦菜々だったことが明らかになりました。
彼女は、早川琴音や篠原美月の陰で「自分は二番目にもなれない」と感じ、歌いたい気持ちをこじらせていました。
退部届を作った片桐玲奈、黙ってソロを受け取った篠原美月、声が出なくても歌いたかった早川琴音、そして選ばれたかった三浦菜々。
それぞれの気持ちがようやく言葉になり、文化祭ステージは新しい形を探すことになります。
次回は、三人が文化祭でどう歌うのか、そして放課後相談室が新しい相談をどう受け止めていくのかを描いていきます。




