第15話 声が出ない子
退部届を出していないのに、合唱部を辞めたことになっていた早川琴音。
文化祭ステージのソロ担当からも名前を消され、代わりに篠原美月の名前が書かれていた。
そして楽譜に貼られていた黄色い付箋には、こう書かれていた。
声が出ない子に、ソロは無理。
声が出ない子に、ソロは無理。
黄色い付箋に書かれたその一文は、音楽室の空気に妙に溶け込んでいた。
ピアノの上。
文化祭用の楽譜。
三曲目、星の名前を呼ぶ。
その端に、何気なく貼られている。
けれど、そこに書かれている言葉は、何気なく見過ごしていいものではなかった。
ぼくは、付箋の文字を見つめた。
丸くて小さな字。
強く押しつけた跡はない。
怒りをぶつけた文字ではなく、むしろ丁寧に書かれている。
だから余計に嫌だった。
ひどい言葉は、乱暴に書かれているとは限らない。
きれいな字で書かれた刃もある。
「声が出ない子……」
一ノ瀬ひより先輩が、小さくつぶやいた。
その声は、前章の時より慎重だった。
怒る前に、まず傷の形を見ようとしている声。
音楽室では、合唱部員たちが帰り支度を始めていた。
椅子を戻す音。
楽譜をまとめる音。
ピアノのふたを閉める音。
その中で、早川琴音さんはもういない。
彼女はさっき、楽譜を抱えたまま音楽室を出ていった。
何かを言いかけて、結局言わなかった。
封筒を差し込むことはできた。
でも、直接話すことはできなかった。
その理由が、この付箋にある気がした。
「これ、誰が貼ったんでしょう」
ぼくが言うと、ひより先輩は付箋をはがさずに、楽譜ごと見つめた。
「まだ触らない方がいいね」
「はい。先生に確認してからの方がいいです」
「書記くん、完全に証拠管理の人だ」
「前回の反省です」
「うん。大事」
ひより先輩は、近くにいた篠原美月さんへ声をかけた。
「篠原さん」
篠原さんは、楽譜の束を抱えたまま振り返った。
「はい」
「この付箋、知ってる?」
ひより先輩は、楽譜の端を指さした。
篠原さんの顔から、ほんの少し表情が抜けた。
目が付箋に向かう。
そしてすぐに、早川琴音さんが出ていったドアの方へ動く。
その動きは小さかった。
でも、見逃せるほど小さくはなかった。
「……知りません」
答えは短かった。
「本当に?」
ひより先輩の声はやわらかい。
篠原さんは、少しだけ唇を噛んだ。
「私が貼ったわけではありません」
それは、少し違う答えだった。
知っているか、と聞かれて。
貼ったわけではない、と答えた。
ぼくはその言い換えを、頭の中に置いておいた。
「じゃあ、見たことはあるんだね」
ひより先輩が言うと、篠原さんは黙った。
音楽室の中にいた何人かの部員が、こちらをちらちら見ている。
会話の中身までは聞こえていないかもしれない。
でも、何かが起きていることは伝わっている。
篠原さんは、その視線を気にするように肩を縮めた。
「ここでは……」
小さな声だった。
「ここでは、話せません」
ひより先輩は、すぐにうなずいた。
「じゃあ、場所を変えよう」
「でも、練習後の片づけが」
「待つよ」
篠原さんは少し迷った。
そして、楽譜の束を胸に抱え直した。
「十分だけ、待ってください」
「うん」
その間、ぼくとひより先輩は音楽室の後ろで待つことにした。
待っている間、ぼくは合唱部の様子を観察した。
部員は二十人ほど。
男子は少なく、女子が多い。
文化祭前だからか、みんな少し疲れているように見える。
中心にいるのは、三年生らしい部長の女子生徒。
声が大きく、指示も早い。
周りの部員は彼女の言葉にすぐ反応している。
篠原美月さんは、その中心から少し外れた場所にいた。
でも、孤立しているわけではない。
後輩から楽譜について質問されれば、丁寧に答えている。
ピアノの上に置かれた資料を、黙って種類ごとに分けている。
目立つ人ではない。
でも、いなくなると困る人。
そんな印象だった。
「篠原さん、悪い人には見えないね」
ひより先輩が小声で言った。
「はい」
「でも、何か知ってる」
「はい」
「そして、早川さんの代わりにソロ担当になった」
「はい」
「書記くん、はいしか言わない」
「整理中です」
「便利」
「地味に、ですか」
「かなり」
先輩は、少し笑った。
その笑い方が前より自然で、ぼくは少しだけ安心した。
やがて片づけが終わり、篠原さんが音楽室の外へ出てきた。
「すみません」
「大丈夫」
ひより先輩は言った。
「どこなら話せる?」
篠原さんは少し考えてから、廊下の先を指さした。
「第二音楽準備室なら、今は誰も使っていません」
第二音楽準備室は、音楽室の奥にある小さな部屋だった。
古い譜面台や、使わなくなった楽器ケース、文化祭用の衣装箱が置かれている。
窓は小さく、夕方の光が細く差し込んでいた。
ひより先輩は、ドアを閉める前に一度確認した。
「ここで話す内容は、勝手に外へ出さない。ただし、誰かの安全や大きな問題に関わる場合は、先生へ相談することがある。その時は、できるだけ説明してからにする」
篠原さんは、少し驚いた顔をした。
「前は、そういう説明なかったですよね」
「うん。変えた」
ひより先輩は、はっきり言った。
「変えなきゃいけないことがあったから」
篠原さんは、何かを察したように目を伏せた。
前の事件のことを、どこまで知っているのかはわからない。
でも、学校中に多少の噂は流れているはずだ。
ひより先輩は、それ以上説明しなかった。
「篠原さん。あの付箋のこと、教えてもらえる?」
篠原さんは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、何かを隠すためというより、どこから話せばいいのかわからない人の沈黙に見えた。
「早川さんは」
やがて、篠原さんは言った。
「本当に、歌が上手です」
最初に出たのは、予想と違う言葉だった。
「一年生の時から、ずっと上手でした。声がきれいで、音程も正確で、先生にも期待されていました。文化祭のソロも、最初から琴音がやる予定でした」
琴音。
篠原さんは、早川さんを名字ではなく名前で呼んだ。
ぼくはそこに気づいた。
「仲がいいんですか」
ぼくが聞くと、篠原さんは少しだけ苦笑した。
「前は」
短い答えだった。
前は。
その二文字には、かなりの距離があった。
「何があったの?」
ひより先輩が聞いた。
篠原さんは、楽譜の端を指でなぞるような仕草をした。
「二週間前の練習で、琴音の声が出なくなりました」
「声が?」
「はい。風邪とかではなくて、ソロの部分になると急に声が震えて、出なくなるんです。合唱の中では歌えるのに、一人で歌うところだけ、声が止まってしまう」
ぼくは、黄色い付箋の言葉を思い出した。
声が出ない子に、ソロは無理。
「それは、部内で知られているんですか」
「知られています。隠しようがないので」
篠原さんは苦しそうに言った。
「最初は、みんな心配していました。先生も無理しなくていいと言っていました。でも、文化祭が近づくにつれて、だんだん空気が変わっていきました」
「空気?」
「このままで大丈夫なのか。ソロを変えた方がいいんじゃないか。早川さんのせいでステージが失敗したらどうするのか。そういう話が、少しずつ」
言葉が、また出てきた。
周りの空気。
誰かがはっきり悪いと言ったわけではない。
でも、みんなが少しずつ同じ方向を向き始める。
前章でも見たものだった。
公開告白を止められたこと。
噂。
笑い。
無言の圧力。
今回は、歌えないこと。
「それで、早川さんは退部を?」
ひより先輩が聞くと、篠原さんはすぐに首を横に振った。
「琴音は、辞めるとは言っていませんでした」
「本人は続けたいと言っていた?」
「はい。少なくとも、私には」
「でも、退部届が出た」
篠原さんは、表情を硬くした。
「私は、その退部届を見ていません。先生から聞いただけです。早川さんから退部届が出たから、ソロは篠原に変更するって」
「その時、変だと思った?」
篠原さんは、うつむいた。
「思いました」
「なぜ、すぐに言わなかったの?」
ひより先輩の質問に、篠原さんの手が震えた。
「言えませんでした」
「どうして」
「私が、得をしたからです」
部屋の中が静かになった。
夕方の光の中で、篠原さんの表情が少し歪んだ。
「私、ずっとソロをやりたかったんです」
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「一年生の時から、琴音の隣で歌ってきました。琴音はいつも上手で、先生にも褒められて、みんなにも頼られて。私は、だいたい二番目でした」
二番目。
その言葉には、思ったより深い重さがあった。
「琴音のことは好きでした。友達だと思っていました。でも、羨ましかった。悔しかった。文化祭のソロも、本当は私も歌いたかった」
篠原さんは、泣きそうな顔で笑った。
「だから、先生からソロ変更を言われた時、一瞬、嬉しかったんです」
ひより先輩は、何も言わなかった。
「その自分が嫌で、でも嬉しくて、だから何も言えませんでした。琴音が本当に退部届を出したのか、確認すればよかったのに。変だと思ったのに。私、黙っていました」
篠原さんの声が震える。
「だから、あの付箋を見た時も、捨てられませんでした」
「付箋を書いたのは、篠原さん?」
ぼくが聞く。
篠原さんは、首を横に振った。
「違います」
「でも、見つけた」
「はい。三日前、楽譜に貼ってありました」
「なぜ捨てなかったんですか」
篠原さんは、答えるまでに少し時間がかかった。
「私の中にも、同じ気持ちがあったからです」
その言葉は、とても正直だった。
声が出ない子に、ソロは無理。
篠原さんが書いたわけではない。
でも、心のどこかでそう思ってしまった。
だから、はがせなかった。
自分の嫌な部分を、その付箋が代わりに言ってくれているように感じたのかもしれない。
「琴音は、その付箋を見たんですか」
ひより先輩が聞く。
篠原さんはうなずいた。
「たぶん。昨日、楽譜を見てすぐに顔色が変わって、そのまま帰りました」
「それで、今日、相談室に封筒を」
「わかりません。でも……琴音だと思います」
「篠原さんは、早川さんがまだ歌いたいと思っていることを知っていたんだね」
篠原さんの目に涙が浮かんだ。
「知っていました」
「でも、言えなかった」
「はい」
ひより先輩は、少しだけ目を伏せた。
責めることは簡単だった。
でも、先輩はすぐに責めなかった。
たぶん、篠原さんはもう十分に自分を責めている。
もちろん、それで終わりにはできない。
黙っていたことは、早川さんを傷つけた。
付箋を放置したことも、退部届の不自然さを確認しなかったことも。
でも、人はいつも正しい順番で動けるわけではない。
嬉しかった。
羨ましかった。
黙ってしまった。
そのあとで、後悔した。
それもまた、相談室に持ち込まれるべき感情なのかもしれない。
「篠原さん」
ひより先輩が言った。
「この件、先生に話す必要があると思う」
篠原さんは、びくっとした。
「私、怒られますか」
「たぶん、何かは言われると思う」
ひより先輩はごまかさなかった。
「でも、退部届が本当に本人のものじゃないなら、早く止めないといけない。文化祭のステージにも関わるし、早川さん本人の意思にも関わる」
「はい」
「その時、篠原さんが知っていることを話してほしい」
篠原さんは、涙をこらえるようにうなずいた。
「……話します」
その返事を聞いた時、第二音楽準備室の外から足音が聞こえた。
軽い足音。
近づいて、止まる。
そして、ドアの向こうで誰かが息を飲む気配がした。
ぼくはドアを見る。
ひより先輩も気づいた。
「誰かいる?」
先輩が声をかける。
返事はない。
ぼくがドアを開けると、廊下に一人の女子生徒が立っていた。
早川琴音さんだった。
彼女は、楽譜を胸に抱えていた。
目は赤い。
おそらく、今の話を少し聞いていた。
「早川さん」
篠原さんが立ち上がる。
「琴音、違うの。私は……」
早川さんは、篠原さんを見た。
その目には、怒りがあった。
でも、それ以上に、深く傷ついた色があった。
「美月は」
早川さんの声は、とても小さかった。
「私が辞めた方がいいと思ってたんだね」
篠原さんの顔が青ざめる。
「違う。違うって言いたいけど……でも、少し思ってた。ごめん」
篠原さんの声が震える。
「でも、退部届は私じゃない。付箋も、私じゃない。でも、はがさなかった。琴音が傷つくってわかってたのに、何も言わなかった」
早川さんは、楽譜を握る手に力を入れた。
「それって、同じじゃないの?」
その言葉に、篠原さんは何も言えなくなった。
同じではない。
でも、まったく違うとも言えない。
誰かを直接傷つけた人。
傷つくとわかっていて止めなかった人。
自分に都合のいい結果を黙って受け取った人。
その境界線は、思ったより曖昧だ。
早川さんは、ひより先輩を見た。
「封筒、読みましたか」
「読んだ」
「私、退部届なんて出してません」
「うん」
「でも、先生は出てるって言いました。お母さんの印鑑もあるって」
「お母さんは知ってる?」
早川さんは、首を横に振った。
「まだ言えてません」
「どうして?」
早川さんは、視線を落とした。
「声が出ないって言ったら、もうやめなさいって言われる気がしたから」
その言葉に、篠原さんが泣きそうな顔をした。
早川さんは続けた。
「家でも練習してました。でも、ソロのところだけ声が出ないんです。出そうとすると、胸がぎゅっとなって、喉が閉まるみたいになって」
彼女は、自分の喉に手を当てた。
「歌いたいのに、声が出ない。みんなの前に立つと、失敗することばかり考えてしまって。自分でも、ソロは無理かもしれないって思いました」
早川さんの目から、涙が落ちた。
「でも、自分で辞めるって決めたかった」
その一文が、部屋の中に静かに落ちた。
自分で決めたかった。
それは、前章からずっと続いている言葉だった。
告白するかどうか。
答えるかどうか。
名前を出すかどうか。
相談室を続けるかどうか。
そして、歌うかどうか。
誰かに勝手に決められることが、人を傷つける。
ひより先輩は、早川さんの前に立った。
「早川さん」
「はい」
「今ここで、ソロをやるかどうか決めなくていい」
早川さんの目が揺れた。
「でも、退部届のことは確認しよう。本人が出していないなら、そのままにはできない」
「はい」
「それと、声が出ないことは、あなたが弱いからとは限らない。緊張や不安で、体が止まることもあると思う。私は専門家じゃないから簡単には言えないけど、一人で抱えない方がいい」
早川さんは、黙って聞いていた。
「歌いたい気持ちがあるなら、それは大事にしていい。でも、無理にステージに立つことだけが答えじゃない」
その言葉に、早川さんは少しだけ泣いた。
声を上げて泣くのではなく、ただ涙だけが落ちる泣き方だった。
篠原さんが、小さく言った。
「琴音」
早川さんは、篠原さんを見た。
「ごめん」
篠原さんは頭を下げた。
「私、琴音がいなくなったらソロができるって、少し思った。それは本当。だから、ちゃんと謝る」
早川さんは、すぐには答えなかった。
長い沈黙があった。
それから、早川さんは言った。
「今は、許せない」
「うん」
「でも、言ってくれてよかった」
篠原さんは、口元を押さえた。
そのやりとりを見ながら、ぼくは思った。
謝罪は、許しをもらうためだけにあるわけではない。
自分がしたことを、相手の前でごまかさないためにある。
その時、廊下の向こうから顧問の先生の声が聞こえた。
「篠原さん? 早川さん?」
ぼくとひより先輩は、顔を見合わせた。
現実の手続きが始まる。
退部届。
保護者印。
ソロ変更。
黄色い付箋。
確認しなければならないことは多い。
でも、その前に一つだけ。
ぼくは早川さんに聞いた。
「早川さん。退部届の用紙に心当たりはありますか。家で書いた下書きや、部室に置いていたものなど」
早川さんは、涙を拭きながら首を振ろうとした。
けれど、途中で止まった。
「……一度だけ」
「一度だけ?」
「先生に、もし辞めたいなら用紙だけ渡しておくと言われました。でも、私は受け取っていません」
「先生から?」
「はい。でも、その時、部長も近くにいました」
部長。
ぼくは音楽室で指示を出していた三年生の女子生徒を思い出した。
声が大きく、周りがすぐに従う人。
「部長の名前は?」
ひより先輩が聞いた。
早川さんは答えた。
「三年の、片桐玲奈先輩です」
その名前を聞いた瞬間、篠原さんの表情が変わった。
「片桐先輩は、違います」
早かった。
あまりにも早い否定だった。
ぼくは、篠原さんを見る。
「どうしてそう言い切れるんですか」
篠原さんは、言葉に詰まった。
その反応で、また一つわかった。
篠原さんは、まだ何か知っている。
顧問の先生の足音が近づいてくる。
ひより先輩は、静かに言った。
「続きは、先生も一緒に聞こう」
早川さんは、不安そうにうなずいた。
その時、第二音楽準備室のドアの下から、何かが滑り込んできた。
白い紙だった。
ぼくは、それを拾う。
そこには、退部届のコピーが印刷されていた。
早川琴音の名前。
保護者印。
退部理由。
文化祭ステージへの参加が精神的負担となるため。
そして、紙の下に手書きで一文が添えられていた。
歌いたいなら、どうして声が出ないの?
早川さんの顔が真っ白になった。
篠原さんが息を飲む。
ひより先輩の目が、鋭くなる。
ぼくは紙の右下を見た。
そこには、コピー機特有のわずかなかすれがあった。
でも、生徒会室のコピー機ではない。
音楽室前の職員用コピー機のものだった。
第15話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、早川琴音が「ソロになると声が出なくなる」こと、そして篠原美月が彼女の代わりにソロ担当になったことへの複雑な感情を抱えていたことが明らかになりました。
篠原は退部届や付箋の犯人ではなさそうですが、琴音が傷つくとわかっていながら黙っていたことを認めます。
そして最後に、退部届のコピーと新たな一文が届きました。
歌いたいなら、どうして声が出ないの?
次回は、退部届を出した人物と、合唱部部長・片桐玲奈の関係に踏み込んでいきます。




