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第14話 恋ではありません

放課後相談室として、再開準備を始めた旧進路指導室。

そこへ届いたのは、差出人不明の白い封筒だった。


恋ではありません。

でも、誰にも言えません。

恋ではありません。

でも、誰にも言えません。


白い封筒の表には、そう書かれていた。


旧進路指導室の床に差し込まれた封筒。

差出人の名前はない。

宛名もない。

ただ、その一文だけが、細い黒いペンで書かれている。


ぼくは封筒を見つめながら、少しだけ息を止めていた。


また届いた。

また、名前のない紙。

また、放課後のこの部屋に。


第1話の失恋届を思い出す。

閉鎖届。

辞退届。

匿名メッセージ。

ステージに映された写真。


紙一枚が、人をどれだけ揺らすかを、ぼくたちはもう知っている。


だから、何も考えずに開けることはできなかった。


「書記くん」


一ノ瀬ひより先輩が、封筒を手にしたまま言った。


「開けていいと思う?」


いつもの先輩なら、たぶんもう開けている。

「相談が来ちゃったね」と笑って、中身を読んで、それから考え始める。


でも、今の先輩は違った。


封筒を持つ指先に、ほんの少し力が入っている。

怖がっているわけではない。

慎重になっているのだと思う。


それは、放課後相談室が変わった証拠だった。


「名前がないので、本人確認はできません」


ぼくは言った。


「でも、封筒はこの部屋に差し込まれています。相談室宛てと考えていいと思います」


「中身に個人名があったら?」


「勝手に広げない。必要なら先生立ち会いで扱う。再開案のルール通りです」


「うん」


ひより先輩は、小さくうなずいた。


「じゃあ、ここで開ける。書記くんも一緒に見て」


「はい」


先輩は、封筒の端を丁寧に開いた。


中には、便箋が一枚入っていた。


白い紙。

けれど、失恋届のような事務的な書体ではない。

手書きだった。


少し丸い文字。

ところどころ、迷ったように線が震えている。


ひより先輩は、便箋を机の上に置いた。


ぼくたちは、黙って読み始めた。


相談があります。


私は、合唱部を辞めたことになっています。

でも、私は退部届を出していません。


顧問の先生には、私の名前で退部届が出ていると言われました。

そこには、私の名前と、私の印鑑がありました。


文化祭のステージ曲からも、私の名前だけ消えていました。


でも、私はまだ歌いたいです。


恋ではありません。

でも、誰にも言えません。


最後まで読んで、しばらく部屋の中が静かになった。


窓の外から、文化祭準備の音が聞こえる。

どこかのクラスが机を運んでいる音。

廊下を走る足音。

遠くで誰かが笑う声。


その明るさが、便箋の中の言葉と妙に合わなかった。


私はまだ歌いたいです。


その一文だけが、胸の奥に残った。


「退部届……」


ひより先輩がつぶやいた。


「また届ですね」


ぼくは言った。


「失恋届、閉鎖届、辞退届。今度は退部届」


「偶然かな」


「偶然かもしれません。でも、この相談者が前の事件を知っていて、あえて“届”という言葉を使った可能性もあります」


「もしくは」


ひより先輩が便箋を見つめる。


「学校には、人の気持ちを勝手に処理する紙が多すぎるのかもね」


それは、冗談のようで、冗談ではなかった。


退部届。

辞退届。

申請書。

同意書。

報告書。


紙に名前が書かれれば、本人の気持ちまで決まったことにされる。

でも、その紙が本当に本人の言葉かどうかは、意外と簡単にはわからない。


「合唱部ですね」


ぼくは便箋の内容を整理した。


「文化祭ステージ曲から名前が消えているということは、文化祭で発表予定がある。相談者は合唱部員。退部届には本人の名前と印鑑。本人は出していないと言っている」


「印鑑って、学校でそんなに使う?」


「部活関係の正式な退部届なら、保護者印が必要な場合もあります」


「じゃあ、かなり面倒だね」


「はい。勝手に出されていたなら、大問題です」


ひより先輩は椅子に座り、深く息を吐いた。


「でも、これ、誰の相談かわからない」


「合唱部の文化祭ステージ参加者名簿を見れば、最近名前が消えた人を探せるかもしれません」


「生徒会にステージ参加者の資料はある?」


「文化祭実行委員の資料にあるはずです。ただし、前の事件のあと、共有フォルダの扱いは制限されています」


「簡単には見られない?」


「見られますが、先生に目的を説明した方がいいです」


ひより先輩は、少しだけ笑った。


「書記くん、本当にルール担当になったね」


「必要なので」


「うん。必要」


先輩はそう言って、便箋をもう一度見た。


「この子、名前を書かなかったんだね」


「はい」


「でも、誰にも言えません、って書いてる」


「つまり、直接相談に来るのも怖かった」


「それでも、ここに封筒を差し込んだ」


ひより先輩は、便箋の最後の一文を指でなぞった。


「まだ歌いたい、か」


その声が、少しやわらかくなる。


前章の事件で、先輩はたくさん傷ついた。

相談室を続けることの怖さも知った。

秘密を預かることの重さも知った。


それでも、この一文を見た時、先輩の目は相談員の目に戻っていた。


助けたい。

でも、勝手に助けたつもりになってはいけない。


その間で、ちゃんと立とうとしている目だった。


「まず、先生へ相談しますか」


ぼくが聞くと、ひより先輩は少し考えた。


「名前がわからないから、内容だけ相談する。個人が特定されない範囲で」


「はい」


「そのうえで、合唱部のステージ参加者名簿を確認する」


「正式な手順としては、それがいいと思います」


「書記くん」


「はい」


「相談室っぽくはないけど、正しいね」


「相談室を守るためです」


「うん」


ひより先輩は、静かに便箋を封筒へ戻した。


その時、廊下から歌声が聞こえた。


小さな声だった。


遠くの音楽室から聞こえてくる合唱部の練習だろうか。

文化祭が近いせいか、放課後の校舎のあちこちから音がする。


吹奏楽部のチューニング。

演劇部の発声練習。

軽音部のギター。

そして、合唱部の歌声。


声は重なっているのに、一人分だけ少し抜けているように聞こえた。


そんなことが本当にわかるわけではない。

でも、便箋を読んだあとだから、そう感じてしまった。


「行ってみますか」


ひより先輩が言った。


「合唱部へ?」


「うん。直接聞き込み、ではなくて、見学」


「それなら問題ないと思います。ただし、相談者探しをしていると気づかれないように」


「慎重だ」


「必要なので」


「本日二回目」


ひより先輩は立ち上がった。


ぼくたちは旧進路指導室を出て、音楽室へ向かった。


夕方の廊下は、文化祭前らしい混雑で少し騒がしかった。

模造紙を抱えた生徒。

衣装の布を持った生徒。

段ボールを押す生徒。


その中で、音楽室へ近づくほど、歌声がはっきりしてくる。


合唱曲らしい。

明るい曲ではない。

少し静かで、言葉を大切にするような曲だった。


音楽室の扉は少し開いていた。


中では、二十人ほどの生徒が並んで歌っている。

前には顧問の先生。

ピアノの前には伴奏者。

窓際には、文化祭用の衣装らしき白いリボンが置かれていた。


ひより先輩は、廊下からそっと中をのぞいた。


「見学ですか?」


突然、後ろから声がした。


ぼくとひより先輩は、ほぼ同時に振り返った。


そこに立っていたのは、合唱部の女子生徒だった。


肩までの髪。

丸い眼鏡。

手には楽譜の束。

リボンは少し曲がっている。


表情はおだやかだが、目はよく人を見ている。


「驚かせてすみません」


彼女は小さく頭を下げた。


「合唱部の二年、篠原美月です。生徒会の方ですよね」


「一ノ瀬ひよりです。こっちは高槻湊くん」


「生徒会書記の高槻です」


篠原美月さんは、ぼくを見ると少しだけうなずいた。


「文化祭の件ですか?」


ひより先輩は、一瞬だけぼくを見た。


相談内容をいきなり話すわけにはいかない。


「少し見学させてもらえたらと思って」


先輩は自然な声で答えた。


「文化祭のステージの様子を確認したくて」


「そうですか」


篠原さんは、音楽室の中をちらりと見た。


「今、最後の曲を合わせているところです。中へどうぞ」


ぼくたちは音楽室の後ろへ入った。


歌声が、廊下で聞くよりずっと近くなる。


低い声。

高い声。

ピアノの音。

先生の手拍子。


でも、全体としては少し不安定だった。


一人足りない。


そんな言葉が、頭に浮かぶ。


ぼくは、壁に貼られた文化祭ステージの曲目表を見た。


合唱部発表

一曲目 群青の朝

二曲目 風の通り道

三曲目 星の名前を呼ぶ


三曲目の横に、ソロ担当の名前が書かれていた。


最初は、誰かの名前があったのだろう。

でも、白い修正テープで消され、その上から別の名前が書かれている。


篠原美月。


ぼくは、その文字を見た。


そして、封筒の文面を思い出す。


文化祭のステージ曲からも、私の名前だけ消えていました。


「書記くん」


ひより先輩が小さく呼ぶ。


先輩も気づいたようだった。


篠原美月さんは、ソロ担当になっている。

でも、それが最初から彼女だったのかはわからない。


むしろ、修正テープの跡がある以上、誰かから変更された可能性が高い。


「篠原さん」


ひより先輩が声をかけた。


「はい」


「三曲目、ソロがあるんですね」


篠原さんは、ほんの一瞬だけ表情を止めた。


けれど、すぐに笑った。


「はい。急に任されることになって、正直、少し困っています」


「急に?」


「前の担当が出られなくなったので」


「退部されたんですか」


ひより先輩は、やわらかく聞いた。


篠原さんは、楽譜を持つ手に少し力を入れた。


「……そう聞いています」


「本人から?」


「いいえ」


その答えは、短かった。


ひより先輩は、それ以上踏み込まなかった。


でも、篠原さんの視線は揺れている。


何かを知っている。

少なくとも、何かがおかしいとは思っている。


音楽室では、曲が終わった。

顧問の先生が手を叩く。


「はい、今日はここまで。文化祭まで時間がありません。明日はソロの確認を中心にします」


部員たちが返事をする。


その声の中に、ひときわ小さな声が混ざっていた。


「はい」


ぼくは、音のした方を見た。


音楽室の隅。

楽譜棚の近く。

一人の女子生徒が、楽譜を抱えて立っていた。


髪は長く、前髪で少し目が隠れている。

制服の袖を指でつまんでいる。

合唱部の中にいるのに、どこか部外者のような立ち方だった。


ひより先輩も、その子を見ていた。


彼女は、顧問の先生にも他の部員にも話しかけられず、静かに楽譜を片づけている。


けれど、机の上に置かれた楽譜の表紙には、薄く名前が残っていた。


消しゴムで何度もこすったような跡。


それでも、読み取れた。


早川琴音。


その瞬間、篠原美月さんがぼくたちの視線に気づいた。


「早川さんは、もう部員ではありません」


その声は、少し硬かった。


「でも、今ここにいます」


ぼくが言うと、篠原さんは困ったように目を伏せた。


「楽譜を返しに来ただけです」


早川琴音さんは、その声を聞いたのか、肩を小さく震わせた。


そして、こちらを見た。


目が合う。


その目を見た瞬間、ぼくは思った。


この人だ。


封筒を書いたのは、たぶんこの人だ。


でも、早川さんは何も言わなかった。

ただ、楽譜を胸に抱えたまま、音楽室の出口へ向かった。


ひより先輩が一歩動く。


けれど、ぼくは小さく首を振った。


追いかければ、彼女は逃げる。


そんな気がした。


早川さんは、音楽室を出る直前に一度だけ振り返った。


その視線は、ぼくたちではなく、曲目表へ向いていた。


三曲目。

星の名前を呼ぶ。

ソロ担当、篠原美月。


白い修正テープの下に隠された、前の名前。


早川琴音。


彼女は、何かを言いかけた。


でも、言わなかった。


音楽室のドアが静かに閉まる。


ひより先輩が、小さく息を吐いた。


「書記くん」


「はい」


「あの子だね」


「おそらく」


「でも、本人から聞かないと」


「はい」


「それと、篠原さんも何か知ってる」


「はい」


ぼくは曲目表を見る。


退部届を出していないと言う早川琴音さん。

その名前が消された文化祭ステージ。

代わりにソロ担当になった篠原美月さん。


単純に考えれば、篠原さんが怪しい。

ソロの座を得るために、早川さんの退部届を偽造した。


でも、あまりにもわかりやすい。


前の事件で、ぼくたちは学んだ。

怪しく見える人が、必ずしも犯人とは限らない。

人の弱いところを使えば、誰でも犯人らしく見せられる。


「ひより先輩」


「なに?」


「この件、恋愛ではありません」


「うん」


「でも、かなり厄介です」


「そうだね」


ひより先輩は、音楽室の窓の外を見た。


夕方の空が、少しずつ暗くなっている。


「歌いたいのに、歌えない」


先輩は静かに言った。


「それも、ちゃんとした相談だよ」


その時、音楽室のピアノの上に置かれた楽譜が、風でめくれた。


三曲目。

星の名前を呼ぶ。


その楽譜の端に、小さな付箋が貼られていた。


黄色い付箋。


そこには、一言だけ書かれている。


声が出ない子に、ソロは無理。


ぼくは、その文字を見つめた。


早川琴音さんは、本当に退部届を出していないのか。

誰が彼女の名前を消したのか。

篠原美月さんは、何を知っているのか。


そして、この黄色い付箋は誰が貼ったのか。


放課後相談室の最初の相談は、恋ではなかった。


でも、誰かの声を奪おうとしている点では、前の事件と少し似ていた。





第14話まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回から新しい相談が始まりました。

差出人不明の封筒に書かれていたのは、「退部届を出していないのに、合唱部を辞めたことになっている」という内容でした。


相談者と思われる早川琴音。

代わりにソロ担当になった篠原美月。

そして楽譜に貼られていた「声が出ない子に、ソロは無理」という黄色い付箋。


次回は、早川琴音がなぜ直接相談に来られなかったのか、そして合唱部の中で何が起きているのかを追っていきます。

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