9.犯人
霧が晴れるとフィオナとヨハンは林の中にいた。元の時代に戻ってきた。
三年前のフィオナがアーサーを説得していれば、二人はカルネラ子爵家に住んでいる。
「うまくいったでしょうか?」と首をすくめるヨハン。
「それを確かめにいきましょう」とフィオナはヨハンの手をとった。
フィオナは石畳を、ヨハンと並んで歩いた。朝のやわらかな日差しが、木立の隙間から降り注ぐ。ヨハンのグレーの髪がきらきらと光った。
ヨハンの頭はフィオナの肩よりも高くにあった。さっき林を歩いたときは、肩よりも低かったような気がしたのに……。
「ねえ、背が伸びた?」
ヨハンは目を丸くして、「気のせいですよ」と苦笑いした。一日で背が伸びるわけがない、とでも言いたげな目をしていた。
カルネラ子爵家が見えてきたら、屋敷の正面の大扉が、ギイイと音を立てて開いた。中から、黒塗りの馬車がゆっくりと姿を現した。
「アーサーかしら?」フィオナが馬車に近づくと、御者は手綱を操って馬を止めた。
馬車のカーテンからアーサーが顔を出した。カルネラ子爵家に住んでいるのだから、アーサーは死ぬことはない。フィオナは深く息を吐き出した。
「お出かけかしら?」
「ああ、出かけてくる。昼食までには戻るよ」
「お気をつけて」
アーサーが照れたように頷くと、馬車は動き出した。
屋敷に入ろうとしたフィオナに、「お母様は先に戻っていてください。僕は念のために後をつけます」とヨハンは馬車を追いかけていった。
一緒にいくべきかもしれないが、フィオナが通りを走ると目立ちすぎる。アーサーの尾行はヨハンに任せることにした。
**
暴れ馬との格闘で汚れたドレスを着替えたフィオナは、ヨハンの帰りを庭園で待つことにした。やわらかな光が露を含んだ芝に反射して輝いていた。
フィオナが背筋を伸ばして椅子に腰かけると、侍女のメアリーがテーブルに、薄磁のティーカップとポットを置いた。ポットから湯気が立ち、中には開いた茶葉がぐるぐると揺れていた。
ポットの液体をティーカップに注ぐと、爽やかな香りが広がった。柑橘系の果実に似た香りがした。
「いい香りね」
「新しく仕入れました。味も最高ですよ」
メアリーが弾むように言うと、フィオナはティーカップから紅茶を一口含んだ。美味しい、自然に頬がゆるんだ。
「いい朝ね。レイモンド子爵家の家督について、なにか聞いていないかしら?」
「ミカエル様が継がれるそうです」
「そう。ありがとう」
「いえ」と言い残して、メアリーは屋敷に去っていった。
ミカエルがレイモンド子爵家の家督を継ぐなら、アーサーが死ぬことはない。もう、あんな悲しい思いをしなくてもいい。「やった」と思わず声が漏れた。
木の上の小鳥が短くさえずった。庭園の隅の薔薇が、風に揺れていた。
フィオナが空を見上げていたら、静寂が破られた。
「奥様、大変です!」
屋敷に戻ったばかりのメアリーが走ってきた。取り乱したメアリー。あの思い出したくない記憶がよみがえる。フィオナは首を左右に振った。
「奥様……旦那様が……」
アーサーはカルネラ子爵家に婿入りした。大丈夫だ。死ぬわけがない。フィオナは深く息を吐き出した。
「何があったの?」
フィオナはメアリーの手を握りしめた。
「馬車が暴走したそうです」
メアリーはフィオナと目を合わせられず視線を逸らした。目の前の庭園が色あせて見えた。
**
フィオナは屋敷を飛び出し、ロックウッド侯爵家の方向に走った。通行人の視線を感じた。貴族婦人は優雅にゆっくり歩くこと、決して人前で走ってはいけない。母に教えられたけれど、気にする余裕はなかった。息が上がり、胸が苦しかった。それでもフィオナは走り続けた。
やがて、人だかりが見えてきた。あそこだ。鼓動が激しくなった。
「通して……お願い、通して!」
群衆を押しのけて人だかりの中に入った。誰かが「押すな!」と声を上げたが、無視して奥へ進んだ。
視界が開けると、馬車の残骸が目に飛び込んできた。
馬はいなかった。どこかに逃げたのだろう。民家の壁の横には歪んだ車輪、散らばったキャビンの木片。石畳に横たわっていたのは、見慣れた顔だった。
「ああ、アーサー……」
黒い外套は裂け、泥で汚れていた。地面に広げた手足はだらんとしたままで、動かなかった。息をしておらず、脈もなかった。
フィオナが抱き起したアーサーの白いシャツは血にまみれていた。外套をめくると、胸に刃物で刺した刺し傷があった。馬車の暴走に見せかけた刃物による殺害。
野次馬の中に刺客が紛れていないか、周囲を見回した。群衆の中には、静かにフィオナを見つめるヨハンがいた。
馬車の周りをうろうろする家人にアーサーを屋敷まで運ぶように指示すると、フィオナは目で合図し、ヨハンと人混みから離れた。
「何があったの?」
「ロックウッド侯爵家に向かうお父様の乗った馬車が、急に暴走しました。馬車は曲がりきれずに、民家に衝突しました。お父様はキャビンから投げ出され、壁に激しく打ち付けられ、地面に倒れ込みました」
「アーサーの死因は刃物で刺されたことによるもの。誰が刺したか、見ていない?」
ヨハンは首を横に振った。
フィオナはぼんやりと前を見た。人だかりが小さくなっていく。家人がアーサーを搬送し、馬車の残骸を片付けが終ったのだろう。
ヨハンのシャツにシミができていた。三年前に行ってから、ヨハンは着替えていない。着替えさせないと……シャツにシミが……右腕も汚れている。
アーサーに会うために、ヨハンはこの時代に来た。しかし、ヨハンがアーサーと話すのを見たことがない。そして、アーサーが死ぬ場所には、いつもヨハンがいる。
なぜ気付かなかったのだろう? あまりにおかしくて、フィオナは笑い声を上げた。
「お母様、どうかされましたか?」
ヨハンが心配そうにフィオナを見つめた。
「ねえ、ヨハン。アーサーの行先がロックウッド侯爵家だと、なぜ知っていたの?」
ヨハンは無言のまま愛想笑いを浮かべた。
「シャツの右手が赤く汚れているわ。それは誰の血かしら?」
フィオナはドレスに隠していた仕込み杖に手をかけた。
「シャツの左腕を捲って、私に見せなさい」
フィオナが笑うと、ヨハンはため息をついた。
「わかりました」
ヨハンがシャツの左腕を捲ると、星形の入れ墨があらわれた。フィオナは仕込み杖の刀を抜いて、ヨハンの首にぴたりと付けた。
「ヨハン、父親に会うためにこの時代に来たあなたが、アーサーを殺した。何のために?」
「お母様のためです」
「私のため?」
「ええ、お母様がお父様を殺さなくていいように、僕が殺しました」
ヨハンの目には、涙の粒がこぼれそうに溜まっていた。
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