8.少しだけ明るい世界
「うまくいってよかったです」
父の部屋から出ると、ヨハンが声を弾ませた。父との会話をヨハンに盗み聞きされていたことに、フィオナは苦笑いした。
フィオナはヨハンと並んで、玄関へ続く廊下を歩いた。
「本当は三年前の私に話ができればいいのだけれど、それはできない。どうすればいいかしら?」
「僕がお母様を説得しましょうか?」
フィオナは「うーん」と唸りながら頭を傾けた。ヨハンが未来から来たことを、三年前のフィオナが信じるか……悩ましいところだ。
「それよりも、私が書いた手紙をヨハンに持っていってもらうのはどうかしら?」
「たしかに。本人しか知らない情報が手紙に書いてあれば、信用しますね」
そして、三年前のフィオナにアーサーを説得してもらえばいい。方針は決まった。
「その前に」とフィオナはヨハンを見てから、「アーサーに会いに行きましょう」と頬をゆるめた。
「お父様にですか?」
「そうよ。アーサーが死んでいないか、確かめておきたいの」
**
レイモンド子爵家には三年前のフィオナがいる。鉢合わせるのは避けたいから、アーサーが屋敷から出てくるのを待った。しばらくすると、屋敷の門が開き、馬車が出てきた。いつもアーサーが使っている馬車だ。歩行者が多くて、馬車は歩く速さで教会のほうへ進んだ。
馬車に近づいても、アーサーには気付かれないだろう。そう考えたフィオナは馬車の中を覗き込んだ。
そこには、フィオナと逆の窓から外を眺めるアーサーがいた。
二度もアーサーの死に立ち会った。もう、二度と死なないでほしい。胸に手を当てて深く息をつくと、視界がにじんで揺らいだ。
そのとき、石畳を金属で殴りつけるような音が響いた。フィオナは音のした方向に視線を向けた。
金属音の正体は暴走する馬車だった。御者台には誰もおらず、座席には女の子が乗っていた。
興奮した馬は、制御を失ったままアーサーの馬車に向かって走っていった。通行人は悲鳴を上げながら、馬車を避けて壁際へと逃げた。
視線を戻すと、アーサーは馬車から降りていた。暴走する馬車に走っていくと、座席の木枠をつかみ、強引に乗り移った。
アーサーは女の子を抱えた。馬車の外へ跳ぼうとしているようだが、石畳に叩きつけられると大けがをする。アーサーは手を戸にかけたまま動けなかった。
フィオナは長いため息をついた。
「先に馬を止めなさいよ。考えなしに飛び込むから、こうなるのよ」
フィオナは深く息を吸うと、駆けだした。馬車に近づくと、噴水の縁を蹴り、高く跳躍した。馬車の側面に手をかけると、空中で体をひねって、御者台に乗り移った。
「フィオナ」
フィオナを呼ぶ声。アーサーだ。
「そのまま、動かないで!」
フィオナは手綱を掴むと、強く引いた。しかし、興奮した馬は従わない。ただ前へ前へと逃げようと走り続けた。前方には曲がり角が迫る。
「止まりなさい!」
馬は大声に驚いたのか、失速した。その隙を逃さず、フィオナは全身の力を込めて手綱を引いた。
蹄が石畳を削り、火花が散った。衝撃で振り落とされないよう、フィオナは御者台の枠を握りしめた。
馬車は、壁に激突する寸前で停止した。
「けがはない?」
フィオナが座席を覗き込むと、アーサーはゆっくりと顔を上げた。アーサーは女の子を抱きしめていた。ルビアン王国には珍しい黒い髪の女の子だった。
「フィオナに助けてもらうとは、面目ない」
「どうして飛び乗ったの?」
「だって、困っている人をほっとけないよ」
アーサーが頭をかくのを見て、フィオナの頬がゆるんだ。
「あれ?」
馬車から降りたアーサーは、フィオナをじっと見つめた。まさか、三年後のフィオナだと気づかれたのだろうか? そんなわけがない。フィオナは愛想笑いを浮かべた。
「髪型、変えたの?」
アーサーが目を細めていた。懐疑と確信とが混ざった表情。
三年前とは髪の長さが違う。軽くしたくて、背中にかかる長さから、肩までの長さに変えた。
「うん、少しね」
できるだけ何でもないように言ったつもりだけど、声が弾んでしまった。
「すごくいいよ。とても、フィオナに似合っている」
短いけれど、優しい言葉。胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ほんとに?」
「うん、似合っているよ」
アーサーは笑って、小さくうなずいた。
「ねえ、もう一回言って」
「とても、素敵だよ」
アーサーが頭をかくと、フィオナの頬がゆるんだ。
たったそれだけの会話だけれど、フィオナの世界が少し明るくなった。
**
教会に向かったアーサーを見送ったフィオナは、筆記具を扱う文具店に入った。
三年前のフィオナに宛てた手紙を、レイモンド子爵家で書くわけにいかない。上質紙は平民の家にはない。かといって、貴族の屋敷に訪問すると、三年前のフィオナに知られるかもしれない。
フィオナは便箋と羽根ペンを購入すると、手紙をしたためるために文具店の応接室を借りた。
「お父様に伝えなくてよかったのですか?」
ヨハンが不安そうにフィオナを覗き込んだ。
「いいのよ」
カルネラ子爵家の婿養子になるようにアーサーを説得するのは、この時代のフィオナの役割だ。たとえ同じ人間だとしても、フィオナは未来からきた自分に二人の将来を決められたくない。
「自分のことは、自分が一番詳しいの」
「そうですか」とヨハンは首をすくめると、それ以上は何も言わなかった。
フィオナは三年前の自分に宛てて羽根ペンを走らせた。まずはフィオナしか知らない秘密を2つ入れた。次に、アーサーがレイモンド子爵家の家督争いに巻き込まれて刺客に殺されること、カルネラ子爵家の婿養子になればアーサーの死を回避できることを書いた。お父様は婿養子の件を了承しているから、アーサーを説得してほしい、としたためた封筒に封蝋を押した。
「さて、この手紙を渡してきて」
フィオナが封筒を差し出すと、ヨハンは小さく頷いた。




