第72話:三つの指輪と星降る高原。ずっと一緒に月を見よう
あの日、桜子が魔法少女として覚醒するなどのドタバタがありながらも、あれからアースガルドと地球との関係は、俺たちの想像を超えるほど順調に進展していた。
医療、インフラ、そして未知の資源。両世界の人材と技術の交流は、英国とアトキンソン子爵の後ろ盾、そして香織が率いる新会社の暗躍により、完全にコントロールされながら着実に実を結んでいる。
その功績を認められ、五年の歳月を経た現在。
俺はなんと、エルディア王国とアーランド王国の両国から正式に『伯爵』の位を授与されるに至っていた。
日本のサラリーマンだった男が、今や地球の英国男爵であり、異世界二カ国の伯爵である。もはや名刺の肩書きがどうなっているのか自分でもよく分からないが、相変わらず俺は平穏な日々を愛する一人の男に過ぎなかった。
――そして、時は流れ。
ついに、あのアトキンソン家の一人娘、シャーロットが十八歳の誕生日を迎えた。
ロンドンにあるアトキンソン家の豪奢な館。
そのバルコニーで、俺は美しく成長した彼女と向かい合っていた。
かつて俺を「お兄様」と呼んで無邪気に笑っていた十二歳の少女は、五年という歳月を経て、息を呑むほどに気高く、洗練された大人のレディーへと変貌を遂げていた。
それでも、俺に向けるその眼差しの奥にある純粋な愛情だけは、あの日から何一つ変わっていない。
「……シャーロットちゃん」
子爵から『そろそろどうだね?』という強烈なプレッシャーも受けていた俺は、今日、彼女にすべてを打ち明ける決意をしていた。
俺が持つチート能力の真実。そして、自分がいかに『普通の人間』から外れた存在であるかを。
すべてを聞き終えたシャーロットは、驚くことも、引くこともなく、ただ優しく微笑んだ。
「初めてお会いして、炎の中から助け出していただいたあの日から。……貴方は私にとって、ずっと特別でしたよ? 貴方がどれほど規格外であろうとも、私の想いが揺らぐことなどありませんわ」
その迷いのない言葉に、俺の胸の奥が熱く締め付けられた。
彼女はそっと背伸びをすると、俺の首に腕を回し、長い間待ち望んでいた、誓いのキスを交わした。
その後、俺たちは二人でアトキンソン子爵の書斎へと向かった。
そこには子爵だけでなく、俺とシャーロットの結婚をずっと裏で後押ししてくれていた香織と沙織の姿もあった。
「お父様、香織お姉様、沙織お姉様。……私、アツシ様にすべてを受け入れていただきました」
幸せそうに微笑むシャーロットの報告に、子爵は「おお……!」と顔をくしゃくしゃにして喜び、香織と沙織も優しく拍手を送った。
俺はシャーロットとそっと目配せをした。彼女は小さく頷き、俺の背中を押すように微笑んでくれた。
「香織さん、沙織。……ちょっと、付き合ってくれないか」
俺は二人の手を取ると、子爵の書斎から『転移』を発動させた。
一瞬で視界が切り替わる。
二人が目を開けると、そこはアーランド王国にある、標高の高い美しい高原だった。
見渡す限りの緑の絨毯。そして頭上には、手を伸ばせば届きそうなほどに瞬く、アースガルドの満天の星空が広がっている。空には、地球とは違う、しかしとても美しく澄み切った月が浮かんでいた。
「ここは……」
「綺麗……」
息を呑む二人の前で、俺は香織に向かって、静かに片膝をついた。
そして、胸のポケットから小さなビロードの箱を取り出し、パカッと開ける。中には、彼女の瞳のように深く澄んだ輝きを放つ、指輪が収められていた。
「……香織さん」
「淳志、くん……」
「シャーロットと結婚する話はついた。……でも、俺は、こういう指輪を渡しての『ちゃんとしたプロポーズ』は、絶対に、誰よりも先に香織さんとしたかったんだ」
俺は彼女の細い手を両手で包み込み、真っ直ぐにその瞳を見つめ上げた。
「貴方と、いつまでも同じ月を見たいんです。……僕と、結婚してください」
静かな夜風が吹き抜ける。
香織は、大和商事の取締役として、そして幾多の修羅場をくぐり抜けてきた完璧な美魔女として、いつも大人の余裕を崩さなかった。
だが今、彼女の目からは、とめどなく大粒の涙が溢れ出していた。
言葉にならない嗚咽。彼女は両手で顔を覆い、まるで小さな女の子のように、ポロポロと、ポロポロと号泣し始めたのだ。
「うぅ……っ、あー……っ」
俺はゆっくりと立ち上がり、泣きじゃくる彼女の肩を抱き寄せ、その涙を拭うように深くキスをした。
その光景を横で見ていた沙織もまた、母親の幸せな涙にもらい泣きをして、鼻をすすっていた。
「……よかったわね、お母さん。淳志、本当にありがとう。……で? 私は?」
「あ、これね」
俺は胸のポケットからもう一つの箱を出し、「ほいっ」と極めて雑な手つきで沙織に渡した。
「……ちょっと! お母さんと全然扱いが違うじゃないの!!」
ムードぶち壊しの雑な渡し方に、沙織が涙目になりながらも激怒する。
俺は声を上げて笑い、文句を言う沙織の体をヒョイッとお姫様抱っこで抱き上げた。
「きゃっ!? ちょっと淳志、落とす気!?」
「落とすもんか。……お前とは、シンガポールのカジノから始まって、本当に変な縁だよな」
腕の中でもがく彼女の顔を、至近距離で見つめる。
「でも、俺はお前とずっと一緒に、この綺麗な星を見たいと思ってるんだ。……結婚しよう!」
俺の言葉に、沙織は顔を真っ赤に染め、俺の首に腕を回しながら小悪魔のように微笑んだ。
「……答えは、もう一回、ちゃんと指輪をくれたら教えてあげるわ」
その言葉に俺は苦笑し、沙織をそっと地面に降ろした。
そして再び片膝をつき、今度はしっかりと彼女の目を見て、指輪の箱を差し出した。
「沙織さん。結婚してください。貴方とずっと一緒に星を見たいです」
沙織の瞳に、大粒の涙が溜まる。
彼女は満面の笑みを浮かべ、はっきりと、力強く頷いた。
「……はいっ」
俺が沙織の指に指輪を通すと、横で見ていた香織が「うぅぅ……沙織ぃ……っ」と、本日二度目の号泣をかまし始めた。
母と娘。どちらもかけがえのない、俺が一生をかけて守り抜くと誓った大切な女性たちだ。俺は二人を両腕に抱きしめ、アースガルドの星空の下で、深く、温かい時間を噛み締めた。
そして。
俺たちが地球のロンドン、アトキンソン家の書斎へと『転移』で帰還すると。
「おかえりなさいませ。アツシ様、香織お姉様、沙織お姉様」
書斎の扉の前で、シャーロットがこの世の春を集めたような、可憐で美しい微笑みを浮かべて待っていた。
彼女は香織と沙織の手を見ると、パァッと顔を輝かせて二人に歩み寄り、優しくハグを交わした。
最初から、彼女はこうなることを察していたのだ。「プロポーズは、ずっとアツシ様を支えてきたお姉様たちを先に」と、彼女なりの気遣いで、俺たちを異世界へと送り出してくれていたのだろう。
香織と沙織は、涙ぐみながらシャーロットの背中を押し、俺の正面へと立たせた。
(さて……)
俺は心の中で大きく深呼吸をした。
アトキンソン子爵が目を輝かせて見守り、さらに香織と沙織が腕を組んで(しかも感動で泣き腫らした目で)注視しているという、男としてこれ以上ないほどハードルの高い、そして絶対に失敗の許されないプレッシャー空間。
俺は意を決して、シャーロットの前に片膝をついた。
「シャーロット」
もう、子供扱いするための「ちゃん」はつけない。一人の女性として、彼女の名を呼んだ。
「この地球でも、異世界でも、俺はいつでもどこでも必ず君を守る。……これから俺……いや、俺達みんなで一緒に歩いてほしいんだ。シャーロット。どうか、俺のそばに立ってくれ」
三つ目の、最後の指輪の箱を開ける。
シャーロットの瞳から、ポロリと一筋の綺麗な涙がこぼれ落ちた。
彼女はドレスの裾を少しつまみ、完璧なカーテシー(淑女の礼)を返しながら、凛とした声で答えた。
「謹んでお受けいたしますわ。……いついつまでも、貴方様と一緒におりますので。どうか私を、守ってくださいませ」
俺が彼女の細い薬指に指輪をはめると、書斎に響き渡るような、野太い泣き声が上がった。
「おおぉぉぉっ! シャーロットぉぉぉっ!!」
「子爵様……うぅっ、本当によかったですねぇぇ……っ」
愛娘のプロポーズを見届けた子爵が顔をくしゃくしゃにして大号泣し、それに釣られた香織が、本日三度目の号泣で子爵と一緒に泣き崩れる。
「ちょっとお母さん、子爵様! 泣きすぎよ、もう。ほら、ハンカチ!」
なんとなく感動の波に乗り遅れた沙織が、呆れながらも優しい笑顔で、大泣きする二人の大人たちの面倒を見ている。
五年の歳月と、二つの世界を股にかけた俺たちのドタバタ劇。
チートをもらって無双するはずが、気づけばこんなにも愛すべき、強くて美しい女性たちに囲まれ、尻に敷かれる毎日だ。
でも、俺はそんな騒がしい日常が、どうしようもなく大好きだった。
「……うん。やっぱり、平和が一番だな」
俺はシャーロットの手を握りしめ、カオスで温かい家族の光景を見つめながら、心からの笑顔で小さく呟くのだった。




