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『ただの収納スキルですが、神様から「解釈」の変更してもらって現代に戻ったら、人生楽勝でした――』  作者: だい


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第68話:地球(ここ)で生きる彼女たち

都内にある大学。その一角にある研究室で、星野佳奈はデスクの上に山積みになった資料と格闘していた。

 使い込まれたマグカップから漂うブラックコーヒーの香りと、規則的なキーボードのタイピング音だけが静かな部屋に響く。佳奈はふと手を止め、パソコンの画面に表示された論文の最終データを見つめながら、心地よい疲労感と共に大きく伸びをした。


 画面の共同著者欄には、佳奈の名前と並んで『沙織』の名前がある。

 二人の共同プロジェクトとして始まったこの研究は、今や学会でも一目置かれるほどの成果を上げつつあった。死んだ夫・淳一の『星野』という苗字を残したまま、義両親の温かいサポートを受けながら息子を育て、大好きな研究に没頭できる日々。

 今の佳奈の毎日は、女性として、母親として、そして研究者として、信じられないほど充実している。


(淳志、沙織ちゃん……元気にしてるかな)


 窓の外の青空を見上げ、佳奈はふと、遠い空の下で規格外の仕事をしているであろう幼馴染たちの顔を思い浮かべた。

 彼らから持ち込まれた謎だらけの素材や、国家規模の極秘プロジェクト。詳しいことは何も知らないが、きっと今もどこか辺鄙な海外の奥地で、泥だらけになってとんでもない事業を進めているのだろう。

 彼らと過ごし、学生時代をやり直すようなデートをして、すっかり埃を被っていた『女としての自分』を取り戻させてもらったあの時間は、佳奈の人生を鮮やかに塗り替えてくれた宝物だ。


 でも、だからといって、彼らの道にどこまでもついていく気はなかった。

 佳奈には、最優先で守るべき息子がいて、優しくしてくれる義両親がいて、そしてようやく軌道に乗ったこの研究室がある。


『ここで行きたい道が分かれたのね。お互い頑張りましょうね』


 そう言って見送った日に、嘘は一つもない。

 決して縁が切れたわけではないのだ。彼らがまた地球での仕事を終えてふらりと帰ってくれば、普通に連絡を取り合い、三人で美味しいものでも食べに行くだろう。かつてのような甘い関係から、気の置けない大人の戦友へと形を変えただけのことだ。


「あ、あの……星野先生。今、少しお時間よろしいでしょうか」


 ひかえめなノックの後、少しだけ開いたドアの隙間から顔を出したのは、同じ学部の講師である森だった。

 年齢は四十歳で独身。頭頂部は少し寂しくなってきており、ワイシャツの下にはぽっこりとしたメタボ気味のお腹が自己主張している。いつもオドオドしていて、お世辞にもスマートとは言えない男性だ。


「あ、森さん。どうしたんですか?」

「えと、先日のデータ解析の件で、少しご相談がありまして……あ、お忙しいならまた後で出直しますっ」

「大丈夫ですよ、ちょうど一段落したところなので。入ってください」


 佳奈が微笑むと、森はホッとしたように息を吐き、緊張でガチガチになりながら分厚いファイルの束を広げた。

 額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、森はたどたどしい口調でデータの説明を始める。スマートな会話なんて一つもない。だが、佳奈は知っている。彼が誰よりも真摯に数字と向き合い、学生たちのために毎晩遅くまで泥臭く研究室に残っている、不器用で誠実な男だということを。

 彼が指差すグラフの細かい数値のズレを見つめながら、佳奈の胸の奥がクスッと温かくなる。最近、佳奈はこの冴えないけれどひたむきな研究バカのことが、どうにも放っておけず、少しだけ「気になって」いた。


(よしっ)


 佳奈は心の中で小さくガッツポーズをすると、説明を終えてそそくさと退室しようとする森の背中に、明るく弾むような声を投げかけた。


「森さーん。私、今日このあと暇なんですけど。ゴハン奢ってくださいよー」

「えっ!? ぼ、僕でよければ……じゃなくて、もちろんです! 行きましょう! な、何か美味しいものでも……!」


 突然の誘いにパニックになり、ファイルを取り落としそうになりながら嬉しそうに頷く森を見て、佳奈は声を上げて笑った。

 私の人生、まだまだこれから楽しくなりそう。

 佳奈は宝物の記憶を胸の奥にしまい、新しい恋の予感へと、軽やかに足を踏み出した。



   ***



「……ですから、アジを三枚に下ろす時は、骨に沿って包丁を滑らせる感覚が大事でして。あ、すみません! お見合いの席で生魚を捌く話なんて、マリアさんは退屈ですよね……」


 都内の高級ホテルのラウンジ。

 静かに流れるピアノの生演奏と、微かな紅茶の香りに包まれながら、マリアは目の前で慌てて頭を下げる男性を見て、ふふっ、と楽しげに笑い声をこぼした。


「そんなことないですよ。ご自分で釣ったお魚を綺麗に捌けるなんて、すごく素敵だと思います。私、食べるの専門なので羨ましいです」

「ほ、本当ですか! 良かった……私、こういう席に不慣れなもので、気の利いた話題も出せずに申し訳なくて」


 向かいの席に座る男性は、少し困ったような、それでいてひどく誠実そうな笑顔を見せた。

 両親からの勧めで半ば強引にセッティングされたお見合い相手。真面目な公務員だと聞いていたため、最初は適当に話を合わせて断るつもりでいた。だが、実際に会ってみると、エリート特有の傲慢さや女性を値踏みするような視線は一切なく、ただ純粋に目の前のマリアと向き合おうとする不器用な好青年だった。


 綺麗にセットされた髪と、少し明るめの色のリップ。

 紅茶のカップを傾けながら、マリアはふと、かつて自分を変えてくれた男の顔を思い出す。

 仕事ができて、どこか掴みどころがなくて、ちょっと危険な匂いのするエリートだった元課長――淳志。出張先で彼に仕事の悩みを聞いてもらい、そのままの勢いで心を預け、自分でも驚くほど大胆になれたあの夜。


『課長……ううん、淳志先輩。たまにはまた、デートしてくださいね?』


 そう言って、笑顔で手を振れた日から、マリアの世界は驚くほど明るく、自由になった。

 淳志への気持ちは、決して重苦しい恋愛感情なんかじゃない。ずっと地味な服を着て、仕事のコンプレックスに縛られていた自分の殻を派手に叩き割ってくれたことへの「感謝」であり、憧れだ。

 彼のおかげで、マリアはようやく『遅れてきた青春』のスタートラインに立つことができた。淳志が仕事から帰ってきたら、もちろんまた飲みに連れて行ってほしいし、先輩として色んな話を聞かせてほしい。

 でも、それはそれとして。私は私で、地に足のついた普通の恋も楽しみたい。


「あの、マリアさん。もしよろしければ……今度、水族館の企画展に行きませんか? プロフィールに、休日は美術館などに行かれると書いてあったので……」

「水族館、いいですね! ぜひ行きましょう」


 マリアがパッと明るい花が咲いたような笑顔を向けると、男性はパァッと顔を輝かせた。

 結婚を前提にした堅苦しいお付き合いなんて、まだ考えられない。でも、趣味の合う気のいい男友達として、まずは一緒に色んなところへ遊びに行ってみたい。

 前向きなエネルギーに満ち溢れた今のマリアは、誰の目から見ても魅力的な、青春を謳歌する大人の女性だった。

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