第61話:消えた諜報員たちの異世界留学
ロンドン東部、テムズ川沿いに広がるうらぶれた倉庫街。
深夜の冷たい雨が、人気のないアスファルトを黒く濡らしていた。
暗闇に同化するように停められた無地の中型バンの後部座席で、CIAの工作員・ジャックは、暗視スコープ越しに前方の一つの倉庫を食い入るように監視していた。
隣では相棒の男が、ノートパソコンの画面に流れる膨大なデータ列と睨み合っている。
「……まただ。トラックが三台、あの倉庫に入った。積荷のデータは?」
「偽装してたの税関記録と照合した。積荷は大量の医療用抗生物質、外科手術用の機材一式。それに……なぜか、旧時代的な手動の農具と、遺伝子組み換えを行っていない原始的な穀物の種子だ」
「農具だと? 一体何を考えているんだ、ライオンどもは」
ジャックは忌々しげに舌打ちをした。
|NSA《アメリカ国家安全保障局》のSIGINTが、イギリス国内における「奇妙な物資の消失」に気づいたのは数ヶ月前のことだ。
近代兵器やハイテク機器ならまだ分かる。だが、消えているのは大量の食糧、医薬品、そして大規模な農地開拓のための資材ばかり。それらが、イギリスの政財界に強大な影響力を持つ『アトキンソン子爵』の息がかかったいくつもの幽霊会社を経由し、最終的にこのロンドンの倉庫街へと集められている。
背後で糸を引いているのは、MI6だ。同盟国であるはずのイギリスが、アメリカに隠れて何らかの巨大なプロジェクト――国家規模の『未開拓地の開発』を推し進めているのは明白だった。
だが、いくらヒューミントを駆使しても、物資の最終到達地点が全く掴めない。
港からも、空港からも積み出された形跡がないのだ。この倉庫に入った莫大な質量の物資は、まるで魔法のように、ロンドンのど真ん中で次元の彼方へ消え去っている。
「ジャック。妙な動きがあるぞ」
「どうした?」
「あの倉庫を監視しているのは、我々だけじゃない。北側の廃ビルから、別の熱源反応が二つ。暗号化された無線の飛び交う周波数帯から推測するに……おそらく、MI5だな」
「自国の国内治安維持局が、MI6の動きを嗅ぎ回っているだと? イギリス政府内部でも、このプロジェクトは極秘扱いというわけか」
ジャックの背筋に、プロの工作員としての冷たい悪寒が走った。
触れてはいけないものに触れている。これは単なる軍需産業の横流しなどではない。国家の根幹を揺るがすような、あまりにも巨大で深すぎる「ブラックボックス」だ。
「……撤収するぞ。これ以上踏み込むのは危険だ。データをまとめろ」
「了解」
相棒がパソコンを閉じようとした、まさにその瞬間だった。
――カツン。
バンの屋根から、微かな硬質な音が鳴った。
気配は全くなかった。雨音に紛れて近づく足音すらなかった。
「なっ……!?」
ジャックがホルスターの銃に手を伸ばすよりも早く、バンの後部扉が力任せに引き剥がされた。
飛び込んできたのは、漆黒の戦闘服に身を包んだ複数の巨漢たち。常軌を逸したスピードと、無駄のない制圧の動き。ただの警備員ではない。元SASクラスの、殺しに特化したエリートたちだ。
抵抗する間もなく、首筋に鋭い痛みが走り、ジャックの視界は急速にブラックアウトしていく。
薄れゆく意識の端で、彼が見たのは、北側の廃ビルに潜んでいたはずのMI5の局員たちが、同じように黒い布を被せられ、無力化されて引きずり出されていく姿だった。
***
バシャァッ!! と、氷のように冷たい水を頭から浴びせられ、ジャックは覚醒した。
「……っ、が……!」
コンクリートむき出しの地下室。冷酷なまでの無機質さ。
手首と足首は、床に固定された鋼鉄の椅子に、強固なワイヤー入りの結束バンドで縛り付けられていた。
隣には気を失っている相棒。そして向かい側には、同じように縛られた見知らぬ二人の白人男性がいた。彼らもたった今、水を浴びせられて目を覚ましたところだった。
「……ひどい目覚めだ。まさか、自国のロンドンでこんな手荒な歓迎を受けるとはな」
向かいの男の一人が、血の滲む唇の端を歪めて皮肉を言った。その特徴的なクイーンズ・イングリッシュのアクセントに、ジャックは鼻を鳴らす。
「あんたらか。MI5の猟犬どもが、まさか自国のMI6に噛み付いて返り討ちに遭うとは、笑えないジョークだ」
「黙れヤンキー。お前たちがチョロチョロと嗅ぎ回るから、無駄に警戒レベルが上がったんだろうが」
四人の工作員たちは、互いに軽口を叩きながらも、視線だけは鋭く部屋の構造を探っていた。
監視カメラの位置、ドアの厚さと蝶番の構造、結束バンドの耐久性、看守の足音の数。
だが、結果は絶望的だった。この部屋は完全な「処分《殺し》」のための設えだ。防音は完璧であり、抜け出す隙など一ミリも存在しない。
現代の諜報戦において、同盟国の工作員や自国の諜報員を「殺害」することは、最大のタブーである。
発覚すれば深刻な外交問題や、組織間の血で血を洗う内部抗争に発展しかねない。普通ならば、非公式なルートで尋問を受け、外交官追放などの形で穏便に処理されるのがセオリーだ。
だが、ここは普通ではない。彼らを捕らえたのは、国家機関でありながら国家の法を超越した力を持つアトキンソン家の私兵部隊だ。
彼らは、知ってはならない国家のタブーの、ブラックボックスに触れてしまったのだ。
「……消される、か」
MI5の男が、諦めに似た声で呟いた。
その時だった。
ギギギギギ……と、重厚な鉄の扉が、低い摩擦音を立てて開いた。
姿を現したのは、三人の人物だった。
先頭を歩くのは、この館の主であり、英国の情報部の裏を握り、政界もを押さえている怪物、アトキンソン子爵。
細身でありながら、獲物を射抜くような猛禽類の眼光に、プロの工作員であるジャックたちでさえ思わず息を呑んだ。
だが、彼らをさらに驚愕させたのは、子爵の後ろに控える二人の「東洋人」だった。
一人は、この陰惨な地下室には不釣り合いなほど極上の美貌と、冷徹な知性を漂わせる日本人女性。
そしてもう一人。スーツを着て気負いもせず歩く日本人青年。
(……バカな。なぜ、あの男がここにいる!?)
ジャックの心臓が早鐘を打った。向かいのMI5の男たちも、信じられないものを見るように顔色を変えている。
一部の諜報機関のトップと、最上位の貴族だけが知る「裏の伝説」。
一年ほど前、アトキンソン子爵の令嬢が過激派テロ組織に拉致された事件。イギリス政府すら手出しできなかった状況下で、単騎でテロリストの拠点を壊滅させ、令嬢を無傷で奪還した正体不明の「ゴースト」。
その多大なる功績により、英国女王陛下直々に『男爵』の称号を授けられたという、歩く特異点。
――『コバヤシ男爵』。
その男が、なぜこの極秘の黒幕の側に立っている? 横の美女は誰だ?
様々な疑問と混乱が渦巻く中、アトキンソン子爵が冷酷な声で沈黙を破った。
「よくぞ我が家の地下へお越しいただいた、諸君。あいにくと、ティータイムの用意はしていないがね」
子爵はステッキをつき、四人のエリートたちをゴミでも見るような目で見下ろした。
「お前たちは、我が国の……いや、人類にとっての最大の秘密に近づきすぎた。本来ならば、今夜のうちにドラム缶にコンクリート詰めにされ、冷たいテムズ川の底で魚の餌になっているところだ。友好国のアメリカのCIAだろうが、身内のMI5だろうが関係ない。それほど重い扉を開けたのだよ、お前たちは」
ジャックは奥歯を強く噛み締めた。
やはり、処分は決定している。拘束を解く隙などない。目の前にいるのは老いた子爵と、細身の日本人二人だけだが、あの伝説の『コバヤシ男爵』が丸腰のわけがない。飛びかかれば一瞬で制圧され、今度こそ命を刈り取られるだろう。
死の恐怖が、地下室の冷気と共に四人の工作員の足元から這い上がってくる。ジャックは額に冷や汗を浮かべ、死を覚悟して目を閉じた。
「……だが」
子爵はふと、その凶悪な笑みを消し、背後に立つアツシへと視線を向けた。
「今の時代、友好国の諜報員を始末するのは色々と後始末が面倒でな。私は彼らの処遇に頭を悩ませていたのだ。そこで、我がビジネスの最強のパートナーであるコバヤシ男爵に相談したところ……実に『画期的』な提案をいただいてね」
「ええ、本当に。淳志くんのアイデアには、私も大賛成よ」
隣の美女が、妖艶に微笑みながら相槌を打つ。
そして、アツシ――コバヤシ男爵が一歩前に出た。
極限の緊張状態の中、稀代の暗殺者か特殊部隊員かと思い警戒するジャックたちをよそに、アツシは人が良さそうな、とても明るく、屈託のない笑顔を浮かべた。
「貴方達って本当に優秀ですね。我が社の物流ルート、偽装もしてたのによくあそこまで追跡できたものだと感心しました。」
まるで営業のサラリーマンのような淳志の態度に、工作員たちは完全に毒気を抜かれ、呆然と顔を見合わせた。
「しかし、これ以上嗅ぎ回られると色々と不都合がありまして。とはいえ、今の時代に殺すのも寝覚めが悪いし、我々もアメリカやイギリス政府と揉めるのも本意ではないのです」
アツシはパンッ! と軽く手を叩いた。
「だから、私共としては皆様にはしばらくの間、長期『海外留学』に行ってもらいたいなと思っておりまして」
「……は? 留学?」
ジャックが思わず素っ頓狂な声を出した。
暗殺の宣告を待っていたのに、何をごまかしているんだ? 左遷か? それともどこかの孤島にある収容所に幽閉されるのか?
混乱する四人のエリート工作員たちを見下ろし、アツシはニヤァッと、悪い顔をして高らかに告げた。
「そう。行き先は剣と魔法のファンタジー、異世界『アースガルド』!」
「…………はい?」
「おめでとうございます! 貴方達は本日から、栄えある『異世界留学組』なのです! あらかじめ申しておきますと、私の転移魔法がないと、絶対に地球には帰ってこれませんのでご了承を。向こうで、オークやゴブリン相手に諜報活動をしていただいて、意思疎通の手段でも見つけて頂けると助かりますねえ。」
極秘任務、死の恐怖、国家の陰謀。
四人が背負っていた重厚なスパイ・サスペンスのすべてが、この謎の日本人の「異世界」という突拍子もない一言によって、完膚なきまでに木端微塵に粉砕された瞬間だった。




