第58話:リリベス女王、即位
静まり返ったアーランド王国の応接室。
重厚なアンティークのテーブルを挟んで向かい合うグリモフ宰相の顔には、この世の全ての苦悩を煮詰めたような、深い絶望と疲労が刻み込まれていた。
「……なるほど。そういう事情だったのか」
俺の呟きに、グリモフ宰相は血の滲みそうなほど強く唇を噛み締め、重々しく頷いた。
彼がこれほどの破格の条件――異世界との貿易や大国エルディアとの防衛協定――を提示されてなお、苦虫を噛み潰したような顔をしていた理由。それは、現在のアーランド王国が抱える、あまりにも不毛で致命的な内情にあった。
「現在、我が国の玉座は空位なのだ。直系の王統は絶え、今は遠戚の家々が、己こそが正当な後継者だと醜い権力闘争を繰り広げている」
宰相の言葉には、隠しきれない怒りと嘆きが混じっていた。
隣国クサラ皇国からの軍事圧力が日増しに高まっているというのに、玉座を争う連中は己の権益しか見ていない。そんな状況に愛想を尽かした多数の有力貴族たちは、有能であり人望も厚いグリモフに対し、「いっそ貴方が国を簒奪し、新たな王になってくれ」と密かに迫っているのだという。
「だが、私はアーランドという国を愛している。千年の歴史を持つこの国を、私の代で終わらせるわけにはいかないのだ。私が王位を奪えば、それはただの簒奪者に過ぎない。国は確実に二つに割れ、内乱の末にクサラに飲み込まれて滅びるだろう。……かといって、今の王家とも呼べないような愚かな遠戚の誰かが玉座に就いたとしても、遅かれ早かれ国は亡ぶ」
だからこそ、俺が持ち込んだ「莫大な利益と安全保障」という極上の外交カードは、彼にとって猛毒でもあった。
もしグリモフ宰相が主導してこの協定を結べば、彼を王に推す貴族たちの声は決定的なものとなり、クーデターは避けられない。かといって、国を救うこの手柄を、争っている遠戚の連中の誰かに与えるわけにもいかなかったのだ。
進むも地獄、退くも地獄。
国を想うがゆえに身動きが取れなくなっていた老宰相の姿に、俺は深く息を吐き出した。
「……事情は痛いほど分かりました。じゃあ、女王陛下の寿命を延ばすためには、あとは俺がダンジョンを踏破して、新しいエリクサーを自力で手に入れるしかないのか」
「コバヤシ卿。……貴殿は、エリクサーについて何か勘違いをしているのではないか?」
俺がポツリと漏らした言葉に、グリモフ宰相が怪訝そうに眉をひそめた。
「え……? と言いますと?」
「エリクサーは、単に病を治したり、寿命を少しばかり延ばしたりするような、都合の良い治癒薬ではないのですよ」
宰相は、まるで恐ろしい呪いのアイテムでも語るかのように、声を一段低くした。
「我が国の過去の記録では、エリクサーを使った人間の肉体は、気力、体力、知力……その全てが『総合的に一番高かった全盛期の状態』にまで引き戻されるとあります。過去に服用した者は、殆どが二十代の姿にまで若返ったそうです」
「……はい? い、いやちょっと待ってください。では、現在高齢である我が国の女王陛下がそれを飲んだら、二十代のお姿に戻ってしまうと?」
「ええ。間違いなく」
背筋に冷たい汗が伝った。
なんだその、ファンタジーのお約束みたいなトンデモ効果は。
いや、普通の人間なら狂喜乱舞する大奇跡だろう。だが、今回ばかりは事情が違う。俺たちはただ、女王陛下が『末の王子の初めての子供』を抱き上げるまでの、ほんのわずかな時間を引き延ばしたかっただけなのだ。
もし、現代の地球で、世界で最も顔の知られた君主の一人である英国女王が、突如として二十代のピチピチの姿に若返ってしまったらどうなる?
マスコミは狂乱し、世界中の諜報機関や大富豪たちが不老不死の秘密を暴こうと英国に群がり、MI6ですら抑えきれない大パニックに陥る。隠匿生活を送るにしても、現代社会の監視網から「若き日の女王」の顔を一生隠し通すことなど不可能だ。
(……詰んだ。地球にいる限り、若返った女王に安息の地なんてない。どうする。……いや、待てよ?)
俺の脳裏に、ある途方もない、型破りなインスピレーションが閃いた。
孫さえ抱ければ、現代社会での役割は終えてもいいと陛下は仰っていた。ならば、表向きは崩御したと発表して、そのまま『異世界』に連れてきてしまえばいいのではないか?
とはいえ、一国の主として長年君臨してきた方に、異世界でただ隠居生活を送ってもらうのも、それが良いとも到底思えない。彼女が最も彼女らしくいられる場所、それはやはり――。
「……グリモフ宰相。ちょっとお聞きしたいのですが、この国における『異世界人』の扱いって、どうなっているんでしょうか?」
「異世界人の方、ですか? それは勿論、勇者や賢者、聖女として魔族と戦い、この世界に安寧をもたらした偉大な存在として、最大級の尊敬を集めておりますな。我が国の王家も、元々は賢者の血を引いているという建前になっておりましたから」
「……ほう」
ピースが、カチリと音を立ててはまった。
「グリモフ宰相。貴方はアーランドを存続させたいが、今、我こそは王家と名乗りを上げている連中では、貴族たちを抑えられないと仰っていましたね?」
「ええ……。せめて、カリスマのある直系がいてくれたら……」
「では――異世界人の賢者の末裔などではなく、『異世界の女王』その人が、新たなアーランドの女王として立つとしたら、どうでしょう?」
「なっ……!?」
グリモフ宰相が、椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。
その目は驚愕に見開かれ、信じられないものを見るように俺を凝視している。
「異世界との強力な交易ルートを持ち、大国エルディア王国との防衛協定を携えて降臨する、異世界の真なる女王。……この圧倒的な条件なら、遠戚たちも不満を持つ貴族たちも、ひれ伏すしかなくなる。国は一本にまとまるはずです」
「そ、それは……確かに、国はまとまるでしょう! しかし、一国の女王が、いくら若返ったからといって見知らぬ異世界の玉座になど……!」
「宰相。私を信用して、そのエリクサーをお預けいただきたい」
俺は立ち上がり、グリモフの目を真っ直ぐに見据えた。
「我が女王には、全てを打ち明けてご決断を仰ぎます。もし女王がこちらにはいらっしゃらないと仰ったなら、エリクサーは一滴も飲まずに必ずお返しする。お飲みになった場合は、地球での心残りを果たされた後、必ずこちらにお越しいただきます」
「……もし、女王が飲んだが来ない、と約束を違えるようなことがあれば?」
宰相の鋭い問いに、俺は口角を上げて笑い飛ばした。
「ない。あの方は、絶対にそういう方ではない。万が一、俺の主君がやむを得ない事情などで約束を違えるような事があれば、俺はどんな手を使っても、何度でもダンジョンに挑みエリクサーをお返しするし、貴方の下で死ぬまで奴隷として仕えてみせよう」
「…………」
俺の迷いのない断言に、グリモフ宰相は長く、重い沈黙に落ちた。
やがて彼は、その険しい顔に初めてふっと柔らかな笑みを浮かべ、震える手で懐から重厚な小箱を取り出した。
「卿が、己の命を懸けてそれほどの忠誠を誓う女王陛下か……。早く、お会いしてみたいものだ」
――数日後。ロンドン郊外の極秘医療施設。
厳重な警備が敷かれた女王陛下の寝所で、俺はアトキンソン子爵と共に、陛下にエリクサーの厄介な効果と、アーランド王国の窮状、そして俺が提案した「玉座のすげ替え」の全てを報告した。
「……卿は、私に最高の約束を果たしてくれましたね」
酸素マスクを外し、ベッドに身を起こした女王陛下は、かすれた声でありながらも、少しも躊躇うことなくそう仰った。
差し出されたエリクサーの小瓶を受け取ると、陛下はそれを優雅な所作で飲み干した。
直後、部屋中が眩い光に包まれた。
強烈な光の奔流に思わず目を閉じ、やがて光が収まった時。
そこに立っていたのは、死の淵を彷徨っていた老婦人ではなかった。
絵画や歴史の教科書で見たままの、美しく、生命力に溢れ、そして圧倒的な気品を纏った……二十代の頃の女王陛下だった。
「あらあら……。いまならコバヤシ卿とも、朝まで踊れそうだわ」
ご自身の艶やかな手を見つめ、茶目っ気たっぷりに微笑む、若き日の女王陛下。
俺と子爵は、ただその神々しいまでの美しさと威厳に圧倒され、深くその場に跪くことしかできなかった。
それからの日々は、まさに歴史の裏側を全力で駆け抜けるような激動だった。
若返りの事実はごく一部の身内だけに秘匿され、若き女王陛下は厳重な警護の中、無事に誕生した『末の王子の初めての子供』を、その力強い腕でしっかりと抱きしめた。
その慈愛に満ちた涙を見た時、俺はこのトンデモない計画を実行して本当に良かったと心から安堵した。
そして対外的には、「英国女王、崩御」のニュースが世界中を駆け巡った。
全世界が悲しみに暮れ、数多の国賓が参列する中で、世紀の国葬が厳粛に執り行われたのである。
――その頃。日本国、北海道。
登別の山奥にある、最高級の秘境温泉宿の特別室にて。
「あら、私の遺影、もっと良い笑顔の写真があったのに。少し硬すぎると思わない?」
「ふふっ、陛下。報道機関も厳粛な雰囲気を出したかったのでしょう。……さて、次は異世界での『大和商事アーランド支部』の立ち上げと、我が社の関税免除の件ですが」
湯上がりの浴衣姿で、キンキンに冷えたサッポロビールを煽りながら、テレビに映る「自分の国葬」の中継を見て笑っているのは、若返った女王陛下――リリベス様だ。
その隣では、俺の相棒である香織が、一国の元首を相手に一歩も引くことなく、不敬なほど楽しそうに分厚い契約書の束を広げている。
自分の葬式をアテにして酒を飲むという、とんでもなくシュールな光景に、俺は一人で胃薬を水で流し込んだ。
「さあ、コバヤシ卿。そろそろ行きましょうか」
不意に、リリベス様がビールのグラスを置き、スッと立ち上がった。
浴衣姿でありながら、その瞬間、部屋の空気がピンと張り詰める。
「新しい『私の国』が、私を待っているわ」
アーランド王国、王城。
大理石の柱が並ぶ広大な謁見の間は、殺伐とした空気に支配されていた。
玉座の前に陣取り、どちらが王に相応しいかと声を荒げて不毛な罵り合いを続ける遠戚の当主たち。そして、壁際に並び、その様を冷ややかな、あるいは絶望を含んだ目で見つめる貴族たち。
国が滅びようとしているその瀬戸際に、重厚な謁見の間の大扉が、ギィィィッと重い音を立てて開かれた。
静まり返る広間。
コツン、コツンと、静かな靴音が響く。
先頭を歩くのは、アーランドのグリモフ宰相。その後ろに、男爵の正装に身を包んだ俺と、香織。
そして――三人を従えるように中央を歩くのは、純白の豪奢なドレスを纏い、全身から息を呑むほどの圧倒的な威厳を放つ、一人の女性だった。
「何奴だ!」「衛兵! その者たちを捕らえろ!」
事態が飲み込めず、玉座を争っていた遠戚たちが大声で罵倒し、騒ぎ立てようとしたその時。
「――静まりなさい」
ただ一言。
澄み切った鈴を転がすような、しかし雷鳴のように腹の底にまで響き渡るその声に、謁見の間にいた全員の動きが、文字通り完全に凍りついた。
衛兵すら動けない異常な重圧の中、彼女はゆったりと、誰に憚ることもなく空位の玉座へと歩みを進め、静かに腰を下ろした。
そして、射抜くような眼差しで、眼下に広がる一同を見渡した。
「聞きなさい。我が名はリリベス。……嘆きの時は、終わりです」
二十代の若々しい姿からは到底想像もつかない、幾星霜もの時間を一国と共に歩み、血を流し、決断を下し続けてきた者だけが持つ、絶対的な『王』の覇気。
「王なき空白の時間を終わらせるため、私は異なる世界から参りました。これからは、私が皆さんの盾となり、道標となりましょう。この国の未来に対する全責任は、この私が負います。……異論のある者は、前へ」
完全な静寂。
誰一人として、息すら満足にできないような重厚な空気が広間を支配した。
やがて、その重圧に耐えかねたように、一人の老貴族が震える足で歩み出て、絞り出すような声で問いかけた。
「……貴女は、異世界人として……我々アーランドを、外から支配しに来たというのか?」
その問いに対する、リリベス様の答えは、慈愛に満ちた、だが鋼のように揺るぎないものだった。
「いいえ。私は女王として、アーランドと添い遂げるために来たのです」
玉座の肘掛けに手を置き、彼女は誇り高く胸を張った。
「この玉座に座った時点で、私はもう異世界人ではありません。アーランドの女王です。もし、かつて私がいた世界から、この国に対して理不尽な要求が突きつけられたならば……私はアーランドの女王として、断固としてかつての故郷に立ち向かいましょう」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
質問を投げかけた老貴族は、まるで魂を抜かれたようにその場に崩れ落ち、深く片膝をついた。
「……この身のすべて。陛下の御心のままに」
それを合図に、堰を切ったように、一人、また一人と、広間にいた貴族たちが次々と跪いていく。
最後まで見苦しく喚いていた遠戚たちも、周囲の全ての人間が平伏した光景と、玉座から見下ろす絶対者の瞳に射すくめられ、ついに観念したように膝をつき、頭を垂れた。
謁見の間を埋め尽くす、臣従の波。
俺はその光景を、ただ全身を震わせながら見つめていた。
俺はとんでもない人を、この異世界の玉座に据えてしまったのかもしれない。
だが、その恐ろしさよりも遥かに強く、俺の胸を満たしていたのは、歴史の転換点に立ち会ったという圧倒的な感動と、真の王に対する深い敬意だった。
アーランド王国の新たな太陽。
リリベス女王が、ここに誕生した瞬間であった。




