第56話:英国の切実な願いと、香織の起業宣言
いつもの日常に戻ったはずだった。
しかし、異世界での傷心旅行から帰還して数日後。俺のスマホに、イギリスにいるシャーロットちゃんから国際電話がかかってきた。
「アツシ様……お婆様の、体調が……」
電話口の彼女の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
彼女の言う「お婆様」とは、他でもない英国の象徴――女王陛下のことである。
女王の体調不良はすでに世界中のニュースで報道され、株価や経済にも影響を与え始めている。ただのサラリーマンである俺が背負うには、あまりにもスケールがデカすぎる話題だ。俺は気の利いた慰めの言葉もかけられず、ただ彼女の話を聞くことしかできなかった。
だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
数時間後、今度はシャーロットちゃんの父親であり、英国の暗部にも通じているアトキンソン子爵から直接、極秘の通信が入ったのだ。
『単刀直入に申し上げよう、アツシ殿。我々英国の情報部は、あなたが「何らかの超常的な力」を隠し持っている可能性が極めて高いと見ている』
心臓が跳ね上がった。
ついにバレたか、暗殺されるのか、と冷や汗を流す俺に対し、子爵は重々しい、しかしどこか哀願するような声で続けた。
『だが安心してほしい。今回、私は国家の要人としてではなく、一人の家族としてあなたに頭を下げている。……義母である女王を、どうか助けてはいただけないだろうか』
聞けば、女王は国に生涯を捧げ、私利私欲なく働き続けてきたという。
そんな彼女の最期の願いは、あと一ヶ月後に出産を控えている、末の王子の初めての子供をその腕に抱くこと。しかし、現在の病状ではそこまで命が保たないだろうと、医師から宣告されたらしい。
『藁にもすがる思いだ。あなたのその力で、奇跡を起こせないだろうか』
誇り高き英国貴族が、なりふり構わず頭を下げている。
俺は子爵に少し時間をもらい、急いで香織のマンションへと向かった。こういう自分一人で抱えきれない問題は、一番頼りになる相棒に相談するに限る。
「……なるほど。状況は理解したわ」
俺の話を静かに聞いていた香織は、コーヒーカップを置き、ふうっと息を吐いた。
「淳志くん。一国の、それも英国のトップの命を『未知の力』で救うということは、あなたが世界中の諜報機関からモルモットとして狙われることを意味するわ。分かるわね?」
「う……やっぱりそうだよな。でも、シャーロットちゃんや子爵の頼みを無下には……」
「ええ。だからこそ、最強の防波堤が必要なのよ」
香織の瞳に、ギラリと猛禽類のようなビジネスの光が宿った。
「この際、英国と異世界の間で、私たちが仲介と運搬を請け負う『国家ぐるみの裏貿易』のスキームを構築するわ。英国には、見返りとして私たちを全力で保護する義務を負わせるの。そのために――淳志くん、私たち、大和商事を退社して独立起業するわよ!」
「ナ、ナンダッテー?!!」
あまりの飛躍に、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
お婆ちゃんを助けたいという話が、なぜいきなり俺と香織の脱サラ&国家規模の裏貿易会社設立に繋がるんだ!?
「表向きは新進気鋭のベンチャー企業。裏ではMI6をバックにつけた異世界貿易の独占企業。完璧じゃない! さあ、善は急げよ。まずは子爵に直接お会いして、状況を確認してきなさい!」
香織の圧倒的な行動力に背中を蹴り飛ばされるようにして、俺は『転移』を使い、アトキンソン子爵とあって詳しい事情を聴くことが出来た。今回の件は女王にも話しているらしい。
その後に子爵の手引きでロンドンの極秘施設へと飛んだ。
そこで俺が目にしたのは、厳重な医療機器に囲まれたベッドに横たわる、小柄で痩せ細った一人の老婦人だった。
だが、その弱り切った体から放たれる気高さと、周囲の人々に向ける慈愛に満ちた眼差しは、まさしく一国を背負い続けてきた「女王」の生き様そのものだった。
子爵が静かに人払いをし、部屋には俺と女王陛下だけが残された。
陛下はゆっくりと俺の方へ顔を向け、微かに、しかし温かい微笑みを浮かべた。
「……遠いところから、よく来てくれましたね。子爵から、あなたの不思議な力については聞いています」
静かな、だが芯のある声だった。俺は緊張で強張る体をどうにか抑え、陛下の言葉に耳を傾けた。
「出来れば、あの子の子供は抱きたかったわ……」
ぽつりとこぼれたその言葉には、一人の祖母としての切実な想いが滲んでいた。だが、陛下はすぐにふっと表情を和らげ、誇り高く微笑んだ。
「でも、私は国と結婚したの。だから私の孫は、英国中の子供達だしね」
(……こんなの、見せられたらさ)
末の王子の子供を抱きたい。そのささやかな願いすら谛め、最後まで「国」を愛し続けるこの人がここで散っていくのは、あまりにも悲しすぎる。
俺はタラシで流されやすいダメ人間かもしれないが、こういう純粋で気高い想いには滅法弱いのだ。
気がつけば、俺はベッドの傍らに進み出て、深く片膝をついていた。
自然と頭が下がる。騎士が主君に忠誠を誓うように、俺は真っ直ぐに女王の瞳を見つめた。
「陛下、どうか私にただお命じください。『私を生かしなさい』と。そう命じていただければ、私は必ず叶えて見せましょう」
俺の不遜ともとれる言葉に、陛下は目を丸くした後、「まあ」と楽しげに声を立てて笑った。
そして、まるで悪戯を企む少女のような、しかし絶対者の威厳を込めた瞳で俺を見下ろした。
「男爵、汝に命ずる。三か月でよいのです。その間だけ、余に時を願います」
この瞬間、ただの日本のサラリーマンは、大英帝国女王陛下の勅命を帯びた密使となった。
「御意」
俺は深く頭を垂れ、静かに立ち上がった。
目指すは異世界。
病気や老化を治せる可能性があるポーションかエリクサー。
それを手に入れるため、俺は香織の野望と英国の命運を背負い、再び魔法と魔物の世界へと足を踏み入れた。




