第54話:甘酸っぱい記憶と、マーライオンの呪いと、なんちゅうもんを見せてくれたんやという幻覚
夢の国――舞浜にある巨大テーマパークのテラス席で、淳志は一人、ぼんやりとパレードの喧騒を遠くに聞いていた。
「淳志サン! チュロスと飲み物、買ってきますね!」と、ウサギの耳のついたカチューシャを揺らして駆けていったミクを待つ間、淳志はふと、斜め向かいの相席に座る女性に目を留めた。
年齢は五十代の後半だろうか。
落ち着いた色合いのサマードレスを上品に着こなし、年齢を重ねたからこその優雅な色気を漂わせている女性だった。
なんとなく視線が絡み、お互いに、ハッと息を呑んだ。
「……淳志くん?」
「……志野、さん?」
周囲の喧騒が、ふっと遠のいた。
淳志の脳裏に、すっかり鍵をかけて封印していたはずの『大学時代の忌まわしき記憶』と、それを救ってくれた『ひと夏の甘酸っぱい記憶』が、鮮やかに蘇ってくる。
――そもそも、すべての元凶は大学の新歓コンパだった。
田舎から上京し、綺麗で大人びた先輩とイイ雰囲気になり、そのままホテルへ。
いよいよ大人の階段を登るのだと、童貞だった淳志は心臓が破裂するほど高鳴っていた。
だが、ベッドの上で先輩が淳志の上に跨り、まさに『その時』を迎えた絶頂の瞬間。
泥酔していた先輩は、突如として『マーライオン』と化した。
顔面から全身にかけて、ダイレクトに降り注いだ温かくも酸っぱい吐瀉物の洗礼。
その物理的・精神的なダメージは、純情な田舎少年の心を完膚なきまでに破壊した。
「女性が怖い」「上に乗られると吐かれる気がする」という深刻な女性恐怖症(と行為へのトラウマ)を植え付けられた淳志は、現実逃避の防衛本能から『あんな悲惨な初体験は存在しなかった。俺の初めては佳奈だ』という身勝手極まりない記憶改ざんを引き起こすに至ったのだ。
そんな絶望のどん底にいた、大学一年の夏。
同級生たちが海やプールで青春を謳歌する中、女性のいる輪に入れなくなった淳志は、逃げるように長野県・軽井沢での泊まり込みのアルバイトへ向かった。
別荘地の管理人として、ひたすら草むしりや清掃に明け暮れる、孤独な避暑地での日々。
そこで出会ったのが、別荘地の遊歩道で足をくじいて座り込んでいた、当時四十歳くらいの志野だった。
淳志が彼女を背負って別荘まで送り届けたことをきっかけに、二人の交流が始まった。
互いの素性も、過去も深くは探らない。ただ、緑に囲まれた静かな別荘で、冷たい麦茶を飲みながら他愛のない話をするだけの、心地よい関係。
そんなある日の午後、淳志が志野の別荘の庭で草むしりをしていると、激しい夕立に見舞われた。
瞬く間に空は暗くなり、轟音とともに近くに落雷が落ち、別荘は停電した。
「きゃっ……!」
暗闇と雷の音に怯え、震える志野の肩を、淳志は思わず抱き寄せた。
薄暗い部屋の中、密着する二人の体温。甘い香りが鼻腔をくすぐり、自然と顔が近づく。
しかし、いざ唇が触れ合いそうになった瞬間、淳志の脳裏に『あの夜のマーライオン』がフラッシュバックした。
「……ごめんなさい、志野さん」
淳志はガタガタと震えながら、自ら身を引いてしまった。
「俺……女の人が、怖いんです」
情けない涙を流しながら、淳志はコンパでの凄惨なトラウマを、ぽつりぽつりと打ち明けた。軽蔑される覚悟だった。
だが、志野はクスリと優しく微笑むと、淳志の震える手をそっと両手で包み込んだ。
『……大丈夫よ。私が、教えてあげる』
大人の余裕と、すべてを包み込むような深い母性。
その夜、キャンドルの揺らめく灯りの中、二人のシルエットは静かに重なり合った。
志野の極上の手ほどきは、淳志にこびりついていた恐怖を甘く優しく溶かし、男としての自信と悦びを、時間をかけて上書きしてくれたのだ。
あっという間に過ぎ去った、夢のようなひと夏。
淳志が東京に戻る日が近づいたある朝、志野の別荘にはすでにもう誰もおらず、テーブルの上に一枚の短いメモだけが残されていた。
『いい男になりなさい』
その言葉を胸に、淳志は少年から青年へと成長し、そして現在、並の女性では太刀打ちできないほどの『最強のタラシ』へと変貌を遂げたのである。
「……驚いた。ちっとも変わってないですね、志野さん」
十六年ぶりの再会。淳志の胸の奥が、甘酸っぱく、そして切なく締め付けられた。
「ふふっ。淳志くんも、すっかり大人の顔になっちゃって」
志野は当時と変わらない、妖艶で穏やかな笑みを浮かべた。
「少しは、いい男になった?」
「いやぁ……師匠に比べたら、俺なんてまだまだですよ」
淳志が照れ隠しに笑ったその時、両手にチュロスとドリンクを持ったミクが小走りで戻ってきた。
「淳志サン! お待たせしましたー! あっ、そちらの方は……?」
「あら。とっても可愛らしいお嬢ちゃんね」
「えへへっ、ありがとうございます!」
志野に褒められ、相変わらずチョロインぶりを発揮して満面の笑みを浮かべるミク。
「淳志くん、お付き合いされているの?」
「ハイッ!」
「いや、ミクちゃんとは年が離れすぎてるから、そういうんじゃ……」
食い気味に返事をするミクを、淳志が慌てて嗜める。
そんな二人のやり取りを見て、志野はコロコロと楽しそうに笑った。
「ふふっ、本当に……淳志くんはまだまだねぇ」
その言葉の真意を測りかねて淳志が首を傾げた、その時だった。
「志野、お待たせ。ホットドッグ買ってきたよ」
テーブルに近づいてきたのは、カジュアルな服装に身を包んだ、ミクと同じくらいの年代――二十代前半とおぼしき、爽やかなイケメンの青年だった。
「あ、連れが来たわ。それじゃあ淳志くん、またどこかでね」
志野は立ち上がると、ごく自然な動作で、その若い青年の腕に自分の腕を絡ませた。
「こちら、私の今の彼氏」
ニコリと、圧倒的な勝者の微笑みを残して。
志野は、若いツバメを連れて優雅に人混みの中へと消えていった。
「…………」
「…………」
唖然として立ち尽くす淳志とミク。
香織のような年上の美魔女を虜にし、ミクのような若い娘からも好意を寄せられ、タラシとして『俺もそこそこイケるようになった』と自負していた淳志のちっぽけなプライドは、たった今、はるか雲の上からの一撃で木っ端微塵に粉砕された。
「……淳志サン? どうしたんですか、チュロス食べないんです……ヒッ!?」
ミクが隣を覗き込むと、そこには異様な光景が広がっていた。
淳志は、手にしたチュロスの端を口に咥えたまま、一切の感情を失った虚無の表情で、ただただ滂沱の涙を流し続けていたのである。
「なんちゅうもんを見せてくれたんや……なんちゅうもんを……っ」
「あ、淳志サン!? 泣きながらチュロス咥えて、どうしたんですかっ!?」
夢の国に似つかわしくない、男の悲哀と圧倒的な敗北感。
あまりの凄まじい絶望のオーラに当てられたのか。パニックになったミクの目には、淳志が口に咥えている甘いシナモン味のチュロスが、なぜか『四万十川の香りのアユの天ぷら』に見えて仕方がないのだった。
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