第49話:百獣の女王サラと、砂場の女王桜子ちゃん
ある休日の午後。淳志のマンションのリビングは、いつになく賑やかな空気に包まれていた。
遊びに来ていたのは、実の兄である広志と、妻の春香、そして五歳になる愛娘の桜子だ。
「ネコさん、おいでー」
『気安く触んじゃねえよガキが! アタシは百獣の王、サラ様だぞ!』
キャットタワーの最上段に陣取る愛猫のサラを見上げ、桜子が目を輝かせて手を伸ばしている。サラは「シャーッ」と毛を逆立てて威嚇しているが、その実、爪を立てることもなく、ただ高いところから面倒くさそうに見下ろしているだけだった。
「ほら桜子、サラちゃんが嫌がってるだろ。無理に触っちゃダメだぞ」
「むー……ネコさん、触りたいのに」
広志が苦笑しながら娘をたしなめていた、その時だった。
「……あ、痛っ……」
「春香? どうした、顔色が悪いぞ」
ソファに座っていた春香が、突然お腹を押さえて顔をしかめた。
広志は慌てて妻の背中をさすり、すぐさま立ち上がった。
「淳志、悪い! 念のため、近くの救急外来に連れて行く。少しの間、桜子を見ててくれないか?」
「ああ、もちろん。慌てないで、気をつけてな」
広志は春香を支えながら、足早にマンションを出て行った。
取り残された桜子は、急にいなくなった両親を思い、不安そうに下を向いて口をキュッと結んでいる。五歳なりに泣くのを我慢しているのだ。
「桜子ちゃん、公園に行こうか。……サラ、お前も付き合え」
『あ? なんでアタシが子守りなんて……チッ、しょうがねえな』
寂しさをぐっとこらえる小さな背中を見て、淳志は気分転換に彼女を外へ連れ出すことにした。
近所の大きな公園には、休日の子供たちがたくさん集まって遊んでいた。
しかし、人見知りの桜子は、すでに出来上がっている子供たちの輪になかなか入っていけない。
人気のブランコは、少し大きな男の子たちが独占して順番を代わってくれず、桜子はモジモジと順番をまっていた。
「あー……ほら、君たち、小さい子に順番を譲ってあげて……」
「やだー! 俺たちが先に並んでたもん!」
「うっ……」
三十代の商社マンである淳志も、他人の子供のコミュニティに強く口出しすることはできず、完全に空気に成り下がっていた。
遊ぶ友達がいない桜子は、トボトボと公園の隅へと歩いていく。
そこには、地域猫たちが集まる日向ぼっこのスペースがあった。
ネコが大好きな桜子は、少しでも寂しさを紛らわせようと、一番大きくて強そうなトラ柄の猫にそっと手を伸ばした。
「ネコさん、よしよーし……」
「ニャァァアッ!!」
「痛っ……!」
容赦ない強烈な猫パンチが、桜子の小さな手を弾いた。
そのトラ柄は、この公園の地域猫を取り仕切る気の荒いボス猫だったのだ。
親の不在、ブランコに乗れない悲しさ、そしてネコからの拒絶。ついに限界を迎えた桜子の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ひぐっ、うわぁぁぁん……っ」
めそめそと泣き出した桜子。
その背後から、のっそりと巨大な毛玉が歩み出た。
『……おい、ガキ』
サラだった。
彼女は泣いている桜子を一瞥すると、短く鼻を鳴らした。
『アタシの縄張りの身内を泣かせて、タダで済むと思ってんのか? ……おいガキ、よく見とけよ』
サラは、自分よりも一回り以上大きなボス猫の前に立ち塞がった。
そして、一切の躊躇なく、雷のような速度で左右の連続猫パンチ(爪出し)をボスの顔面に叩き込んだのだ。
「ギャンッ!? シャーッ!!」
『うるせえ! ここは今日からアタシのシマだ!! ひれ伏せこの野良風情が!!』
圧倒的な体格差をものともしない、元ヤン猫の凄まじい気迫と戦闘力。
ものの十秒で、ボス猫は尻尾を巻いて「ミャーン」と情けない声を上げ、サラの前で完全なる降伏の姿勢をとった。
サラはフンッと鼻息を荒くすると、涙を拭ってポカンとしている桜子に向かって、ドンと誇らしげに胸を張った。
『見たかガキ。……ナメられたら、こうするんだよ。アタシの下で生きてるなら、誰にも引くな。胸を張れ』
言葉など通じるはずもない。
だが、桜子はサラのその気高く強い背中を見て、何かを悟ったように、コクンと力強く頷いた。
桜子は、一直線にブランコの方へと戻っていった。
そして、ずっと独占し続けている男の子たちの前に仁王立ちし、涙の跡が残る顔で、しかし一切の怯えを見せずにビシッと言い放った。
「あたしがずっと並んでたの! 順番守って!!」
その五歳児らしからぬ圧倒的な『女王の覇気』に、男の子たちは完全に気圧され、「あ、はい……」とすごすごとブランコを譲り渡した。
――一時間後。
公園の砂場には、他の男の子たちをアゴで使って巨大なお城を作らせ、その頂上で仁王立ちしている『桜子女王』が誕生していた。
そして、そのすぐそばの東屋のベンチでは、地域猫たちを地面に平伏させ、自分は高い場所から「ミャーッ(そこ、もっとエサ持ってこい)」とウニャウニャ指示を出している『サラ女王』が君臨していた。
「……なんか、二人の女王が爆誕してるんだけど」
最強のチートを持つ男、淳志。
彼は完全に存在を忘れられ、ベンチの隅で一人、ポツンと缶コーヒーを飲んで空気に徹していたのだった。
やがて、淳志のスマートフォンに広志からの連絡が入った。
「もしもし、兄ちゃん? 春香さんは……えっ! 妊娠!?」
腹痛の原因は、新しい命が宿ったことによる体調の変化だった。母子ともに健康で、全く問題ないという。
「桜子! 春香さん、赤ちゃんできたって! 桜子、お姉ちゃんになるぞ!」
「ほんと!? わああっ、あたし、お姉ちゃんになるの!!」
それを聞いた桜子は満面の笑みで飛び跳ね、サラに向かって「あたし、もっと強くなるね!」と元気に宣言した。
その後、広志が病院へ持って行く荷物を取りにマンションへ戻るというので、淳志と桜子も公園で合流し、一緒に淳志の部屋へと向かうことになった。
「淳志、急に留守番させて悪かったな」
「いや、桜子はすげえ立派なお姉ちゃんぶりだったよ」
和やかに笑い合いながら、淳志が自分のマンションのドアに手をかけた、その時。
(……あれ? 鍵が、開いてる?)
カチャリと音を立てたドアノブに、淳志の背筋がスッと凍りついた。
間違いなく、出かける前に鍵は閉めたはずだ。嫌な予感が全身を駆け巡る。
「あ、あーっ! 兄ちゃん! 荷物なら俺が取ってくるから、ここで待ってて!!」
「なんだよ水臭い、俺も入るよ」
「ダメダメ! ちょっと部屋が散らかってて――」
淳志の制止を振り切り、広志がリビングのドアをガチャッと開けた。
そこにあったのは、目を疑うような光景だった。
ソファの上には、なぜか『淳志のブカブカのYシャツ』だけを素肌に羽織った沙織がくつろいでいる。
その隣では、キャミソールとショーツという無防備すぎる姿の佳奈が、缶ビールを片手にテレビを見ている。
さらにキッチンからは、エプロン姿のミクが「淳志サーン、お帰りなさーい♡」とフライパンを持って顔を出した。
「…………」
「…………」
リビングを、重く冷たい静寂が支配した。
「あ、えっと……これはその、女子会というか、急なホームパーティで……」
滝のような冷や汗を流しながら、この世の終わりのような顔で言い訳をひねり出す淳志。
広志は、無言で額に青筋を浮かべ、弟の胸ぐらをガシッと掴んだ。
「淳志。……お前、ちょっとそこに座れ」
「……ハイ」
数分後。
リビングのフローリングには、見事な姿勢で『正座』をキメ、実の兄からガチの説教を食らっている三十五歳の男の姿があった。
「お前なぁ……! 大和商事の課長にもなって、いい大人がなんだこのだらしない生活は!! どういう関係の女性たちなんだこれは!!」
「申し訳ありません……本当に、ぐうの音も出ません……っ!!」
平謝りする弟と、烈火の如く怒る兄。
その修羅場を背景に、女性陣の反応は三者三様だった。
「やれやれ。まさかお兄さんが来るとは思わなかったわね」
沙織は肩をすくめて、淳志のYシャツの襟を直している。
「あはははは! 淳志、お兄ちゃんに怒られてんの! 広志さん覚えてます?佳奈でーす! 超ウケるんだけど!!」
佳奈は腹を抱えて、ソファーから転げ落ちんばかりに大爆笑している。
そしてミクは、キッチンカウンターに肘をつき、うっとりとした目で正座する淳志を見つめていた。
(……相変わらず、完璧な正座。お兄さんに怒られて小さくなってる淳志サンも、新鮮でステキだわ……♡)
完全にブレない、斜め上の愛情である。
そんなカオスな大人たちをよそに、部屋の隅では。
『おいガキ。よく見とけよ』
「うん」
キャットタワーから見下ろすサラが、ポンと桜子の肩に肉球を置き、呆れたように鼻を鳴らした。
『ああいうだらしない男は、絶対に選ぶなよ。お前は女王なんだから、もっとまともなオスを侍らせろ』
「うん、わかった! あたし、あんなおじちゃんみたいな人はえらばない!」
素直に頷く五歳児の、恐るべき英才教育の完了。
新しい命の誕生というおめでたいニュースの裏で、淳志の伯父の威厳は、実の兄と愛猫の手によって、木端微塵に粉砕されるのだった。




