第42話:神ならざる怪物の慟哭と、私の最後の男
異世界での惨劇から数週間。
淳志の様子は、誰の目から見ても明らかにおかしかった。
平日は夜遅くまで海外渉外課の仕事に没頭し、休日も「急な案件が入った」と書斎に籠もるか、出張に出てばかりいる。
普段なら息をするように甘い言葉を囁き、隙あらば女性陣の腰を抱き寄せるあの「タラシ」の淳志が、誰に対してもフォロー一つ入れず、ただ黙々と仕事という名の逃避行を続けていた。
「ねえ。アイツ、絶対に外で新しい女でも作ったんじゃないの?」
「……そうね。最近、目が泳いでるっていうか、心ここにあらずって感じだし」
小林家のリビングで、沙織と佳奈が腕を組みながら邪推を巡らせる。
一方、JDになったばかりのミクは「私、最近アタックしすぎちゃって、ついにウザがられちゃったのかな……」と、クッションを抱きしめて深く落ち込んでいた。
だが、事態は女性陣が想像するような生易しいものではなかった。
淳志が抱えていたのは、女性関係のトラブルなどではなく、己の『人間性』そのものに対する底知れぬ恐怖だった。
(……俺は、怪物になってしまったんじゃないか)
深夜の書斎。一人きりの空間で、淳志は両手で顔を覆った。
今までの戦闘は、結果的に相手の腕や足を奪って死に至らしめたことはあっても、そこに明確な殺意はなかった。
だが、あの王城での復讐は違った。
幸子を無惨に殺した王や騎士に対して、淳志は明確な『殺意』を持ち、自らの意思でその命を奪い、削り取った。
人を殺してしまった。
論理的には、現代日本の倫理観に照らし合わせて「絶対にやってはいけないこと」だと理解している。犯罪に遭った被害者の家族でさえ、残された自分の家族や友人、仕事への影響を考えて、どれほど憎くても復讐を踏みとどまるのだ。
だというのに。
淳志の感情の奥底には、王を苦しめながら殺したことに対する『罪悪感』が、驚くほど欠落していた。
チート能力を持ち、逃走や隠蔽が容易になったから。
ここは日本の法律が通じない異世界だから。
そんな理由で、大量の人間を殺し、あまつさえ『ザマア見ろ、死にやがれ、よしっ、苦しんでやがる』と、底知れぬ喜びすら感じてしまった自分がいる。
『……おいオッサン。いつまでウジウジしてんだよ、うっとうしい』
暗い沼に沈みかける淳志の膝の上に、ドスンと重たい毛玉が乗ってきた。
愛猫のサラだ。彼女は淳志の顔を見上げ、呆れたように鼻を鳴らした。
『アタシら動物の世界じゃ、やられたらやり返す、弱い奴は食われる、それだけだ。お前は自分の群れのメスを傷つけられたから、敵のボスを噛み殺した。極めて理にかなってるし、当たり前のことだろ?』
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、サラは淳志の手のひらに自分の頭を擦り付けた。
『オッサンが強くて残忍なオスでよかったよ。じゃないと、アタシも安心して背中を預けられないからな。……だから、そんなシケた顔すんな』
人間の複雑な倫理観など介在しない、動物としての純粋な『弱肉強食』の肯定。
もし、人語を解するこの気高き相棒が、その温かい体温で淳志の行いを「生物として正しい」と肯定してくれていなければ、淳志はとうに精神を病んで鬱になっていたかもしれない。
だが、サラに慰められてもなお、淳志の根底にある「人間の倫理から外れてしまった」という恐怖は、彼をじわじわと追い詰めていた。
そして。
淳志の態度の裏にあるものが「女の影」などという浮ついたものではないと、唯一、最初から見抜いていた女性がいた。
――中国、上海。
高層ホテルのスイートルームで、出張中の淳志が一人、窓の外の夜景を死んだような目で見下ろしていた時のことだ。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
ルームサービスでも頼んだだろうかと、淳志が重い足取りでドアを開けた瞬間。
「……こんばんは。小林くん」
そこに立っていたのは、小さなキャリーケースを引いた香織だった。
「か、香織さん!? なんで、ここに……っ!?」
淳志は心底驚愕した。
ここは中国だ。かつて香織が誘拐され、暗黒街のギャングに暴行されそうになった、彼女にとって最大のトラウマの地である。
あれ以来、中国の土を踏むことすら避けていた彼女が、護衛もつけずに単身で、自分を訪ねてきたのだ。
「中、入ってもいいかしら?」
香織は微笑み、静かに部屋へと足を踏み入れた。
淳志の身体は『健康体』のチートのおかげで肉体的な疲労は一切ない。だが、その瞳の奥に宿る暗い絶望と、精神的な疲労の色は隠しきれていなかった。
香織は、淳志が何か途方もないものを背負い込んでしまったのだと、その顔を見ただけで悟った。
だが、彼女は「何があったの」とは聞かなかった。
「……おいで」
香織はソファに座ると、自分の膝をポンポンと叩いた。
「え……」
「いいから。ほら、横になって」
促されるままに、淳志は香織の膝に頭を預けた。
ふわりと、彼女の甘く優しい香りが淳志を包み込む。香織は、淳志の頭を子供をあやすように、ゆっくりと、何度も撫でた。
「……淳志」
彼女が『小林くん』ではなく、まっすぐにその名前を呼んだ。
「世界中があなたの敵になっても、私はあなたと生きて、一緒に死んであげる。だから、もう安心しなさい」
その、あまりにも深く、絶対的な愛の言葉。
淳志の中で張り詰めていた、黒く冷たい糸が、プツンと切れた。
「あ……ぁっ……うぅ……っ!!」
淳志は香織の膝に顔を埋め、子供のように声を上げて慟哭した。
涙と嗚咽にまみれながら、淳志はすべてを打ち明けた。
チートをもらった理由。異世界でのこと。理不尽に命を奪われた幸子先生のこと。
自分が明確な殺意を持って人を殺し、そこに罪悪感を抱けなかった、怪物のような自分の本性のこと。
そして何より――。
「俺は……神様みたいなチートを持っていたのに……人をあんなに殺せる力があったのに……!! 幸子先生も、傷ついた高校生たちも、助けることができなかった……っ!!」
淳志の肩が、激しく震える。
「俺が、地球に戻って仕事なんかしないで、ずっとあっちの世界で助けていれば……皆を助けられたんじゃないかって……!! 俺のせいで、俺が調子に乗ってたせいで……っ!!」
それが、淳志を最も苦しめていた絶望の正体だった。
香織は、泣き崩れる淳志の背中を、ただ黙って、優しく撫で続けた。
そして、彼がすべてを吐き出し終えた後、静かに口を開いた。
「……バカね」
それは、呆れを含んだ、しかしこの上なく慈愛に満ちた声だった。
「あなたの能力は、神様から貰ったものかもしれないわ。でも、あなたは神様じゃないのよ? なのに、どうして自分が神様になったような、すべてを救えるような傲慢なことを言っているの?」
「……っ」
「あなたは神様じゃない。……優しくて、素敵で、頼もしくて、どうしようもないくらいスケベでタラシな、『私の最後の男』よ」
香織の指先が、淳志の涙で濡れた頬を優しく拭う。
「だからね、淳志。これからもきっと、間に合わないことがあるわ。助けられないこともある。自分の無力さに打ちひしがれて、激しく後悔することだって、いくらでもあるでしょう」
それが『人間』として生きるということなのだと、彼女は教えてくれていた。
「そんな時には、一人で抱え込まずに、いつでも慰めてもらいに私の所へ来なさい。私が全部、受け止めてあげる」
「香織、さん……」
「私は、あなたを心から愛しているわ」
トラウマの地での、聖母のような救済。
淳志は香織の温もりの中で、己がまだ『人間』であったことを思い出し、静かに、安堵の涙を流し続けた。
数日後。
日本に帰国した淳志は、憑き物が落ちたようなスッキリとした顔をしていた。
「いやぁ、ごめんごめん。出世して部下ができちゃったから、色々と仕事のトラブルで悩んでてさ。もう大丈夫だよ」
沙織や佳奈、ミクにはそう言い訳をして、なんとか誤魔化すことに成功した。
休日に集まったのは、淳志の最も愛する『大将』の焼き鳥屋の座敷だ。
備長炭の爆ぜる音、香ばしいタレの匂い、そして狭い店内に響く常連客たちの気取らない笑い声。肩を寄せ合って美味い酒を飲むこの温かさこそが、淳志が何よりも守りたかった日常の空気だった。
(……うん。やっぱり、平和が一番だな)
淳志がビールのジョッキを傾け、心の中でそう呟いた、その時だった。
「あっ! いました、課長!!」
ガラッ! と店の引き戸が勢いよく開き、そこに現れたのは。
あろうことか、海外渉外課の部下であり、淳志のおかげで遅れてきた青春を満喫し始めたばかりの『綾小路マリア』だった。
「ブフォッ!?」
淳志はビールを盛大に吹き出し、一瞬にして挙動不審な動きになった。
突然現れた見知らぬ美女の登場に、座敷にいた女性陣の『タラシ探知センサー』が一斉に作動し、場の空気が急激に冷え込む。
佳奈が、ニヤリと笑い、持っていた焼き鳥の串を皿に置き、直球で切り込んだ。
「ねえ。あなた、うちの淳志と何かした?」
ワクワク感が混じるその問いかけに、しかし、天然ミリオタのマリアは一切怯むことなく、満面の笑みでハキハキと答えた。
「はい! ドイツのフランクフルトで、課長には『夜の白兵戦』で夜通し激しく攻撃されました!!」
――ピキィン。
座敷の温度が、物理的に氷点下まで下がった音がした。
炭火の熱気すら凍りつくような沈黙。
「夜通しで攻撃とか……ヤバいヤバいお腹痛いwww」
「へえ……。仕事のトラブルで悩んでたはずの小林くんが、ずいぶんと激しい白兵戦を楽しんでいたのね……?」
沙織の瞳から完全にハイライトが消え、佳奈は声も出ないくらい笑いながらお腹を抱えていた。
香織ですら、先日の聖母のような微笑みから一転、般若のような冷たい笑みを浮かべていた。
「……淳志(小林くん)(淳志サン)?」
女性陣が、一斉に極刑の判決を下すべく振り返った。
――しかし。
そこに、あのタラシの男の姿はすでになかった。
開け放たれた店の玄関で、赤提灯の灯りに照らされた『大将』の暖簾が、夜風に吹かれてパタパタと空しく揺れているだけだった。




