第37話:ナンパ部下とタラシ課長と水の都の修羅場
海外渉外課の問題児は、マフィアかぶれの山田だけではない。
水の都・ベネチア。夕陽が運河を黄金色に染め上げるロマンチックな街並みの中、淳志は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえていた。
「ああ、ベッラ(美しい人)。この契約書にサインする前に、まずは君のその吸い込まれそうな瞳に乾杯させてくれないか? 仕事の話なんて野暮なことはやめて、今夜は愛について語り合おう」
現地のクライアントとの会食(という名の飲みニケーション)の席で、息をするように女性担当者の手を握り、甘い言葉を囁いている男。
彼の名は、フラビオ・マティス高崎。32歳。
イタリア人の母とフランス人と日本人のミックスを父にもつ彼は、日本語・フランス語・イタリア語をネイティブレベルで操る、渉外課でもトップの語学力を持つ男である。だが、そのラテンの血が騒ぐのか、TPOを一切わきまえずに女性を口説き落とそうとする生粋のナンパ男であった。
(またやってるよ、アイツ……)
呆れ果てた淳志は、ため息をつきながらワイングラスを傾けた。
本来なら上司としてすぐに止めるべきなのだが、ベネチアの開放的な空気と、美味しいイタリアワインのせいか、淳志の警戒心も少しだけ緩んでいたのだ。
「フフッ、あなたの部下さん、情熱的ね」
ふと、フラビオが口説いている女性の連れである、金髪の美しいイタリア人女性が淳志の隣に座り、楽しげに話しかけてきた。
「お恥ずかしい。うちの部下がいつもご迷惑を……」
「いいのよ、イタリアの夜は愛を楽しむためにあるんだから。……あなたは、愛について語るのは嫌い?」
妖艶な笑みを浮かべて距離を詰めてくる美女。
普通なら適当にかわして部下を回収するところだが、気持ちよく酔いが回っていた淳志は、自身の中に眠る『天然のタラシ』の業を、ここでうっかり発動させてしまったのだ。
「まさか。こんなに美しい女性を前にして、仕事の話しかできない男なんて無粋でしょう? ……君の髪、ベネチアの夕陽みたいに綺麗だ」
スラスラと、フラビオ顔負けの甘い言葉が口をついて出る。
チート能力『言語理解』による完璧な発音と、淳志持ち前の大人の余裕。現地の美女はたちまち頬を染め、とろんとした瞳で淳志の肩に寄りかかってきた。
「嬉しいわ……。ねえ、もう少し静かなところで飲み直さない?」
「いいですね。ご案内しますよ」
すっかりご機嫌になった淳志は、彼女をエスコートするためにその腰を抱き寄せようと、スッと手を伸ばした。
――その瞬間。
淳志の腕の中に、フッと誰かが滑り込んできた。
抱き寄せた腰は、隣にいたはずのグラマーなイタリア人女性のものではなく、どこか見覚えのある、華奢でしなやかなラインだった。
「あ、ゴメン」
淳志が酔った頭で反射的に謝ると、腕の中の人物が、ゆっくりと顔を上げた。
「…………ドウイタシマシテ」
絶対零度。
ベネチアの温暖な空気が一瞬にして凍りつくような、極冷の日本語のボイスだった。
「へ……?」
淳志が目を瞬かせると、そこには、夜叉のような笑みを浮かべた沙織が立っていた。
そしてその後ろでは、お腹を抱えた佳奈が「ひーっ! 傑作!! さすがタラシのクズ男!息をするように口説いてるぅ!」と涙を流して大爆笑している。
「さ、沙織!? 佳奈!? なんでここに……っ!?」
「ベネチアの地盤沈下に関する生態系学会の出張よー。香織さんから小林くんがこっちに来てるって聞いてね。……バッグに仕込んでおいたAirTagを頼りに『サプライズ』してあげようと思ったら、見事な現行犯逮捕になっちゃったわねえ」
佳奈は笑い過ぎてヒーヒーと泣いていた。
沙織の目は、全く笑っていない。
淳志は全身から滝のような冷や汗を噴き出し、一瞬にして酔いが完全に覚めた。
フラビオとイタリア人女性たちは、突然の修羅場(?)にポカンと口を開けている。
「さ、沙織ちゃん、これは違うんだ! ほんのコミュニケーションの一環というか、国際交流で……っ!」
「へえ? ベネチアの夕陽みたいに綺麗な髪、ですって? 私の髪は何に見えるのかしら? 夜の闇? それとも、あなたを地獄に引きずり込む泥沼?」
「ぎゃあああああ!!」
翌朝。
ベネチアの高級ホテルのスイートルームにて。
無尽蔵のスタミナを誇るチート能力『健康体』を持っているはずの淳志は、ベッドの上で完全に水分を失い、ミイラのように干からびて白目を剥いていた。
「あー、よく寝たわ! ベネチアの朝の空気って最高ね!」
「ほんとほんと。お肌もツヤツヤになっちゃった」
バスローブ姿の沙織と佳奈は、窓からの朝陽を浴びながら、信じられないほどピカピカに輝くような笑顔で優雅にコーヒーを飲んでいた。
「……し、死ぬ……」
「あら、小林くん起きたの? 今夜はもう一回、イタリアの夜について『深く』語り合いましょうね?」
「ごめんなさいもうしませんゆるしてください……」
どんなチートを持っていようとも、怒れる女性陣のポテンシャルには絶対に敵わない。
水の都の美しい景色の中で、淳志は己のタラシの業を深く深く反省し、ただかすれた声で泣き言を漏らすのだった。




