第36話:小林課長の憂鬱と熱砂のメキシコ
淳志が昇進し、『海外渉外課』の課長に就任してからしばらくの月日が流れていた。
彼の部署は、外部の通訳に任せられないような機密性の高い案件や、タフな海外交渉を専門に請け負うエリート集団である。
……表向きは、の話だが。
「フゥーッ……。ボス、外の気温は完全にイカれてますね。まるでテキサスの砂漠に放り出された気分だ」
「山田くん。ここはテキサスじゃなくてメキシコだし、君が着ているその無駄に分厚いマフィアみたいなレザージャケットを脱げば少しは涼しくなると思うよ」
うだるような熱波が吹き荒れる、メキシコ某所の都市。
淳志は、隣を歩く部下に向けて深いため息をついた。
彼の名前は、山田一郎。26歳。
日本のどこにでもいる、あまりにも平凡で漫画のモブのような名前。学生時代から「例題の名前かよ」「没個性だな」と散々弄られ続けてきた彼は、そのコンプレックスをこじらせた結果、「海外ならこの名前でも弄られない!」と一念発起して猛烈に語学を学んだ。
その努力と語学センスは本物で、今では英語とスペイン語をネイティブレベルで操る優秀な人材となったのだが……一つだけ、致命的な問題があった。
語学を習得する際、海外の『マフィア映画』や『ギャングスタ映画』に影響されすぎてしまったのだ。
「ボス、今日の取引相手は地元の有力カルテル……もとい、有力企業と聞いてます。ハジキ(銃)の準備はいいですか?」
「商社マンが銃なんて持ってるわけないだろ。ただの単価交渉だよ。……いいか山田くん、今日は絶対に余計なスラングを使うなよ」
「オーケー、わかってますよボス。俺のスマートな交渉術を見せてやりますよ」
山田はニヤリと笑い、サングラスを押し上げた。
淳志は胃の痛みを覚えながら、交渉相手が待つ厳ついビルの会議室へと足を踏み入れた。
相手はメキシコでも有数の地元企業の重役たちだ。
しかし、彼らの出立ちはどう見てもカタギではなく、取り巻きの男たちの腰には不自然な膨らみ(十中八九、銃である)が見え隠れしていた。
交渉は最初から難航した。相手はこちらの足元を見て、不当に安い単価を突きつけてきたのだ。
「――というわけで、この価格でなければサインはできないな」
スペイン語で高圧的に言い放つ重役。
その瞬間、淳志の隣に座っていた山田が、机にバンッと両手を突いて身を乗り出した。
「ボス」
山田が、淳志に向けて日本語で低く囁く。
「奴らは完全に俺たちをナメてます。ここは一つ、俺がガツンとカマしてやりましょう」
「やめろ山田くん。穏便に……」
「ヘイ、そこのアミーゴ」
淳志が止めるより早く、山田は流暢なスペイン語で相手の重役に向けて話し始めた。
その言葉を、淳志のチート能力である『言語理解』が瞬時に、そして正確に日本語へと翻訳して脳内に響かせる。
(……おいクソ野郎ども。テメェらの安いタマ(命)と引き換えに、そのふざけた紙切れを今すぐゴミ箱にブチ込んでやろうか? 鉛玉を喰らいたくなきゃ、大人しく首を縦に振りな……だと!?)
ただのビジネスの単価交渉で、完全に『ギャングの抗争宣言』をかましている。
相手の重役の顔色がサッと変わり、取り巻きの男たちが一斉に腰の膨らみに手をかけた。
あと一秒でも遅れれば、会議室が血の海になる。
ドゴォッ!!
「アッブゥ!?」
淳志は山田に向けて容赦ない蹴りを叩き込んだ。
悲鳴を上げて床に転げ落ちる山田を完全に無視して、淳志はスッと立ち上がり、最高級の笑顔を浮かべた。
「――と、私の熱血漢な部下は申しておりますが。もちろん、我々はそのような野蛮な真似はいたしません。ただ、御社の提示された条件は、我々の『誇り』を傷つけるものであることは事実です。お互いに血を流す(大損をする)前に、こちらの建設的な提案を聞いてはいただけませんか?」
淳志は、山田のギャングスラングを逆手にとり、『言語理解』を駆使した完璧で洗練されたスペイン語で、堂々と相手の目を見て交渉を再開した。
一歩も引かない淳志の胆力と、流暢な現地の言葉、そして先ほどの山田の狂犬っぷり
そして手品のように机の上に自分達が持っていた拳銃がどんどんと乗せられていく。完全に気圧された重役たちは、やがて渋々と淳志の提示した適正な単価での契約書にサインをしたのだった。
その夜。
メキシコのホテルの自室で、淳志はベッドに大の字になっていた。
「……寿命が縮むかと思った」
脛を抱えて半泣きになっていた山田には、こってりと一時間の説教をしておいた。「映画と現実は違う」と本人は酷く反省していたが、明日にはまたマフィアかぶれに戻っているだろう。
淳志の体には『健康体』のチートがあるため、どんなに時差ボケがあろうと肉体的な疲労は一切ない。
しかし、精神的な疲労(主に部下の尻拭いによる胃の痛み)は別問題だった。
「……よし。ちょっとだけ、帰ろう」
淳志は誰にも見られていないことを確認すると、日本にある自宅のマンションの座標を思い浮かべ、『転移』を発動させた。
一瞬で、日本の深夜のマンションのリビングへと景色が変わる。
キッチンの方から、出汁のいい香りが漂ってきた。
「あら、おかえりなさい小林くん。メキシコは暑かった?」
エプロン姿の香織が、ふわりと微笑んでおでんの鍋をかき混ぜていた。
世界を飛び回るエリート課長(という表向きの顔)の淳志は、こっそりとチート能力で日本に帰還し、愛する女性の手料理を食べてメンタルを全回復させるという『小市民的チート無双』を存分に満喫しているのである。
「ただいま、香織さん。……いやぁ、うちの部下がとんでもなくてさ」
「ふふっ、大変ねぇ。おでん、味が染みてるわよ。食べていく?」
「うん。これを食べるために帰ってきたようなものだからね」
メキシコの熱砂と銃弾の危機から一転。
大根と牛すじの温かい湯気に包まれながら、淳志は「やっぱり平和が一番だ」と、しみじみと平和な日本の夜を噛み締めるのだった。




