「完璧じゃなくても、いいのに」
『……刹那?』
いつものベンチに座る彼を見つけて、私は足を止めた。
「……あ? 何だよ」
刹那は本から顔を上げた。
いつもと同じ、不機嫌そうな顔。
けれど、何となく違和感があった。
『……なんか、顔赤くない?』
「は? 気のせいだろ」
『そうかなぁ』
「そうだよ。いちいち人の顔じろじろ見んな」
そう言って、彼は再び本に視線を落とした。
私は隣に腰を下ろす。
いつもなら、すぐに何か嫌味を言ってくるのに。
今日は妙に静かだった。
『ねえ、刹那』
「……何」
『今日、何する?』
「……好きにしろよ」
『じゃあ、久しぶりにチェスしようよ!』
「……はぁ? お前、どうせまた負けんだろ」
『今日は勝つかもしれないじゃん!』
「寝言は寝て言え」
『今寝てるんだけど!』
いつもなら、ここで鼻で笑うはずだった。
けれど、刹那は小さく息を吐いただけだった。
……やっぱり、変。
私は彼の顔を覗き込んだ。
『……本当に大丈夫?』
「だから、何が」
『なんか元気ないよ』
「……しつけぇな。何ともねぇって」
苛立った声。
それ以上聞かれるのが嫌なのか、刹那は本を閉じて立ち上がった。
「……ほら。チェスすんだろ」
『え、うん』
彼は私の方へ向き直った。
「お前、前回どこでミスったか覚えて……」
そこまで言った瞬間だった。
刹那の身体が、ぐらりと傾いた。
「……っ」
『……え?』
一歩、こちらへ踏み出したかと思うと、そのまま私の方へ倒れ込んできた。
『わっ、刹那!?』
慌てて両腕で受け止める。
けれど、百七十八センチもある彼を支えきれるはずがない。
二人揃ってベンチに倒れ込んだ。
『いったぁ……!』
「……っ、くそ……」
刹那は私の肩に手をついたまま、眉間にしわを寄せていた。
その顔が、驚くほど近い。
『……刹那?』
「……何でもねぇ。ちょっと立ちくらみしただけだ」
そう言って身体を起こそうとする。
けれど、私は彼の額に手を伸ばした。
『……熱っ!』
「……は?」
『刹那、すっごく熱いよ!?』
「……うるせぇ。大げさなんだよ」
『大げさじゃない!』
もう一度額に触れる。
やっぱり熱い。
頬も赤いし、呼吸も少し速い。
『……ねえ、具合悪いんでしょ?』
「……別に」
『嘘つかないでよ!』
刹那は黙った。
そして、悔しそうに顔を背ける。
「……ちょっとだるいだけだっつーの」
『ちょっとじゃないでしょ!』
私は立ち上がり、洋館を指さした。
『中に行こう!』
「……は?」
『ベッドあるかもしれないし!』
「……勝手に入っていいのかよ」
『夢なんだから大丈夫でしょ!』
「……お前、ほんっと適当だな」
そう言いながらも、彼は立ち上がった。
けれど、足元が少しふらついている。
私は慌てて腕を差し出した。
『ほら、掴まって!』
「……いらねぇ」
『いいから!』
「……チッ」
散々文句を言った末、刹那はようやく私の肩に腕を回した。
『……重い!』
「……お前が掴まれっつったんだろ」
『そうだけど!』
「……文句言うな、馬鹿」
その声は、いつもよりずっと弱々しかった。
⸻
洋館の扉は、驚くほど簡単に開いた。
中に入ると、広々とした玄関ホールが現れた。
磨き上げられた床に、大きなシャンデリア。
奥には長い廊下が続いている。
『……すごい』
「……感動してねぇで、さっさと歩け」
『あっ、ごめん!』
私たちは廊下を進み、階段の近くにある部屋を見つけた。
扉を開けると、そこには大きなベッドが置かれていた。
『あった!』
「……何でこんな都合よくあんだよ」
『夢だからじゃない?』
「……便利な夢だな」
刹那は呆れたように呟きながら、ベッドに腰を下ろした。
私は彼を寝かせ、毛布をかける。
『ちょっと待っててね!』
「……どこ行くんだよ」
『冷たいタオルとか探してくる!』
「……別にいらねぇよ」
『いるの!』
そう言い残して、部屋を飛び出した。
廊下の先には浴室があり、洗面台には清潔なタオルが何枚も並んでいた。
キッチンも見つかった。
冷蔵庫を開けると、野菜や卵、牛乳まで入っている。
食器棚にはお皿やコップが揃い、棚には調味料も並んでいた。
『……本当に何でもあるんだ』
不思議な洋館。
けれど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
私はタオルを水で濡らし、急いで部屋へ戻った。
⸻
「……遅ぇ」
ベッドの上から、いつもの悪態が飛んできた。
『まだ五分も経ってないよ!』
「……三分くらいだろ」
『細かい!』
私はベッドの脇に座り、濡れたタオルを彼の額に乗せた。
「……っ、冷てぇ」
『我慢して』
「……雑すぎんだろ」
『文句言うなら自分でやって!』
「……はいはい」
珍しく素直な返事だった。
私は思わず彼を見る。
刹那は目を閉じ、静かに息を吐いていた。
長いまつ毛が頬に影を落としている。
普段はあんなに偉そうなのに。
こうしていると、少しだけ年相応に見えた。
『……ねえ、刹那』
「……何」
『具合悪いなら、最初から言ってよ』
「……別に、大したことねぇし」
『倒れたくせに』
「……うっせぇ」
彼は眉を寄せた。
私は少し迷ってから、静かに聞いた。
『……弱ってるところ、見られたくなかった?』
刹那のまぶたが、ぴくりと動いた。
「…………」
『……刹那?』
「……別に」
短い返事。
けれど、いつものような勢いはなかった。
「……こういうの、慣れてねぇだけ」
『……こういうの?』
「……人に世話されんの」
私は黙って彼を見つめた。
刹那は天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。
「……できねぇことがあんの、嫌なんだよ」
『……そっか』
「……だから、そんな顔すんな」
『どんな顔?』
「……心配そうな顔」
私は少し笑った。
『だって、心配だもん』
「…………」
『刹那だって、具合悪くなることくらいあるよ』
「……知ってる」
『じゃあ、今日はちゃんと休んで』
彼は何も言わなかった。
ただ、少しだけ毛布を引き寄せた。
⸻
しばらくして、私はキッチンで見つけた材料を使い、お粥を作った。
料理は得意というほどではない。
けれど、家で何度か手伝ったことがある。
小さな鍋を持って部屋へ戻ると、刹那は半分眠ったような顔をしていた。
『刹那、ご飯できたよ』
「……何作ったんだよ」
『お粥!』
「……食えんの、それ」
『失礼な!』
彼は小さく笑った。
私が器を差し出すと、少しだけ身体を起こして受け取る。
一口食べて、黙った。
『……どう?』
「…………」
『……刹那?』
「……まあ、食えなくはねぇ」
『それ褒めてる!?』
「……うるせぇな」
そう言いながら、彼はもう一口食べた。
私は何となく嬉しくなった。
⸻
食べ終わる頃には、刹那の顔色も少し落ち着いていた。
私は空になった器を片づけ、ベッドの横へ戻った。
『……少し寝たら?』
「……お前は?」
『ここにいるよ』
刹那は私を見た。
「……暇だろ」
『別に。刹那が寝るまで待ってる』
「……馬鹿じゃねぇの」
『また馬鹿って言った』
「……事実だろ」
そう言って、彼は目を閉じた。
私はベッドの横の椅子に座り、静かに待つ。
やがて、規則正しい寝息が聞こえてきた。
……寝たかな。
そう思って立ち上がろうとした瞬間。
「……おい」
『……え?』
目を閉じたまま、刹那が呟いた。
「……どこ行くんだよ」
『どこにも行かないよ』
「……なら、そこいろ」
私は小さく笑った。
『……うん』
すると、毛布の中から彼の手が伸びてきた。
私の指先を、そっと掴む。
「……勝手に消えんなよ」
熱のせいだろうか。
その声は、いつもよりずっと素直だった。
『……大丈夫。ここにいるよ』
そう答えると、刹那は安心したように息を吐いた。
⸻
どれくらい時間が経っただろう。
窓の外が、少しずつ白く霞み始めた。
『……あ』
いつもの感覚。
夢が終わる。
私は刹那の手を見つめた。
まだ眠っている。
起こさない方がいいかな。
そう思った瞬間。
「……さくら」
掠れた声がした。
『……刹那?』
彼は薄く目を開けていた。
「……行くな」
『……ごめんね。そろそろ起きるみたい』
「……っ、くそ」
彼は私の手を少しだけ強く握った。
「……まだ、いろよ」
『……また会えるよ』
「……んなの、分かんねぇだろ」
そう呟くと、刹那は悔しそうに目を閉じた。
私は彼の手を握り返した。
『……次も、ちゃんと看病してあげるから』
「……二度といらねぇよ、こんなの」
『ふふっ』
「……笑うな、馬鹿」
最後に聞こえたのは、いつもの憎まれ口だった。
けれど、その手は。
私の姿が消えるまで、ずっと離れなかった。
⸻
目を覚ますと、見慣れた天井があった。
『……刹那』
そっと自分の手を見つめる。
さっきまで握られていたはずの手には、もう何の感触も残っていない。
『……大丈夫かな』
夢の中の出来事なのに、あの苦しそうな顔が頭から離れなかった。
私は布団をぎゅっと握りしめる。
『……次は、元気だといいな』
そう呟いて、もう一度目を閉じた。
今夜だけは、いつも意地悪なあの少年が、穏やかに眠れていますように。




