「お前がいないと、つまんねぇ」
第九話「お前がいないと、つまんねぇ」
夢の中の庭園には、いつも花が咲いている。
季節なんて関係ない。
春には桜が舞い、夏には薔薇が咲き、冬には白い雪が降る。
何でもありの、不思議な場所。
けれど、今日はひとつだけ、いつもと違うことがあった。
『……刹那?』
いつものベンチに、彼の姿がなかった。
『……まだ来てないのかな』
私は噴水の縁に腰を下ろし、足を揺らした。
前に会ったとき、刹那はひどく具合が悪そうだった。
熱で赤くなった頬も、苦しそうな呼吸も。
まだ、はっきりと覚えている。
『……大丈夫かな』
そう呟いたときだった。
「……おい」
聞き慣れた声に、勢いよく振り返る。
『刹那!』
「……何だよ、その顔」
木陰から現れた刹那は、いつもどおりの涼しい顔をしていた。
『もう大丈夫なの!?』
「……は?」
『熱! この前すごかったじゃん!』
「ああ……あれか。もう何ともねぇよ」
『ほんと?』
「しつけぇな。見りゃ分かんだろ」
私は彼に駆け寄り、背伸びをして額に手を当てた。
「……っ、おい!」
『……うん。熱くない!』
「勝手に触んな、馬鹿!」
刹那は私の手を払いのけた。
けれど、耳が少し赤い。
『よかったぁ……』
思わず、ほっと息が漏れた。
「…………」
『……刹那?』
「……いや」
彼は妙な顔で私を見つめていた。
「……お前、そんな心配してたわけ?」
『当たり前でしょ!』
即答すると、刹那は一瞬言葉を失った。
それから、気まずそうに顔を背ける。
「……大げさなんだよ」
『大げさじゃないもん』
「……はいはい」
けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。
⸻
『ねえ、刹那』
「何」
『今日は何する?』
「……お前、毎回それ聞くよな」
『だって、一緒に決めたいんだもん』
刹那は小さくため息をついた。
「……じゃあ、洋館」
『え?』
「この前、ちゃんと見てねぇだろ。中」
確かに。
前回は刹那の看病で精一杯だった。
『……探検する?』
「……まあな」
私は思わず笑った。
『刹那から探検しようって言うなんて、珍しい!』
「……うるせぇ。嫌ならいいけど」
『行く行く!』
私は慌てて彼の腕を掴んだ。
「……引っ張んなって!」
⸻
洋館の中は、前回と同じように静まり返っていた。
大きなシャンデリア。
長い廊下。
壁には、見たこともない風景画が飾られている。
『……すごいね。誰のお家なんだろう』
「知らねぇ」
『こんなに広いのに、誰もいないね』
「……夢なんだから、そんなもんだろ」
私たちは一階をひととおり見て回り、二階へ上がった。
寝室がいくつも並び、書斎には天井まで届く本棚があった。
『うわぁ……!』
「……すげぇな」
珍しく刹那まで感心した声を漏らす。
私は本棚から一冊取り出した。
『ねえ、これ読める?』
「……貸せ」
刹那は表紙を眺め、眉を寄せた。
「……フランス語か」
『えっ、分かるの!?』
「少しな」
『すごい!』
「……別に」
そう言いながら、彼は本を開いた。
私はその横顔を眺める。
整った顔立ち。
長い指。
本を読むときだけ、少し柔らかくなる目元。
三年前は、こんなふうに彼をじっと見ることなんてなかったのに。
「……何」
『えっ?』
「さっきから見すぎ」
『み、見てないし!』
「……嘘つけ」
刹那は意地悪そうに笑った。
『……もう!』
⸻
書斎を出ると、廊下の突き当たりに小さな扉があった。
『……あれ、何だろう』
「さあな」
扉を開けると、そこには小さな音楽室があった。
窓際には、美しい黒いグランドピアノが置かれている。
『……ピアノ!』
私は思わず刹那を振り返った。
『ねえ、弾いて!』
「……は?」
『刹那、ピアノ弾けるって言ってたじゃん!』
「……覚えてたのかよ」
『もちろん!』
彼は少し黙ったあと、面倒くさそうに頭をかいた。
「……一曲だけな」
『やった!』
刹那はピアノの椅子に腰を下ろした。
鍵盤に指を置く。
そして、静かに弾き始めた。
柔らかな旋律が、部屋いっぱいに広がる。
最初はゆっくりと。
やがて、流れるように音が重なっていく。
私は思わず息を呑んだ。
いつも偉そうで、口が悪くて。
何かと私を馬鹿にする刹那。
けれど、今はまるで別人のようだった。
真剣な横顔。
迷いなく動く指先。
その姿から、目が離せなかった。
やがて、最後の音が静かに消える。
『……すごい』
刹那がこちらを向いた。
「……何が」
『すっごく綺麗だった!』
「……大げさ」
『本当だよ! もっと聴きたい!』
「……一曲だけっつったろ」
『えー!』
彼は呆れたように笑った。
けれど、再び鍵盤に指を置く。
「……もう一曲だけな」
『……うん!』
⸻
二曲目が終わる頃、私はピアノの隣に立っていた。
『ねえ、刹那』
「何」
『ピアノ、好き?』
彼は少し考えた。
「……嫌いじゃねぇよ」
『そっか』
「……ただ、いつもは間違えねぇように弾かなきゃなんねぇから」
『……うん』
「……ここだと、別に誰も採点しねぇし」
そう言って、彼は鍵盤を一つ押した。
ぽん、と軽い音が響く。
「……気楽だわ」
私は笑った。
『じゃあ、また弾いてね』
「……気が向いたらな」
『約束!』
「……勝手に決めんな」
そう言いながらも、彼は否定しなかった。
⸻
そのあと、私たちは音楽室の窓辺に並んで座った。
庭園が一望できる、大きな窓。
夕焼け色の光が、床に長い影を落としていた。
『……ねえ、刹那』
「……今度は何だよ」
『この夢って、不思議だよね』
「……まあな」
『こんなに綺麗な場所で、何回も会えるなんて』
刹那は窓の外を見つめた。
「……お前さ」
『ん?』
「……もし、ここに来られなくなったらどうすんの」
『……え?』
突然の質問だった。
『……分かんない』
「……だろうな」
『でも、寂しいと思う』
刹那がこちらを向いた。
『だって、刹那と会えなくなるでしょ?』
「…………」
彼は何も言わなかった。
私は少し笑って続けた。
『……刹那は?』
「……何が」
『私と会えなくなったら、寂しい?』
「……は?」
刹那は眉をひそめた。
「……何で俺が」
『えー、寂しくないの?』
「……別に」
『……そっか』
少しだけ、胸がちくりとした。
私は窓の外へ視線を戻す。
すると、隣から小さなため息が聞こえた。
「……ただ」
『……ん?』
「……お前がいねぇと、つまんねぇだろうな」
思わず、彼を見る。
刹那は窓の外を向いたままだった。
「……くだらねぇ話する奴も、いなくなるし」
『……刹那』
「……だから」
彼は一瞬だけこちらを見た。
「……勝手に来なくなんじゃねぇぞ」
私は笑った。
『……うん。約束!』
刹那は小さく鼻を鳴らした。
「……ったく。世話の焼ける奴」
⸻
やがて、窓の外が白く霞み始めた。
『……あ、そろそろ』
刹那がこちらを見た。
「……もうかよ」
『うん。またね!』
私は立ち上がり、手を振った。
すると、刹那が私の手を掴んだ。
「……おい」
『……なに?』
「……次、来たら」
『うん?』
「……また、ピアノ聴かせてやるよ」
私は目を丸くした。
『……ほんと!?』
「……気が向いたらな」
『ふふっ。楽しみにしてる!』
刹那は少しだけ笑った。
「……おう」
けれど、私の姿が薄れ始めると、その笑みが消えた。
掴んでいた手に、ぎゅっと力がこもる。
「……まだ行くなよ」
『……刹那』
「……もうちょっと、ここにいろ」
いつもより低い声が、少しだけ寂しそうに響いた。
『……私も、もう少しいたいな』
そう答えると、刹那は一瞬だけ目を見開いた。
そして、困ったように笑った。
「……だったら、行くんじゃねぇよ。馬鹿」
最後まで離されなかった手の温もりを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
⸻
目を覚ました私は、しばらく天井を見つめていた。
耳の奥に、まだあの旋律が残っている気がした。
『……刹那、すごかったな』
私は布団の中で小さく笑った。
そして、ふと思う。
いつか、あのピアノをもう一度聴けたらいいな。
夢の中でしか会えない、意地悪な男の子。
その存在が、私の中で少しずつ大きくなっていることに。
このときの私は、まだ気づいていなかった。




