「もう少し、頑張ってみよう」
――もう、嫌だ。
目を開けると、いつもの庭園が広がっていた。
白い石畳。色とりどりの花。穏やかな噴水の音。
何も変わらない、美しい景色。
それなのに、今日は少しも綺麗だと思えなかった。
『……はぁ』
私は噴水の縁に腰を下ろした。
いつもなら真っ先に刹那を探すのに、今日はそんな気分にもなれない。
膝を抱え、足元の石畳を見つめる。
頭の中では、さっきまで聞いていた言葉が繰り返されていた。
――このままじゃ、志望校なんて無理だぞ。
――もっと真剣に勉強しなさい。
――どうしてこんな問題もできないの?
分かってる。
そんなこと、言われなくても分かってる。
頑張っていないわけじゃない。
毎日机に向かっているし、苦手な問題だって何度も解いている。
それなのに、模試の成績は思うように上がらなかった。
何が間違っているのかさえ、もう分からない。
『……私だって、頑張ってるのに』
ぽつりと呟いた声は、噴水の音に紛れて消えた。
「……おい」
突然、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、刹那が立っていた。
「何してんだよ、こんなとこで」
『……別に』
「は? 何だよ、その返事」
いつもなら言い返しているところだった。
けれど、今日はうまく笑えない。
刹那は眉をひそめた。
「……お前、何かあった?」
『……何もないよ』
「嘘つけ」
即答だった。
彼は私の隣に腰を下ろすと、少しだけ顔を覗き込んできた。
「……目、赤いぞ」
『……そう?』
「そう? じゃねぇよ」
私は慌てて顔を背けた。
刹那はそれ以上追及せず、黙って隣に座っていた。
その沈黙が、妙に優しかった。
⸻
『……ねえ、刹那』
「……あ?」
『刹那って、勉強得意だよね』
「……まあ、人並み以上には」
『……いいなぁ』
「何だよ、急に」
私は膝に顔を埋めた。
『……私、全然できないんだ』
刹那がこちらを見る気配がした。
『受験勉強、頑張ってるつもりなんだけど……全然成績上がらなくて』
「……ふーん」
『先生にも、このままじゃ志望校は無理って言われた』
言葉にすると、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
『お母さんにも怒られた。もっとちゃんと勉強しなさいって』
「……」
『でも、ちゃんとやってるの。毎日やってるのに……』
声が震えた。
『……何が駄目なのか、もう分かんない』
ぽたり。
膝の上に、小さな雫が落ちた。
……あ。
泣くつもりなんてなかったのに。
『……っ、ごめん』
慌てて目元を拭う。
『こんな話、つまんないよね』
「……おい」
『……ごめんね、刹那』
「だから、何で謝んだよ」
少し苛立ったような声。
私は顔を上げられなかった。
すると、刹那が小さくため息をついた。
「……お前さ」
『……うん』
「頑張ってんだろ?」
その言葉に、胸が詰まった。
『……うん』
「じゃあ、何で泣いてんだよ」
『……だって』
「結果出ねぇからって、今までやったこと全部無駄になるわけじゃねぇだろ」
私はゆっくり顔を上げた。
刹那は真剣な顔をしていた。
「努力したら絶対報われる、なんて綺麗事は言わねぇよ。でも、やり方が間違ってんなら直せばいいだけだろ」
『……でも、どうやって……』
「それを今から考えんだろうが」
当たり前のように言われて、私は言葉を失った。
「……一人で分かんねぇなら、誰かに聞けよ」
『……誰かって』
「……俺がいんだろ」
思わず、彼を見つめた。
『……刹那が?』
「他に誰がいんだよ」
『……でも』
「何」
『……迷惑じゃない?』
刹那は呆れたように眉を寄せた。
「お前、俺のこと何だと思ってんの」
『……え?』
「三年も一緒にいて、今さら遠慮してんじゃねぇよ。馬鹿」
その瞬間。
我慢していた涙が、また溢れた。
『……っ、うぅ……』
「……は?」
刹那が固まった。
「おい、何でまた泣くんだよ」
『……だって……』
「……ったく」
彼は困ったように頭をかいた。
そして、少し迷ってから。
私の肩に、そっと腕を回した。
『……え』
そのまま、私の頭を自分の肩へ引き寄せる。
「……ほら」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
「……今は泣いとけ」
『……刹那……』
「……誰も見てねぇし」
私は彼の服をぎゅっと掴んだ。
『……っ、頑張ってるのに……』
「……ああ」
『……全然、できなくて……』
「……うん」
『……悔しいよぉ……』
刹那は何も言わず、私の背中をゆっくり撫でてくれた。
いつも意地悪で、偉そうで。
優しい言葉なんて滅多にくれないくせに。
どうして、こういうときだけ。
こんなに優しいんだろう。
⸻
しばらくして、ようやく涙が落ち着いた。
『……ごめん。服、濡らしちゃった』
「……きったねぇ」
『ひどい!』
「冗談だっつの」
刹那は小さく笑った。
そして、私の額を指で軽く弾く。
「……ほら、行くぞ」
『……どこに?』
「洋館。勉強すんだろ」
『……えっ、今から!?』
「当たり前だろ。善は急げって言うだろうが」
『……刹那って、ほんと容赦ないよね』
「嫌ならやめるけど」
『……やる!』
彼は満足そうに口元を緩めた。
⸻
洋館の書斎には、大きな机があった。
刹那は本棚から参考書を取り出し、机に広げる。
『……ねえ、刹那』
「何」
『なんで私が苦手な数学の本、あるの?』
「……夢だからじゃねぇの」
『便利だねぇ』
「……ほんっとな」
刹那は椅子を引き、私を座らせた。
「で、何が分かんねぇの」
『……全部』
「……は?」
『……全部、分かんない』
「……お前なぁ」
彼は深いため息をついた。
「じゃあ、まず何が分かんねぇのか調べるとこからだな」
そう言って、簡単な問題をいくつか書き始めた。
私は鉛筆を握り、必死に考える。
けれど、途中で手が止まった。
『……分かんない』
「……どこまで分かった?」
『……ここまでは』
「じゃあ、そこまでは合ってる」
『……え?』
「最初から全部できねぇわけじゃねぇだろ」
彼は私のノートを指さした。
「ここで符号間違えてんだよ。ほら、もう一回」
『……あ』
言われたとおりに解き直す。
すると、今度は答えが合った。
『……できた!』
「……そりゃよかったな」
『刹那! できたよ!』
「見りゃ分かるわ」
そう言いながら、彼は少しだけ笑った。
そのあとも、刹那は根気よく付き合ってくれた。
間違えるたびに容赦なく指摘されたけれど、決して馬鹿にはしなかった。
私が分からないところまで戻って、何度でも説明してくれた。
『……ねえ、刹那』
「……今度は何」
『教えるの、上手だね』
「……お前が理解すんの遅ぇだけだろ」
『もう!』
彼は鼻で笑った。
けれど、次の問題を説明するときには、さっきより少しゆっくり話してくれた。
⸻
気づけば、窓の外は夕暮れ色に染まっていた。
『……疲れたぁ』
私は机に突っ伏した。
「たったこれだけで?」
『これだけって! いっぱいやったじゃん!』
「……まあ、最初よりはマシになったな」
『……ほんと?』
「ああ」
刹那は私のノートを閉じた。
「ただ、解き方覚えるだけじゃ駄目だぞ。何でそうなるか考えろ」
『……うん』
「あと、一気に全部やろうとすんな。できねぇとこ一個ずつ潰せばいい」
『……分かった』
私はノートを見つめた。
さっきまで、あんなに嫌だった勉強。
でも今は、もう少し頑張ってみようと思えた。
『……ありがとう、刹那』
「……別に」
『私、また頑張れそう』
彼は少しだけ目を細めた。
「……ならいい」
その言葉が、何だか嬉しかった。
⸻
やがて、窓の外が白く霞み始めた。
『……あ』
刹那もすぐに気づいた。
「……もうかよ」
『……うん』
私は立ち上がった。
『今日は本当にありがとう』
「……何回言うんだよ」
『だって、嬉しかったんだもん』
刹那は少し黙ってから、私の手を掴んだ。
「……まだ行くなよ」
『……刹那』
「……あと一問くらい、教えてやるから」
私は思わず笑った。
『……ふふっ。刹那って、本当に勉強好きだね』
「……そういう意味じゃねぇよ」
『……え?』
彼は私の手を握ったまま、顔を背けた。
「……何でもねぇ」
そして、小さな声で続けた。
「……次も、分かんねぇことあったら聞けよ」
『……うん!』
「……一人で泣いてんじゃねぇぞ」
私は笑った。
『……約束する』
刹那はようやく、少しだけ笑った。
「……ならいい」
その手の温もりを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
⸻
目を覚ますと、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
机の上には、昨日途中で投げ出した問題集。
私はしばらくそれを見つめていた。
それから、布団を抜け出して机に向かう。
『……もう一回、やってみよう』
鉛筆を握る。
昨日は分からなかった問題。
けれど、今なら少しだけ解ける気がした。
――できねぇとこ、一個ずつ潰せばいい。
刹那の声を思い出して、私は小さく笑った。
『……ありがと、刹那』
そして、もう一度問題集を開いた。




